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〈12〉英子、雅を口説きにかかる
その夜、砂田は家に帰って英子と晩酌しながら話した。
「じゃぁ、後は雅ちゃんをなんとかすればいいのね」
「でも、結局、それが一番難しい」
英子は砂田の傍に寄ってきて体を預けた。
砂田は英子を見た。
「大丈夫。私に任せて」
「出来るのか?」
「出来るわ。けど、頼みがあるの」
「頼み?」
「物事をやり易くするためよ」英子は微笑んだ。
翌日、英子は農作業の作業ボードを見て微笑んだ。
作業ボードは兼松、井原のときにはなかったが、砂田の発案により設置されることになった。
その作業ボードには、誰が何処で何の作業するか、人々の作業の予定が割り当てられている。
国営農場エリアの人々はそのボードを見て、自分がその日、何処で何をするか、確認して働くようになっている。その方が人の配置が一目瞭然でわかりやすいということで設置されたが本音は砂田が夏樹を遠ざけるために作ったものである。
それゆえ作業ボードの人の配置は砂田が請け負っていた。
ゆえに砂田が恣意的に夏樹を自分から遠ざけようとエリアでもエリアセンターから遠い耕作地に配置され、ほとんど一人で農作業をしていた。
それに関して夏樹は何も言わなかった。
夏樹にとってもその方がかえって気が楽だった。
英子はボードを見て、雅はイチゴのハウス栽培で一人で働いているのを確認した。それは英子が雅と二人だけで話をするため砂田にお願いしたことだった。
英子がハウスに行くと雅が一人、イチゴの手入れをしていた。
手入れといっても甘く大きなイチゴを育てるために一つの苗に沢山実らせるのではなく、甘く大きなイチゴを実らせるために花が咲くつぼみのうちに間引いて実りを少なくし、その分、栄養が他のつぼみに充分行くようにする作業である。
英子は一人、ハウスで働く雅のところに顔を出した。
「雅ちゃん」
「英子さん」
雅は英子が砂田の女ということは勿論知っている。それゆえに雅は少し警戒した。
「なんですか?」雅は怪訝そうに答えた。
「いや、雅ちゃん、元気かなってぁ~と思って」
「私は至って変わりなくですけど」
「そう、ならいいんだけど」
「どうかしました?」
「雅ちゃん、最近、夏樹君と一緒にいないじゃない。だから何かあったのかなぁ~と思って」
「……」
「前はいつも、あんなに一緒にいたのに、なんかうまく言ってないみたいだし。だから、ちょっと気になっちゃって。何かあったの?」
「……」雅は英子を白々しいと思った。
何かあるも、その原因は英子の男である砂田にある。砂田の勤務態度、わがまま、働きもせず不正に給料を得ている。そのことに夏樹が拘り、ギクシャクするようになり疎遠になったのだから。
英子が事務所でデスクワークするようになったのも砂田のわがまま人事からきていることはエリアの人なら承知のこと。
それだけに雅は英子のことをあまり良くは思っていなかった。その英子が自分のことを探りに来たのだ。
「別にうまくいくも、夏樹とはただの幼馴染だから」
「そう。それ聞いて安心したわ」
「安心?」
「いやぁ、ちょっとね」英子は微笑んではぐらかした。
「そんなことで、ここへ来たんですか?」
「んん、違うわ。実は雅ちゃんにいい話を持ってきたの」
「いい話?」
「いい話っていうか、人にとってはとてもいい話だと思う。特にこのエリアで一生過ごしたくない人にとっては」
「どういうことですか?」
「雅ちゃん。このエリアで一生終えたい?」
「……」雅は黙った。
「実はこのエリアから抜けられる方法があるの。しかも、みんなに祝福されて」
「祝福されて、ここから出られるんですか?」
「そう」
「どうやってですか」
雅はエリアから出られるという言葉に引っかかった。
英子もそれを察知した。いや、引っかかるようにあえて言ったのだ。
「出られるって言っても、今すぐという訳じゃないのよ。近い将来のことよ」
「それで、どうやって?」
「結婚するのよ」
「結婚⁉ 結婚って私がですか」
「そう」
「誰と?」
「エリアマネージャーの長嶺さん」
「え⁉」
「別に驚くことないじゃないわ。中原君以外、ここじゃ若くて独身といったら長嶺さんぐらいしかいないじゃない。もっとも長嶺さんは三十八歳だから雅ちゃんから見れば随分年が上になるけど」
「……」
「あ、そうそう、新入りの佐野君も独身か、忘れてた」英子は笑った。
「……」
「どう?」
「どうって」
「長嶺さんがお相手じゃ、嫌?」
「嫌も何も、全く考えたことがない」
「そうなの。長嶺さんは、あの国家上級試験の合格者よ。エリート中のエリートよ。そんな人と出会うなんて、まずないわよ。出会ったことある?」
「いえ、ありませんけど」
「でしょう。でも、長嶺さんはそれに合格しているから」
「そういうの、あんまり気にしたことないから」
「なら、この機会に気にしてみない? 少なくとも長嶺さんは雅ちゃんのことが気になってるみたいよ。しかも、かなり」
「……」
「とっても羨ましい話よ。長嶺さんは今はここのエリアマネージャーをしているけど、いつ霞が関に呼び戻されても不思議じゃない人よ。そんな人と結婚したら、この片田舎のエリアから抜け出ることが出来るのよ。しかも、東京で何不自由なくいい暮らしが出来る。こんな夢みたいな話、こんな田舎であると思う?」
「……」雅は黙った。
確かに話としてはとてもいい話で、おそらくこんな片田舎にいては決してありえない話だろう。
