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〈10〉砂田、夏樹の彼女、雅を長嶺と結婚させようと画策する
勤務時間。
事務所では長嶺マネージャーはパソコンに向かって生活向上庁の統制システムを見て作物依頼の確認をしている。
砂田はパソコンでイヤホンをつけながら動画を見ている。
それはもう公然の事実で知らぬ者はいない。
それを諫める者はこのエリアには誰もいない。
そして、事務所にはもう一人、一緒に働き始めた人がいた。
西英子、四十六歳。
小柄でぽっちゃりした女性である。西はもともとは畑に出ていたが砂田と親しくなり、砂田の女になった。
西は土いじりよりデスクワークがしたい、と砂田に言い、砂田が無理やり事務所で働くようねじ込んだのだ。
「西さんは数字に強いから畑仕事よりデスクワークが向いている。それにいざ来客があったとき、お茶くみがいた方がいい」
「そうですか?」
「そうだよ。来客が来たとき、女性がお茶を出したほうがいいだろう。嶺ちゃんに奥さんでもいるのなら話は別だが」
そう言われると長嶺は何も言えない。
いや、長嶺に砂田のやることなすことに異を唱えることは出来ない。勿論、エリアSの人も何も言わない。倉持を筆頭に砂田に追従するようになっている。もし異を唱えるようなことでもしたら、面倒なことになるのは重々承知している。触らぬ神に祟りなし。
そもそもこのエリアで働く人々は事なかれ主義と日和見主義を併せ持った人が集まった歪な世界なのだ。
こうして事務所では三人が働くようになっていた。
そんな事務所で砂田が長嶺にさりげなく話しかけてきた。
「嶺ちゃんさ」砂田は長嶺エリアマネージャーを嶺ちゃんと呼ぶようになっていた。
長嶺はパソコンから目を逸らし砂田を見た。
英子はパソコンにデータ入力を続けていた。
「なんです?」
「結婚しないの?」
英子もデータ入力の手を止めて向かいに座っている長嶺を見た。
「結婚ですか。そうですね。中々そういう出会いがなくて。それにここで働いていたら尚更、出会いなんてないですよ」
「雅ちゃんがいるでしょ。前にこんな片田舎にも綺麗な人がいるんですねって、俺に言ってきたじゃんよ。掃き溜めに鶴だって」
「いやぁ。でも、樋口さんは中原君の彼女だから」
「そうか。もう終わったんじゃないかな。俺が見る限りここ数か月、いや、それ以上? 兎に角、親しくしているところ見たことがないなぁ。二人でいる姿でさえ見かけてない。なぁ?」砂田は英子を見た。
「そうね。私も二人きりの姿は見てないわよ」
「だよなぁ。あの二人はもう終わってるよ。嶺ちゃん、どう?」
「どうって言われても」
「良かったら、俺が雅ちゃんとの仲、取り持ってやろうか?」
「樋口さんとですか」
「そう」
「いや、それはマズいですよ」
「何がマズいんだよ。マズいことなんてないよ。それに決めるのは雅ちゃんなんだから」
「でも」
「じゃぁ、もし、雅ちゃんが了承したらどうする?」
長嶺は苦笑した。
「了承しませんよ。樋口さん、めちゃくちゃ綺麗じゃないですか。あれだけ綺麗なら東京にいけば間違いなくモデルとか芸能事務所とかにスカウトされますよ。それに大体、そんな人がなぜここに留まっているのか、僕はそっちの方が不思議です」
「それは雅ちゃんのお父さん、庄造さんが許さないんだよ」
「そうなんですか」
「英子からそう聞いたぞ。そうだよなぁ?」
「ええ。雅ちゃんにはお姉さんがいて、またそのお姉さんも滅茶滅茶美人だったのよ。それで四年ぐらい前かな。庄造さんの反対を押し切って都会に出て行ったんだけど、それ以来、ずっと音信がないの。だから庄造さん。雅ちゃんを都会に行かせないのよ。姉の二の舞になるのを嫌がって無理やり傍に置いているの」
