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通信が切れると、再び天井の蓋が開いた。風が吹いているようで、奥のドアから出てきた麻里奈の髪が揺れている。彼女の顔は薄型のガスマスクで覆われ、手には注射器を握っていた。痙攣している女性の腕を取り、注射器で何かを投与する。すると女性は動かなくなった。
「彼女に何を投与したの?」
中に聞こえるよう大きな声で問い掛ける。麻里奈は天井の蓋が閉まるのを見届けると、マスクを外してこちらを見た。
「安心しな。殺しちゃいないよ」
床に散乱した髪の毛を見て視界が滲む。
ごめんなさいと、意味のない謝罪を心の中で繰り返した。
「――何これ? まともに映ってないじゃん」
こちら側へ戻ってきた麻里奈に睨まれて気付いた。状況に困惑していたせいで操作を誤ったようだ。女性の顔に合わせてあったはずのカメラは、途中からガラス部屋の壁を捉えていた。
「まぁいいや、実験は失敗だったから。データがあってもなくても最初から作り直しだ。あの《D.H.》は回復しても精神がヤられてるかもしれないから、次は脳に影響のない実験で使うとするよ」
命を使い回すかのような扱い。
心が壊れそうになる。
「その様子じゃ、片付けを手伝えって言っても無理そうだね。中の掃除と天井のフィルター交換を押し付けたくて夏希を呼んだのに」
「……」
「一人で片付けるのも面倒だけど、足手まといになるくらいならいない方がいいか。先に《研究室E》まで送ってくよ」
麻里奈のあとについて実験室を出る。廊下を無言で歩きながら彼女の背中を睨み続けた。形ある何かを憎んでいないと、自分がおかしくなりそうで怖かったのだ。
《研究室E》に戻ってきたものの、どうにもやる気が起こらない。溜め息ばかりついてしまう。期日内に仕上げればいい仕事だ、今日はやめてしまおう。半日程度の遅れなら取り返すことができる。
食事する気分にもならず真っ直ぐ部屋へ戻った。服を脱いで洗濯機へ放り込み、シャワーを浴びる。身体を綺麗に洗っても心は荒んだまま……。
虚しさだけを抱きながらベッドに寝転がっていると、やがてインターフォンの音が聞こえた。今日は一日一回の様子見に来なかったため、天馬が確認しに来たのかもしれない。ドアのロックを解除すると、予想どおり天馬が立っていた。
「具合でも悪いのか?」
「どうして?」
「随分切り上げる時間が早かっただろう。体調が悪いなら薬を用意させる」
「……薬は要らないから、少しだけ話に付き合ってもらえない?」
あまり期待せず訊いたが、彼は「分かった」と言い部屋に入ってくれた。ローテーブルを挟み、向かい合って腰を下ろす。
「麻里奈から今日のことを聞いてない?」
「何だ」
「新薬の実験に行ってきたんだけど」
「……また連れていかれたのか」
「何の薬かは聞き忘れちゃったけど、失敗だと言ってた。……怖かった」
怯えていた女性の姿が脳裏に焼きついて離れない。監禁されていようと脅されていようと、私がしていることは組織の人間と同じだ。自分はもう〝悪〟の立場にいるのだと痛感させられる。
「ステルリンの実験のあと、あなたや麻里奈と話をして……自分の中で、何かが吹っ切れたと思っていたはずなのに。あんなふうになっている人の姿を目の当たりにしたら……やっぱり駄目ね」
「お前は〝普通〟の人間だ。一度や二度で慣れるはずがないし、慣れる必要もない。麻里奈には『夏希を実験に連れて行くな』と繰り返し伝えたんだが……やはりあの女に指示・忠告の類は無意味か」
「あの人にとって私は、都合よく利用できる駒でしかないと思うから。天馬のせいじゃない」
「きっと夏希に限った話ではない。俺含め、研究を共にしている人間もみな駒としか考えていないだろう」
「そう……なのかな。麻里奈、なんだかんだ言いつつ天馬のことは慕っているように見えるけど」
「誰かに慕われようが嫌われようが、どうでもいい。ここでは仕事さえしていればいいんだ」
そう言い残し、天馬は部屋を出て行った。
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