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〈2〉私と同じ境遇の女
早朝、六時。粕谷製作所がある通りに人はほとんどいない。出社するにはまだ早い。
そんな時間に実和は一人、粕谷製作所の前にいた。会社に入るには、会社の鍵を持っている課長以上の人が来ないと入れない。出勤時間は九時。三時間も前に出社する者はいない。当然、会社に入ることは出来ないが、実和は会社に入ることが目的ではなかった。
実和の目的は、会社の郵便ポストに大貴に対しての告発状の封筒を入れること。実和はおもむろにカバンから封筒を取り出した。封筒には『粕谷大貴様へ』と書いてある。実和は封筒を眺めてから、封筒を郵便ポストに入れる。半分、入れたところで実和の手が止まった。そして、実和の後ろを自転車が通ったので慌てて封筒ごと手を引っ込ぬいた。通り過ぎた自転車を見てから、胸をなでおろした。
実和は封筒を眺めた。
「ダメだ……出せない。出したら間違いなく私はクビになる。関係を終わらせるだけなら辞めればいいだけ。でも、ここに就職が決まるのにどれだけ苦労したか……」
実和は苦悶の表情を浮かべた。就職できなかったという苦い経験が、大貴の愛人という従属関係を告発することを思いとどまらせた。
〈金も力のない者は、結局泣き寝入りすることしか出来ないの〉
実和は顔を歪めた。そして、会社が開くまで駅前のファーストフードで時間を潰すことにした。
実和は出勤時間、一時間前の八時に改めて会社に出社した。八時でも出社する人はほとんどいない。常務が常に一番乗りで八時に出社することは知っていた。会社の入り口の隣に事務所があり、事務所内にタイムカードが置いてある。実和は事務所に入ると案の定、常務がいた。
「おはようございます」
「今日はずいぶん早いんだね」
「ええ、まぁ、たまには」と言葉を濁した。
そして、誰にも会うことなく女子更衣室へ行った。女子更衣室は四畳半ぐらいの狭い部屋にロッカーが四つあるが名札が貼ってあるのは三つだけ。実和の他に経理の村上紀子と事務員の林友子の名札が貼ってある。実和はバッグから封筒を取り出す。投函するはずだった封筒。そして、その封筒を開封する。するとスマホで隠し撮りした大貴に抱かれる実和の裸体が映っている写真が三枚入っている。
そして、便箋には『私との関係を暴露します』と書いてある。これを投函すれば大貴との関係は立ち切れる。しかし、当然会社にはいられなくなる。実和はここに就職するまでずっと派遣社員だった。それが四年前に父が大腸がんを患ったことをきっかけにあまり心配をかけたくないという思いから職業安定所に通い、条件のいい求人があれば面接する日々を送ったが、実和を正社員で雇ってくれるような会社はどこにもなかった。特に実和は大学を出ているわけでもなく、資格もなければ手に職もない。売りというものが全くないのだ。
ようは頭数が欲しい。そんな求人しか通用しない。そんな中、やっとこの会社に就職することが出来た。仕事内容は製品を梱包する作業。誰でも出来る仕事だ。そんな仕事で正社員として雇ってくれる会社はそうはない。
やっとの思いで就職した会社。それを失い一から仕事を探す苦労を知っているだけに、たとえ愛人関係を強いられていても、どうしても拒むことが実和には出来なかった。いや、愛人関係という担保があるから正社員になれたのでは、と思うこともあった。実和は下唇を噛み、封筒を握りしめた。
「とりあえず、これを出す決心がつくまで、会社を辞める決心がつくまでロッカーに隠しておこう」
実和はロッカーを開けた。ロッカーは上段に小物やトートバッグが置けるスペースがあり、その下に服がかけられるようになっていて今は作業着がかかっている。実和はロッカーの中を眺めた。
〈何かの拍子でロッカーが開けられ、この封筒が見つかったらマズイ。とりあえず、ばれそうにないところに隠しておかないと……〉
実和はロッカーを見て、何か閃いたのか、自分が働いている梱包課の作業場に向かった。
梱包課は真ん中に、五人の社員が製品を梱包できる幅二メートル、長さ三メートルほどの長方形の作業台が置いてある。実和は自分の作業場の席へ行き、机の上に置いてあるガムテープを取り、女子更衣室へ戻った。
そして、再び自分のロッカーを開けた。実和は上段の棚の裏下に封筒をガムテープで貼って隠そうと考えたのだ。上段の棚はほぼ目線と同じ高さでこの棚の裏下ならロッカーを開けても封筒は見つからない。実和は作業着を取り出した。そして、封筒にガムテープをつけてから、その場にしゃがんでロッカーの上段の棚の裏下に張り付けようとした。
しかし、その瞬間、実和の動きが止まった。
既に封筒が貼ってあったのだ。
「え、何!?」
実和は自分が貼り付けようとした封筒を更衣室の真ん中にある長椅子に置いた。そして、既に上段の棚の裏下に貼りついている封筒を剥がした。封筒の中を見た。写真が一枚入っていた。その写真は大貴と女性がラブホテルに入っていく姿の写真だった。便箋も同封されていた。実和は便箋を読んだ。
『この写真を二百万で買ってください。買ってくれなければバラまきます』と肉筆で書いてあった。
「なにこれ?」実和は再び、写真をマジマジと眺めた。すると、女子更衣室のドアが開いた。実和はすかさず手に持っている封筒と自分が貼り付けようとした封筒を作業着で隠した。女子更衣室に入ってきたのは経理の村上だった。村上は実和を見るなり、
「あれ、随分、早いのね」
実和は動揺しながらも、その場を繕った。
「あ、いえ、今日はちょっと早く起きてしまって。たまにはいいかなぁ~と思って……」
「そう」
実和は作業着の下に隠した自分の封筒と見つけた封筒の二通をロッカーの上段に入れた。そして、作業着に着替え始めた。村上も着替え始めた。
実和は、ふと村上を見て、さりげなく尋ねた。
「村上さん」
「ん?」
「このロッカー、私が来る前は誰が使ってたんですか?」
「そこ? そこは大島さんだったかな」
「その人は若かったんですか?」
「私から見えれば若いけど、三十は過ぎてたかな?」
「その人の写真か何かあります?」
「どうして?」
「いや、ちょっと気になって。もしかしたら知ってる人かなぁ~と思って」
「写真ね……」
「スマホか何かで撮ってませんか?」
「ああ、ちょっと待って。大島さんの送別会の写真があるかも」村上は、自分のスマホを取り出して画像を探す。実和は黙って待った。
「ああ、あった! これこれ、三年前の」
「三年前」
村上は実和に画像を見せる。画像には村上、林の中央に実和の知らない大島が映っている。
実和はその画像をジッと見た。そして、あの封筒に入っていた写真の人と同一人物だと確認した。
「あ、ありがとうございました。どうも人違いでした」
「そう」
「でも、その人、どうして辞めたんですか?」
「寿退社よ」
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