「どう。このままだと樋口さんはずっとここに居るんだ。でも、彼女だって年頃だ。結婚のことも考えないといけない」
「なら尚更、樋口さんは中原君と結婚するんじゃないんですか」
「いや、それが違うんだなぁ。なぁ」砂田は英子を見た。
英子は微笑む。
二人のやり取りを見ていた長嶺が聞いてきた。
「何が違うんですか?」
英子が応えた。
「庄造さんはね。雅ちゃんの結婚相手には将来が約束されている人を考えているらしいの。そういう人とお見合いさせるって言ってるの」
「じゃぁ、中原君は何なんですか?」
「あいつはただの彼氏止まりだ。結婚相手とは認めてないんじゃないか。そもそもエリアの一労働者に過ぎないんだから将来性なんてないだろう。もっといい結婚相手は山ほどいる。よく言うだろ。恋人と結婚相手は違うって。中原は結婚相手ではない。俺が樋口さんの父親だったらもっと優秀な男を選ぶ。少なくとも中原はないな」
長嶺は黙った。
英子は微笑みながら、長嶺を持ち上げた。
「でも、そう考えると長嶺さんは雅ちゃんの結婚相手には相応しいんじゃない?」
「いや、やっぱり、俺とは不釣り合いですよ」
「そんなことはない。嶺ちゃんは最難関の国家上級試験に受かったキャリア組だ。キャリア組といえば、普通なら省庁で官僚になるのが当たり前だ」
「僕はキャリア組でも落ちこぼれの左遷組ですから」
「それでも最難関を突破したエリートだ。腐っても鯛は鯛だよ」
「そうですよ。もっと自信持ってください」
「……」長嶺は黙った。
「左遷されたと思っているのなら、その左遷先で王になればいい」
「王に……」長嶺は王という言葉が心に響いた。
「左遷されて、逆に王になる機会を得たと思えばいい。その王妃に樋口さんなんてどうだ。まさに王にふさわしいだろ」
「王様。私もお手伝いさせて頂きますよ」英子が微笑みながら言った。
「そうですか」長嶺は控えめに答えた。
「こんな田舎に追いやられたんだ。せめて女ぐらいはいい女を嫁にした方がいい。それぐらいの楽しみがあってもいいんじゃないか?」
「いやぁ。でも、結局は樋口さん次第ですから」
「なら、樋口さんさえよければ、この話、進めていいんだな?」
「……」長嶺はまだ踏み切れないのか首を捻り、曖昧な仕草を取った。
すると砂田が立ち上がった。
「よし、わかった! 俺が何とかする。だから、この件は俺に任せてくれ」
長嶺は何も答えず、ただただ砂田を見た。
砂田の表情は自信に満ち溢れ、口元に笑みを湛えていた。
砂田の腹積もりは決まった。
雅を長嶺と結婚させる。
こと、雅が夏樹の彼女というだけで俄然やる気も出ていた。
そう。砂田は夏樹から雅を奪い、思い知らせてやろうと思っていた。年下が年上に盾突くとどういうことになるのか。砂田はそれが悪いことをするという意識は毛頭ない。全てが無自覚。それは今までの砂田のわがままな振る舞い自体が無自覚であり、自分が不正を働いているという自覚もこれっぽっちもない。むしろ自分はよくやっている。井原を退職させて長嶺を楽にしたと。自分は正しいことをやっている、貢献していると思っていた。それなのに夏樹は自分に盾突いてくる。それがどうにも鼻につき、思い知らせてやりたいという思いでいっぱいだった。もう誰も夏樹を相手にする者がいなくなった今でも砂田のしつこさは尋常ではなかった。
砂田は雅を口説き落とすのに何が最善か、既に目星は付いていた。
長嶺も又、このまま砂田の思うようにさせることで雅が自分のものになるのなら、それはそれでいいのではないか。少なくとも砂田は自分に不利益なことはしないのではないか、と密かに欲望の炎をたぎらせるようになっていた。
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