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春の温かい陽射しが、ガラス窓を通して降り注ぎウッドデッキを鮮やかに照らす。
葉の先に大きな雫を乗せて空へ向かって開き、生命を謳歌する草花。
濃い影を作り、落ちた雫が宝石のようにきらめきを放つ。
窓際のクローゼットから、緑のストライプに彩られたネクタイを抜き取って、クリーニングの糊が香るワイシャツの襟にかけた。
しっかりとウインザーノットで結び目を作りながらベランダの花を眺める。
鏡で寝癖をチェックしながら手櫛で整える視線の端には豊かな緑と燃えるような赤い花のコントラストが眩しい。
「今日は、良い天気だね。
たくさん水を吸って、花を咲かせてね。
行ってきます」
顔が出るくらいに窓を開いた隙間から花に声をかけるとカバンに手をかけた。
商社マンの水野 智幸は、毎朝5時に起きてベランダの草花に水をあげて語りかける。
仕事は忙しくて、退社が遅くなっても欠かさない。
最寄り駅に着くと、ちょうど電車が入って来たところだった。
走ってホームへの階段を駆け降りる人波に乗り、列の最後尾につけると電車のドアが開いた。
重い機械音と共に左右から列を狭めてぽっかり口を開けた空間に、人がなだれ込む。
水野の前の背中は、脇目も振らずに車内へと急ぐが席はなく、反対側のドア付近で止まった。
座席に座った人々は、スマホを片手に視線を落としている。
吊革に掴まっているスーツ姿の人々もスマホを手に首を曲げて釘付けだ。
車窓には住宅街が左から右へ流れて行き、自転車や車で先を急ぐ人々もまた流れて行く。
やがてビル街に入ると地下鉄に乗り換えた。
ホームも車内も人が溢れ無機質なタイルと調和して、顔の表情はない。
見慣れたサイネージに流れる広告が目に入ると、思わず視線を外した。
小さくため息をついた彼の片手には、買い物袋に入った鉢植えの花が見え隠れしていた。
満員電車に押しつぶされないように、腕を張って空間を作りながら視線を花に向けている。
こうしていると雑踏の厳しい空気が和み、心に春風がそよぐのだった。
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