黒狼と白い花

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 それから、ノアの心はいつもにまして上を向いた。  守るべき存在は自分にも存在意義を感じさせてくれる。学校をしばらく休んで、ノアは勉強と赤子の世話に明け暮れた。  名前も付けた。ミモザ、と言う名前。赤子の纏う雰囲気が、甘く柔らかいミモザみたいだ思ったからだ。  ノアはミモザに付きっきりで世話をした。  もちろん羊の子なんて見たこともなかったから、ノアも手探りだった。  羊の子に狼用のミルクを飲ませてよいのか不安だったから、いろんなお店から牛乳や山羊のミルクを買ってきたりして確かめた。しかしどれも普通に飲んだミモザが、お腹を壊すことはなかった。  当然おむつがえも初めてだ。ノアは妹だったから。図書室から本を借りてきて、ページとにらめっこしながら替えた。今となっては慣れたものだが、つい最近までは随分手こずったものだ。  その他にだって、やらなければならないことはたくさんあった。  泣いたら宥めてあげないといけない。服だって買わないといけない。ミルク離れしたときのための離乳食の勉強だって。  ノア自身の勉強と両立させるのは、果てしなく難しいことだった。  それでもノアはやめなかった。  頑張った後のミモザの笑顔が、大好きだったから。  ずっと心の奥で欲しがっていた、ノア自身を見て浮かべられる笑顔だったから。  もちろん赤ちゃんだから何もわかっていないというのは知っているけれど、それでも嬉しくて。  ノアはミモザの世話を頑張った。  草食動物というのは成長が早い。数ヶ月が経てば赤子から小さな少女になっていた。幼稚園にも通うようになり、確実に成長していた。  いつもは幼稚園にいるミモザだけれど、本当はお出かけが大好きだ。休日はいつも、どこかに行きたいとねだってくる。  だから今日ノアは、ミモザと一緒に散歩に行った。少し遠くの、公園だ。 「ひろーーい!」  ミモザは広い原っぱを駆け回っている。無邪気な仕草に、楽しそう、とノアは微笑む。  するとミモザは大きく手招きした。 「ママも遊ぼうよ!」  思わぬお誘いにノアは目を瞠った。  もう高校生なのだ。公園で駆け回るというのも…… (でも、一人で遊ぶのもつまんないよね)  そう思い直す。  せっかくのお出かけなのだし、付き合ってあげるか。  ノアはそう決めて、ぱたぱたと尻尾を振って立ち上がった。 「わかった。じゃあミモザ、鬼ごっこしよう」  そう呼びかければ、ミモザはぱあっと顔を晴れさせる。 「やったー!ママが鬼ね」 「十秒数えたら、捕まえにいくからね」  ノアは優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。  広い野原の中、駆け回り戯れる小さな羊と大きな狼。  なんと歪な光景であろうか。  しかし、そんなことどうでもいいくらい、二人は幸せなのだ。  そんな二人を、陰から見ている人物がいた。  ◇◇◇ 「おい、なんだその羊は」  陰から見ていた人物───一匹の狼が尖った声でノアに問うた。  黒々とした毛並み、大きな体に鋭い朱の瞳。口からは白い牙が垣間見える。 「兄さん……どうしてここに」  ノアはただ驚いた声を出すしかなかった。  そう、目の前にいるのはノアの忌み嫌う兄───カルロスだ。人を怖がらせ虐げる、ノアの軽蔑する兄。遠くの高校まで行ったのは、彼から離れたいせいでもあった。  そんな彼が、今ノアの目の前にいるのは、どうして。  そう妹が思っているのは、言わずして分かったようだった。ふん、と軽く息を吐く。 「妹を心配して、ちょっと来てみたんだよ。そしたら何だこいつは。ベゾアール?」  カルロスは赤い瞳の奥をちかりと光らせてミモザを見下ろした。その野獣のような瞳に、ぞっと恐怖が走る。強くミモザを抱き寄せた。 「何でお前はベゾアールと一緒にいる?アレは北の島じゃ生まれないだろ」 「……別に、何だっていいでしょ。