〈7〉茶番

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〈7〉茶番

そもそも井原が退職したことが全ての過ちの始まりだった。 井原がいなくなったことで労働意欲というタガが緩んだ。緩み過ぎた……。 砂田は長嶺が井原を嫌っていることを利用して自分も邪魔だと思っていた井原を排除した。 井原、兼松マネージャーがエリアを去った後、砂田は長嶺を懐柔した。 エリアで働く人々は五十代、六十代とほとんどが年配者。しかも日和見。それは仕方のないことかもしれない。国営農場は生活弱者や生活困窮者が頼ってくる場所。それだけに日和見な振る舞いになるのは致し方ないこと。それが国営農場エリアの体質。 それもまた砂田が増長しやすい環境だったのかもしれない。 井原のような人が沢山いたら、いや、長嶺マネージャーが真摯に仕事に取り組む井原を嫌わなければこんなことにはならなかった……。 〈ただ職場に来て、真面目に働いてお金を稼ぎ生活を安定させる。たったそれだけのことなのに一人のわがままな人間の存在を許してしまっただけで職場が一変してしまった〉 悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるが、このエリアSはまさにそれを体現した職場になった。 夏樹は嘆くことしか出来なかった。 そして、時折、自分がわからなくなることがある。 〈自分は不正を働く砂田に固執しすぎているのか? 引っ張られすぎているのか? そんな奴はほっとけばいいのか? それとも自分の良心が正義感がそれに引っかかってしまうのか? 拘ってしまうのか? いや、その正義感すら実は自己顕示欲に過ぎないのではないだろうか? 自分を良く魅せようとしているだけではないだろうか?〉 夏樹は、なぜ自分だけが砂田に引っかかるのか、日に日に考えることが増えていた。 そんな日々を送っていたとき、畑で一人、農作業をしている夏樹に近づいてくる人がいた。砂田にシカトされ周りの人々も夏樹を敬遠している中、その人は夏樹に近づいてきた。 吉岡俊司。四十三歳。 吉岡はこのエリアSでは若い。それでも夏樹や雅とは二十一歳も離れている。 普段は寡黙で決して社交的な人物ではない。どちらかというと群れるよりも一人でいるタイプの存在。そんな吉岡が、畑の前で長嶺と砂田が農作業をしている人々と作物の栽培について話をしている姿を見て不満を露わにした。 「砂田の野郎。調子に乗りやがって」 「……」 夏樹はその言葉を聞いて率直に驚いた。 自分と同じように砂田のことを良く思ってない人がこのエリアにいるということに。 「あいつは手を働かせず、口先を働かせる野郎だ」 エリアは生活向上庁の統制システムによって管理、運営されてはいるが、生活向上庁はエリアの自主性も重んじている。 たとえば何を栽培するか、生活向上庁からのオーダーはあるが、そのオーダー以外はエリアが独自で判断しても構わないことになっている。そのためエリアでは毎年、何を栽培するか、何の栽培に力を注いでいくか。そういう方針をエリアで働く人々とエリアマネージャーとが話し合って決めていた。その話し合いの中に畑仕事もろくにしない砂田が何かにかこつけて口出しするようになっていた。 今では砂田の発言に対して異を唱える者はこのエリアにはいなかった。 それはエリアマネージャーである長嶺も例外ではない。 それどころか、砂田の言うことに追従するかの如く、「いいですね」と相槌を打つ始末。 それに呼応するかのように倉持が激しく同意する。そうなるともう他の人は黙ることしか出来なかった。 そのことが吉岡はどうも気に入らないらしい。 畑にも出ない人間が作物の栽培に口を出すことに。 人の輪の中心で笑顔で話している砂田を遠目で見ながら吐き捨てるように言った。 「ほんと砂田の野郎。黙ってみてればいい気になりやがって。