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「お母様、今なんと言いました?」
梨々花は目の前の人物に恐る恐る声をかけた。
老舗旅館『華乃家』。母屋との境にある洋風の応接室での昼下がりだった。
緊迫した部屋に嫌味をたっぷり含んだ溜息が漏れる。55歳にしてなお艷やかな髪をキッチリと結い上げ、背筋をしゃんと伸ばした和服美人。夫の母親であり、梨々花にとっては義母にあたる葛見牡丹は、冷たい流し目をこちらに向けて言う。
「器量も悪い上に耳も頭も悪いようね。1つ言われたら10を理解しなさい。いいですか?まず最初に話を聞く姿勢です。こういったソファー席での座り方ですが…」
肝心の話から逸れ小言が続きそうになって、梨々花は慌てて弁解した。
「いや、聞こえてましたよ?聞こえてたけど、私の想像を遥かに越えたお話だったから、ほら、聞き間違いかなぁーって」
「だまらっしゃい!!」
ぴしゃりと牡丹が声をあげ、その途端、ちょうどお茶を給仕しようとしていた華乃家の従業員がビクッとして湯呑みを取りこぼした。
「も、も、も、申し訳ありません女将」
明らかに取り乱した従業員は可哀想になるくらい慌てふためいて、布巾をお持ちしますとその場を去っていった。
梨々花だけでなく従業員にも高圧的な態度をとっているんだろう。そのうちパワハラで訴えられるんじゃないだろうか。
高級な和服にしみができているのを忌々しくみつめ、コホンと1つ空咳をして、牡丹は声を整える。
「梨々花さん。言葉遣いはお教えしましたよね?あと、目上の人の話を遮らないこともお伝えしたはずです。あなたには本当にいつもガッカリさせられます…」
牡丹の言葉はいつも一方的だ。反応を返すことすら咎められる。梨々花に関しては、その出自から明らかに嫌悪されていた。でも、
「いえ、もう教えていただかなくてけっこうです。私、この家を出ますから。桜輔さんが死んじゃったんだから、今、この家に私が残る意味がないもの」
「状況が変わりました。あなたのお腹に桜輔の子がいるのでしょう?」
「そうみたい。病院行ったら4ヶ月だって」
「でしたら選択肢は2つです。お腹の子をこの家に残してあなただけ出ていくか。もしくは桜輔の弟、我が家の次男である楓月と結婚するかです」
ぶちん、と音がした。梨々花の中でかろうじて我慢していた何かがこと切れた音だ。
「そんなこと、できるわけ、ないだろーっっ!」
もう言葉遣いなど気にしてられない。
猫かぶる意味もない。
目の前の重厚なローテーブルがもし“ちゃぶ台”だったら、ひっくり返してやりたいところだ。
(義母はなんと言った??
お腹痛めて産む我が子をこのキーキーババアにあずけて私だけ出て行けと?
もっと信じられないのは、会ったこともない次男と結婚しろだと??)
「ぜーーーっったい、嫌!!!」
梨々花は革張りのソファーから立ち上がって、踵を返した。部屋の入口で布巾を持った従業員が目を合わせないように俯いている。
「お待ちなさい!!」
牡丹に後ろから声をかけられる。
「私、この家から出るから。籍をうつしとくから、もう関係ないですよね。じゃあ、さようなら」
「お腹の子はどうするつもりですか?」
「おろすわよ!そうすればあんたと私は赤の他人に戻る!それで文句ないでしょ!?」
まだ何やら言ってたけど、気にせずに出ていった。
立派な門柱をくぐり抜けた後、一度だけ振り返った。
この土地で80年の歴史を誇る高級老舗旅館『華乃家』。
僅かな時間だったけど家族と呼べる場所を作ろうと夢見たところ。
もう二度と来ることはないだろう。
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