それで、何?わたしに何か用なの?」  まるで獲物を見定めるような目から逃れてしまいたくて、ノアは先を急かす。  じっと見上げると、カルロスは嗜虐的な笑みを浮かべた。 「もともとお前を見つけたから声をかけただけなんだけど……目的が変わったな」 「………」  含みのある言葉に恐れをなし、ますます強くミモザを抱きしめるノア。  そんなノアに、カルロスは長く鋭い爪が生え揃った手を差し出した。 「お前のベゾアール。それ、俺によこせよ」  まるで遊びに誘うかのような軽い口調。  しかしそれは、ノアにとっては到底許可できない願いだ。 「っはあ!?」  ノアは激しく唸り声を上げた。 「そんなことできる訳ないでしょ!ふざけないで!!」  娘同然のミモザを守るように、ノアは吠える。  カルロスは不満げに鼻を鳴らした。 「兄からの命令だ。目上の人間の言うことは聞け、そう教わってきただろ。小さいときはできてたじゃないか。今回だって一緒だ」 「一緒な訳ない!!」  まるでこちらが被害者と言わんばかりの不服そうな兄を、ノアは睨みつけた。  カルロスの言うとおりだった。規律と調和を重んじる狼にとって、目上の人の言ったことに下の者が従うのは当然のこと。ノアも例に漏れず、目上の人であるカルロスの命令に背くことは許されなかった。  そもそもノアは内気で控えめで、命令に逆らうことは得意ではない。  だから兄にも従っていた。自分のおもちゃやお菓子を取られようと、ただ黙ってそれを眺めることしかできなかった。  でも今回は違う。  おもちゃやお菓子と一緒くたになんてできない、大切な少女。  この子だけは、渡せない。  相手が兄なら尚更に。 「……兄さんがなんと言おうと、ミモザは渡さない。さっさとわたしの目の前から消えて」  ずっと従ってきたカルロスに、ノアは生まれて初めて牙を剥く。その言葉に全力で抗い、奪われまいと低く唸る。 「………」  幼い頃とは違う、思い通りにならない妹の姿にカルロスは苛立ったように毛を逆立てた。刃物と見紛うような白い牙を見せつけて、勢いよくノアにつかみかかる。抱きかかえられたミモザが小さく悲鳴を上げた。  カルロスは目の奥をギラギラと光らせた。 「うるせえよ。渡せ。そうすりゃお前には何もしない」 「嫌」  おどおどとしていたはずのノアは瞳に怒りを滲ませ、鋭く拒んだ。 「あなたに渡すくらいなら死んだっていい」  それは、本気の抵抗。何があろうとお前に下ることはないという強い意志。  反抗的な態度にカルロスは舌を打ち、ノアを憎々しげに見つめる。そして、 「……そうだ」 はたと何か思いついたように舌なめずりをした。嗜虐的な笑みを取り戻す。 「それなら、お前ごと攫ったっていいんだぜ」 「はあ?」  ノアは怪訝な声を返した。カルロスは歪んだ笑みを浮かべる。 「お前も知ってるはずだ。紅眼の黒狼は珍しい。しかもお前は気弱で命令には滅多に逆らわない。最高じゃないか」 「何が言いたいの」  嫌な予感が胸を刺し、初めて声が震えた。それを隠して、ノアは睨み続ける。  カルロスは獣の顔をした。 「だから、お前ごとベゾアールを攫う。お前とそいつ、両方に価値があるからな。それで御貴族様に売りつける。そうすりゃ、いい小遣い稼ぎになるぜ」 「………っ」  ノアは何も言えなかった。先ほどは微塵も感じなかった恐怖が駆け上る。  貴族に売られる。ミモザも、ノアも。  買われたあと、どうなるかなんて、そんな─────  想像もしたくない。  ノアはミモザを抱き上げた。  今すべきことは何か。  ミモザを連れて、逃げることだ。 「離れて!」  ノアは自身を掴む腕を振りほどこうと暴れる。しかしカルロスはますます力を強くし、二人を抱え込んだ。  狼の男である兄に、子羊と狼の少女が打ち勝つ道はない。 「やめて!やめてよ!!」  もうノアには、キャンキャンとか弱い悲鳴を上げることしかできなかった。ひたすらにミモザを抱きしめ守る。  怖い。怖いよ。  誰か、助けて────  その時だった。 