俺は奴の小作人じゃねぇ」 夏樹は黙ったまま、砂田を見て吠える吉岡を見た。 「要はフォークが使えればいいんだろ? フォークが使えれば奴にデカい顔されなくて済むんだろ?」 吉岡は、まるで堪忍袋が切れたかのように凄んでみせた。 夏樹は思った。 確かに砂田はフォークリフトでトラックへの積み荷の積み下ろしを一手に引き受けている。そのことが砂田を増長させているのかもしれない。砂田のわがままな振る舞いを許しているのかもしれない。 しかし、ここでそれを断ち切れれば砂田はぐうの音も出なくなり、砂田のエリアでの増長を押さえることが出来るのではないか? 夏樹にフォークリフトの運転を練習することは出来ない。 なぜならフォークリフトのキーは砂田が所持しているからだ。 前はキーは事務所に置いてあった。 しかし、今では砂田が一人でフォークリフトの運転を請け負っているため、フォークリフトのキーは砂田が肌身離さず持っている。そのキーをシカトされている夏樹が借りることなど到底できない。それに今では事務所に入ることさえ憚られるようになっている。 しかし、吉岡ならどうだろう? 吉岡は砂田にシカトされておらず、砂田も吉岡の存在はおそらくノーマークだろう。そのノーマークの吉岡が砂田に代わってフォークリフトを運転することが出来れば砂田は態度を改めるようになるのではないか? トラックへの積み荷の積み下ろしは砂田以外にも出来る人がいる。 そうなれば砂田のわがままを許している現状を変えることが出来るのではないだろうか? 井原、兼松がいた頃のように秩序と規律が存在した状態に戻すきっかけになるのではないか? 「俺だって車の運転ぐらい出来るんだ。あんなの簡単だよ」 吉岡はそう吹いて鼻で笑った。 夏樹は内心、吉岡に期待した。 そして、その時はすぐやってきた。 トラックへの積み荷の積み下ろしは毎日やっている。朝、トラックに荷を積み込み、夕方、トラックが空になっている集荷用バケットを持って帰ってくるのが基本だ。 夕方、エリアSにトラックがやってきた。 トラックの荷台には出荷に使った集荷用バケットの空箱が山のように積んである。その空箱はパレットの上に積んでありフォークリフトを使ってパレットごとトラックから降ろし集荷作業をする倉庫内へと運んでいく。それだけのこと。 トラックは到着の合図のクラクションを鳴らした。 すると、いつものように事務所から砂田が出てきてフォークリフトを倉庫から出そうとしたときのことだった。 吉岡がみんなが倉庫で出荷作業をしている前で砂田に詰め寄ったのだ。 倉庫には夏樹もいた。 吉岡は、あえてみんながいる前で砂田に啖呵を切った。 「砂田さん。俺もフォーク使えれば、砂田さんもみんなと一緒に畑仕事、やれるですよね?」吉岡は語気を強めて砂田に言い寄った。 砂田も吉岡の圧を感じ、少したたじろぎながら押し切られるように「ああ」と応えた。 「なら、フォークのキー、貸してください。俺が荷物降ろします」 砂田は、ポケットからフォークリフトのキーを出して吉岡に渡した。 吉岡はフォークリフトのキーを手にすると颯爽とフォークに乗り込んだ。 吉岡はフォークリフトにキーを差し込み、電源を入れその場でフォークリフトの前にあるフォークの爪をレバーを動かして操作した。 ハンドルを回すと後輪が動きフォークリフトの向きが変わる。 吉岡はコツを掴んだのか、「なんだ、簡単じゃねぇか!」と自信ありげに言った。 吉岡の表情から自ずと笑みがこぼれた。 吉岡は、フォークリフトを操作して到着したトラックの傍に行き、トラックの荷台に乗っている空の集荷用バケットが積んであるパレットをフォークリフトを使って降ろそうとした。 その姿をみんな、固唾をのんで見守っていた。 吉岡はフォークリフトの爪をトラックの荷台の高さに調整し、そのまま爪を荷台にのっているパレットの隙間に差し込んだ。 レバーを操り爪を傾けパレットが前に倒れないようにした。 