7人が本棚に入れています
本棚に追加
「あなたも麻里奈のことが心配なんでしょう? だから昨日は落ち着きがなかったんじゃない?」
「……まぁそういうことで構わない。もう雑談は終わりだ、仕事にかかるぞ」
天馬に続いて部屋を出る。
廊下を歩きながら指示を受けようとしたところ、前方から大地が歩いてくるのが見えた。「おう」と軽く手を振る彼の前で、天馬と共に立ち止まる。
「悪いんだけど、今から夏希ちゃん借りていい?」
「何故だ」
「新薬の第一をやるんだけどさ。もう一人助手が欲しいんだ」
実験の手伝い……残酷なことに付き合いたくないが、抵抗は許されないだろう。天馬も他の研究員の前では、私に対して甘く接することはないはずだ。
「こちらも夏希に頼みたい仕事があるんだ。他のチームの人間には声を掛けたのか?」
「うん。でもみんな忙しいらしくてさ。夏希ちゃんを借りればいっかと思って」
天馬は返事をしない。
迷惑を掛けたくない思いで、自分から「手伝いに行く」と答えた。大地が「いいよな」と確認し、天馬も頷く。
「よし。じゃあ夏希ちゃん、行こっか」
無邪気な笑みを浮かべながら、大地は私の手を引いて歩き出した。エレベーターに乗り込んでも、彼は私の手を握ったまま。離してほしいとも言いにくい空気だ。自分の直感が、嫌なものを知らせるサインを送っているような――妙な感覚。
エレベーターを降りて着いた先は《実験室D》と書かれた場所だった。これまでに見た実験室と同じ造りだ。モニター前には男性研究員が一人座っている。
「夏希ちゃんはこっちに来てもらうよ」
大地に引っ張られガラス部屋へ入る。
モニター前にいた研究員も中へ入ってきた。
「彼女が《D.H.》ですね」
研究員から発せられた言葉に、慌てて大地を見上げる。
直後、腹部に衝撃が走った。
痛みでよろめく。
「ど……して……」
苦痛に耐えながら声を絞り出す。大地にお腹を殴られたのだと気付くまでに時間は掛からなかった。大きな手で首を鷲掴みにされる。
「悪いな夏希ちゃん。《D.H.》が必要なんだ」
「……私、を?」
「でも在庫が足りなくてさ。夏希ちゃんを使うことにした」
「私は……あくまでここの研究員なのに」
「大して新薬の研究に携わってないんでしょ? それなら《D.H.》として使った方が有意義ってモンだよね」
両手で大地の指を剥がそうとしても、力が強くてびくともしない。首が締まり呼吸が苦しくなる。
「大丈夫、腕を一本もらうだけだから。死にはしないよ」
このままでは腕を切り落とされてしまう。抵抗してもどうにもならないと頭では理解しているのに、恐怖で逃げたいという思いが勝り、大地を蹴っていた。その弾みで首から手が離れ、大地が後ろによろめく。
「ったく。逃げられないってことが分かんないかなぁ」
――そう。
たとえここから走り去ったとしても、私一人でこの階から出ることはできない。逃げる手段はないのだ。
大地が再び手を伸ばしてきた瞬間、ガチャッと音がした。開いたドアの前に天馬が立っている。彼は私たちの様子を見て事情を察したようだ。歩くペースを速めガラス部屋へ入ってきた。
「先ほどの話がどうにも引っ掛かって来てみれば……。お前、夏希を使うつもりだったのか」
「〝さっきの話〟って何だよ」
「俺と夏希の問題だ。大地には関係ない」
「あっそ。こっちは在庫が足りなくて困ってんだ。腕を一本もらうくらいいいっしょ?」
「夏希は俺の監視下で働いている人間だ。上からも世話役を命じられている。大地の一存で消費していい実験台ではない」
「そうは言ってもさ、他に誰を使えってんだよ。次の《D.H.》を確保するための薬品散布まで、あと一週間もあるってのに」
「……脚なら用意できる」
「いいよ、それでも。骨と筋肉の切断面が欲しいだけだから」
その発言に鳥肌が立った。
一体何の実験をするつもりなのだろう。
「で? その脚はどこにあるんだよ」
「俺の脚を使え」
一瞬、自分の耳を疑った。
俺の脚……天馬の脚!?
「正気?」
私が声を発する前に大地が訊ねていた。
「腕だと研究に支障が出る。脚なら構わない」
平然と答える天馬の袖を、すがるように引っ張った。彼の顔は無表情というより、生気を感じられないほど冷めている。対する大地は訝しげだ。
「天馬がいいって言うならいいけどさ。自分の身体を差し出してまで庇うなんて、夏希ちゃんのことが好きなの?」
「そういう感情ではない。監禁している女とはいえずっと面倒を見てきたんだ。これから任せたい仕事もたくさんある」
「まぁそういうことなら」
大地の隣で黙っていた研究員が「麻酔の用意をします」と言い、奥の部屋へと移動していく。大地はニカッと歯を覗かせて笑った。
「麻酔が効いたら、鉈でスパーンと切り落とすね」
背筋が凍りついた。
この人は完全に狂っている。
最初のコメントを投稿しよう!