しかも、ゆくゆくはこの田舎から出て東京に行ける。東京で暮せるというのは何より魅力的に聞こえた。
「どう? とりあえず、長嶺さんと付き合ってみない?」
「長嶺さんとですか?」
「そう。付き合うだけなら別に構わないでしょ。中原君とは、ただの幼馴染なんだから」
「……」
「どう?」
「でも、私の場合、父がうるさいから」雅はこの話をはぐらかそうとした。
しかし、英子は逃さなかった。
「そのお父さんの庄造さんがOKしてくれてるのよ」
雅は驚いた。
「お父さんはこのこと、知ってるんですか⁉」
「知ってるも何も、お父さんの了承を得てるから雅ちゃんに話したのよ」
「……」雅は驚き、絶句した。
「それぐらい、長嶺さんが真剣に雅ちゃんと付き合いたいと思っているの」
「……」雅にその言葉は聞こえていなかった。雅は父がこのことを了承していることに驚いていた。
「ほんと、とてもいい話よ。長嶺さんと結婚したら将来の不安がなくなるのよ。心配しなくて済むの。お父さんも長嶺さんならと安心したから了承したのよ」
「んん」雅は唸った。
そんな雅を見て英子は『いける』と手ごたえを感じたのか、畳み掛けるように言った。
「長嶺さんは遠からず東京に官僚として戻るわ。そして、将来は政治家になるかもしれない。そしたら雅ちゃんは政治家の妻よ。はっきり言ってこんな玉の輿、無いわ。千載一遇のチャンスってこのことよ。このチャンスをみすみす逃す気? こんな片田舎のエリアで一生過ごすのと東京の煌びやかな上流社会に出るのとでは大違いよ。比較すること自体あり得ないわ。それでも雅ちゃんはこの片田舎で一生過ごしたい? 毎日毎日変わり映えのない日々を送りたい?」
「……」雅は何も言えなかった。いや、言えないのは考えているからだ。
確かに英子の言う通り、こんな機会は二度とないだろう。それを逃すとおそらくこのままなし崩し的にエリアに残り、ゆくゆくは父が連れてきた見合い相手と結婚させられ、もしかしたら、結婚後もこのエリアに留まることになるかもしれない。自分は一生、この片田舎で過ごすことになるかもしれない。それは雅にとって恐怖でしかなかった。
これから一生、この片田舎で代わり映えもない刺激のない生活をしていかなければいけないのかと思うと……。
この片田舎から解放されたい。
都会で自由に人生を謳歌したい。
それが雅の夢であり希望であった。
英子の言う通り、人生を大きく変える千載一遇のチャンスなのかもしれないと雅は思い始めた。
そんな雅の胸中を英子は見透かしていたが、あえて遠回りな物言いをした。
「もしかして、中原君に悪いと思っているの? 義理立てしてるの?」
「え、いや……」
「実は密かに誰にも内緒で中原君と結婚する約束してるとか」
「そんなことはないけど」
「ならいいじゃない。正直、中原君と長嶺さんじゃ、比べ物にならないわ。中原君はこのエリアの一労働者に過ぎない。長嶺さんの一部下に過ぎない。長嶺さんは今はエリアマネージャーをしているけど、なんてったって国家上級試験合格者よ。将来は政府で官僚になる人。とても太刀打ちできないわ。もう天と地の差があるというか中原君には申し訳ないけど次元が違いすぎる」
英子は夏樹を引き合いに出して長嶺との結婚のメリットを強調した。
「……」
「どう? 少しは真剣に考えてみる気になった?」
「……」雅は返答できなかった。
それを見た英子は雅にとどめを刺すように真顔で諭すように話しかけた。
「雅ちゃん。人生、綺麗ごとだけでは生きていけないよ。自分の思い通りの人生を送りたいのなら、思い切った行動をとらなければいけないときはあるものよ」
英子はイチゴの苗から出ている二つのつぼみを手に乗せて、
「大きなイチゴを実らせるのに、つぼみの間引き、してるでしょ」
そういって一つのつぼみを指の爪で引きちぎった。
引きちぎられたつぼみを手の平に乗せて雅に見せた。
「……」
「自分の想いを叶えるためには、多少の犠牲は付き物よ」
雅は英子を見た。
英子の眼差しは真剣そのもの。英子もまた畑仕事を嫌い、デスクワークを手に入れるために砂田の女になった。その経験があるから私に言っているのかと雅は思った。
「決断しなさい。あなたの決断一つで世界が変わるのよ」
英子は雅を逃がさない。言葉で雅を追い詰めた。
「……」
雅は英子『世界が変わる』という言葉に心打たれる思いがした。それほどまでに雅の心は揺れ動いていた。
英子は穏やかな口調で少し突き放すように言った。
「まぁ、いいわ。でも、前向きに考えてね。ほんと悪い話じゃないから。というか悪いとこなんて一つもないから。もし私が雅ちゃんなら考えるまでもないわ。なんてったって人生を変える絶好のチャンスなんだから」
英子は雅の手を取って自分の手の平にある間引いたつぼみを雅の手の平に乗せた。
「ちょっと考えてみて」
「……」
雅は手の平に乗っているつぼみをみた。
英子は雅から離れ、ハウスを出ようとしたとき英子は雅の方を振り返って雅を指さして捨て台詞を言った。
「きっと私に感謝するときが来るわよ」
英子はハウスを出た。
一人残された雅。
雅の手の平には摘み取られたつぼみが乗っていた。
英子はハウスを出たところで一人呟いた。
「これは落ちるな。でも、それを確実なものにするためにもう一押し。何かきっかけを作れば……」
英子は口元に笑みを浮かべた。
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