フォークの操作に手ごたえを感じたのか吉岡の顔から笑みが零れた。 フォークリフトを少しバックさせてパレットをトラックから少し離した。 ハンドルを回して後輪を動かしトラックからパレットを出した状態にした。 少なくとも吉岡にはパレットがトラックの荷台から全部出たように見えた。 パレットを爪に乗せたまま運ぶため、レバーを操作してパレットを宙から地面すれすれに降ろそうとしたとき、思わず夏樹が叫んだ。 「危ない!」 パレットがトラックの荷台から全て出ていなかったのだ。 地面に降ろそうとしたパレットの角がトラックの荷台にぶつかった。 その瞬間、それを見ていた人々はみな「あっ!」と叫び声をあげた。 荷台に当たったパレットはバランスを崩し、パレットの上に山積みにのっている集荷用バケットがパレットから地面に音を立てて崩れ落ちた。 吉岡はフォークリフトの座席に乗ったまま、ただただ固まってしまった。 「あ~あ」 露骨に嘆き声を上げたのは砂田だった。 砂田は吉岡に向かって、「何も触らず、そこから降りろ!」と声を荒げた。 吉岡は黙ってフォークリフトから降りた。 代わりに砂田がフォークリフトに乗った。 「ったく、しょうがねぇな!」 砂田はこの様子を見ている人々に穏やかな口調で言った。 「みんなもこれ片付けるの手伝ってくれ。落ちたバケットをこのパレットの上に乗せてくれないか」 傍観していた人々が集まってきて地面に落ちた集荷用バケットをパレットの上に積み始めた。 すると就業のチャイムが鳴った。 「あとは俺がやっとくから、みんなはあがっていいよ」 「いいんですか?」手伝っている年配の人が言った。 「いいよ。もう時間だから。あとは俺一人で大丈夫だから」 「すみません。じゃ、お願いします」 「お疲れ様」 すると、人々は砂田を残して帰り支度をするために更衣室へ行った。 夏樹も更衣室へ行った。 吉岡も砂田をチラチラ見るも、何も言わず黙って更衣室へ行った。 倉持は砂田の手伝いをするため残っていた。 その夜、みんなが帰宅した後の真っ暗なエリアセンター。 灯りが付いているのは事務所だけ。 その事務所の中では砂田が一人、パソコンで動画を見ながら煙草をふかしていた。 すると事務所のドアをノックする音が聞こえてきた。 「どうぞ」砂田は言った。 一人の男性が入ってきた。入ってきたのは私服姿の吉岡だった。 吉岡は黙って砂田に歩み寄った。 「あれで良かったんですか?」 砂田は微笑んだ。 「上出来だよ、上出来。中々の演技もんだったよ。ほんとお見事。まさかあんなうまくやるとは思わなかったよ」 砂田は吉岡に煙草を差し出した。 「頂きます」吉岡は砂田から煙草を受け取った。 「あれで、みんなに俺の仕事の存在価値に良い意識づけが出来たと思う。ほんと、よくやってくれた」 「いえ」 「吉岡君のお父さん、週三日だけ働きたいんだったよな」 「はい。出来れば楽なところで」 「わかってるよ。ちゃんと週三日で楽して働けるところに回すから」 「ありがとうございます」 「心配するな。お前たち家族の面倒は俺が見るから」 それは砂田の殺し文句だった。 砂田は夏樹のように自分に不信感を抱く人物を増やさないために「家族の面倒は俺が見る」「俺の言うことを聞いていれば、将来、何の不安もないから」と囁き、厄介な人物を抱え込んでいった。 その言葉をかけられた人は安心する。 この一件を機に吉岡は砂田に付き従うようになっていった。 砂田は商品券などによる買収と殺し文句による買収。 そして、何より人々が恐れたのは砂田の執拗なシカト。 砂田に一度シカトされるととんでもない目に合うことになるのは夏樹で証明済み。 それをみんな、嫌がり、砂田に迎合するようになっていった。 こうしてエリアの人々は砂田に付き従うようになり砂田とその追従者の関係が出来上がっていった。
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