「ヴルルルルル………」  ぎゅっと抱きしめていた腕の中で、低い唸り声がした。  次の瞬間、小さな羊が大きく膨らむ。それはノアよりもずっと大きく逞しく姿を変えて、ノアを守るように立ちふさがった。  一匹の大人の狼がそこにいた。ふわふわと柔らかく遊ぶ鬣。すらりと伸び、カギ爪のついた手。纏う純白の毛皮。そして大きな、緑の瞳。 「ミモザ……」  ノアは狼を見上げ呆然と呟いた。  ミモザはベゾアール。  いつもは羊だけれど、大切な人を守るときには狼となって敵に立ち向かう半羊半狼の気高き勇者。  ミモザにとって『大切な人』はノアで、『敵』はカルロスだった。 「ひいっ……」  見ればカルロスは、怯えた顔でミモザを見上げている。しかしそんな態度に容赦をくれてやるようなミモザではなかった。 「ママを苛めるな!!」  ミモザは大きく咆哮を上げた。怒りでその身体が何倍にも膨れ上がる。  激しく唸り声を上げ、緑の瞳を爛々と輝かせて、敵に襲いかかった。  それから警察が来て、誘拐の未遂でカルロスは連行されていった。洗えば何か罪が出てくるかもしれないし、すぐに刑務所から出られることはないだろう。  静かになった公園の端で、ノアはミモザと向かい合った。 「ごめんね、ミモザ。わたしのせいで危ない目に遭わせちゃったね」  そんなことない、と否定するように輝く緑の瞳を、ノアは見つめ返した。 「やっぱり、ミモザは向こう───南の島に行ったほうがいいのかもしれないね。兄さんみたいに考える狼は羊よりずっといる。今回は大丈夫だったけど、次はそうじゃないかも」  今度こそミモザが攫われてしまったら、と思うと背筋が冷えた。  羊よりも狼のほうがずっとベゾアールの希少性を理解している。そして羊よりも狼のほうがずっと過激な考えを持つ人もまた多い。  このような事件がまた起こらない保証はなかった。  しかし羊の住む南の島なら、その心配は無用だ。珍しいとはいえ時には狼として牙を剥く羊を攫おうとする者は殆どいない。向こうのほうが安全であることは明らかだった。  そして羊の人々は愛情深い。北の島からやってきたミモザにも、心優しく接してくれるだろう。  何もかもがいい。デメリットなどない。  痛む自分の胸を無視すれば。  そう思ったところでふとミモザを見下ろし、────ノアは思わず目を見開いた。  ミモザが泣いていた。  大きな雫が、ペリドットの瞳から零れ出た。 「ミモザ……?」  驚くノアの服を、小さな手が掴んだ。 「ママは……ミモザのこと、嫌いになっちゃったの?だから向こうに行けって言うの?」  震える声が、乞うように問う。 「違うよ!」  ノアは激しく首を振って、ミモザを抱きしめた。 「違う!嫌いになんてならないよ!……わたしだって本当は嫌だけど、向こうのほうが安全だから……」 「嫌っ!」  ミモザが大きく声を上げた。ノアはその声に驚き、思わず顔を上げる。 「どれだけ向こうがよくても、ママが一緒じゃないと嫌!」  ミモザは高く叫んだ。  それは、二人の間に確かに結ばれた絆。血は繋がっていなくとも、お互いを何より愛する気持ちの証。 「………」  ノアはその言葉を静かに噛み締めて、ぎゅっとミモザを抱きしめる。  ミモザは嫌だ嫌だと繰り返しながらノアにしがみついている。  ノアはそっと囁いた。 「……わかった。向こうには連れて行かない。その代わりに、何としてでもわたしが守る」  悪いやつを絶やすことができぬのなら、こちらが守ればよい。  大丈夫だ、きっとできる。だってノアは勇敢な狼だから。  ミモザが嬉しそうにぱっと顔を上げた。ノアは優しく、愛おしげに微笑む。 「じゃあ、帰ろうか。わたしたち、二人のお家に」  狼と羊。互いに相容れない存在。  狼は羊に涎を垂らし、羊は狼を忌み嫌う。  それでも、狼と羊、互いに寄り添い続けるような。想い合い、愛し合うような。  そんな二人がいたっていい。
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