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「あの黒イケメン、今日も来てるらしいよ」
「え、ヤバ。今日私の通勤着スウェットだ」
「昨日も来てたって。誰のお見舞いなんだろね。奥さんかな?」
「ヤダぁ、私も見舞って欲しぃ」
夜勤明けの梨々花が女子更衣室に入ると、ロッカーの反対側では賑やかなガールズトークが繰り広げられていた。
梨々花の勤め先は大きな総合病院の系列の高齢者施設。病院の離棟にあって、職員入口や更衣室は病院と共同なのだ。
若い看護師たちの中で最近話題なのは、待合室ロビーにちょくちょくあらわれる全身黒コーデのイケメンの話らしい。
梨々花には縁遠い話だ。
「お疲れ様です」と軽く声をかけて更衣室をあとにする。
閉鎖された場所から屋外に出ると、16時間ぶりの外の空気はねっとり重く、目を開けていられないほどの光に満ちている。
契約マンションは病院前からバスに乗って二駅先だ。歩けなくもない距離だけど、お腹が張ってどうにもならない。
(少し休憩してから帰ろう)
梨々花は敷地内の広い遊歩道の一角にあるベンチに腰掛け、マイボトルを取り出してお茶を一口飲んだ。ふぅとため息をついた時、遠くの平面駐車場に例のイケメンを見つけた。
「あれね。黒い服ばっか着てるイケメン」
たしかに、あれは患者じゃない。姿勢と足取りがしっかりし過ぎている。迷いや不安を感じさせない佇まい。柔らかい色の服を着た見舞客が多い中で、グレーのシャツに黒のスラックスは異彩を放っていた。
「なんかガラ悪そう。ホストみたい…」
遠かったから大丈夫と思って不躾に見すぎたかもしれない。ふいに彼が視線を梨々花の方に向けた気がした。慌てて視線をずらす。
しかし、イケメンはなぜか梨々花の方に大股で近づいてきた。しかも鋭い眼光で睨みつけるような表情、なんか怒っているような雰囲気だ。
梨々花はスマホに視線を落としてやり過ごそうとした。
検索サイトを開くと以前調べた「家で出産する方法」の検索履歴。調べている風を装ってスクロールしていると、スマホ画面に大きな影が落ちる。
黒イケメンが目の前に立っていた。
そしてその顔を間近で見て梨々花はハッとした。
この顔、知ってる。
スッと通った鼻筋。深く切れ長の涼し気な目元。頬から顎にかけてのライン。
愛していたあの人にそっくり。
いや、桜輔を少し若くして、少し線を細くして、思いっきり苦虫を噛み潰させた感じか。
反射的に、梨々花は逃げた。
後ろを全く見ずに全速力でかけた。
「やばい、やばいやばいやばいやばい」
これは絶対、華乃家の刺客だ。
建物の角で、走りながら後ろを確認しようとしたらバランスを崩した。
あっ、転ぶ!!
そう思った次の瞬間、梨々花は硬い地面ではなく温かい腕に抱きとめられていた。
瞬時に走って離れたつもりが、黒イケメンはすぐ間近に追いかけてきていたのだ。
「いやだ!やめて触らないで」
お腹の子、おろしてないのバレてしまう。
必死に抵抗するが腕の力は弱まるどころか強くなる。
「や、やめてーっ」
「落ち着け」
妙に静かな深い声。そのうちにお腹に激痛が走った。
「いた、イタタタ」
叫んだ瞬間に、ふわりと身体から重力を感じなくなった。目の前に黒イケメンの横顔がある。梨々花はいわゆるお姫様抱っこで抱えあげられていた。
「やめて、おろして、イタタタ、ちょっとどこ行くの…」
「都合よくそこに病院がある」
血の気が引いた。
これはいよいよ妊娠がバレる。華乃家バレも痛いが、職場バレもまずい。
「ダメ…ホントにダメなの、病院だけは絶対に…」
梨々花の記憶は、そのあたりで薄い靄がかかったように途絶えた。
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