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〈1〉経営者に弄ばれてる実和
漆黒の空から雨が落ちている。雨音は静かだが確実に世界を濡らす。入院病棟も雨に濡れていた。その個室に小菅芳夫、七十三才がベッドの上に横たわり、静かに最期のときを迎えようとしていた。傍らに芳夫の一人娘の実和、三十五才と妻、靖代、六十六才がいる。
靖代は目に涙を浮かべている。芳夫の目が微かに開いた。
「お父さん!」実和が呼んだ。
それに呼応するかのように芳夫が弱々しく途切れ途切れに呟く。
「実和……、ごめんよ……」
心電図の波形が少し高く波打つ。実和は芳夫の手を握り締めるも握り返す力は芳夫にはない。微かに開いた芳夫の目がゆっくり閉じていくとともに心電図の波形は徐々に弱くなった。そして、波はやがて線になった。すると実和と靖代の後ろにいた若い男性医師が芳夫の傍に行き死亡確認をする。医師は実和と靖代の方を向いた。
「ご臨終です」
実和はベッドに手を付いたまましゃがみこんで項垂れ、靖代はその場でむせび泣いた。
粕谷製作所は二階建て、築五十年ほどの古びた工場。社員は二十二名。そのほとんどが五十代の男性。所謂、3Kと呼ばれる仕事。
そのうち女性は実和を含めて三人しかいない。一階に事務所と製造工場がある。製造工場に五台のプレス機が並んでいる。プレス機は金型をセットし、荷重八十トンの力で鉄板を打ち抜き加工する。プレス機の大きさは幅約一メートル、高さ約三メートル。ドシンと地鳴りのような音を立てて鉄板を打ち抜く。
今は安全装置がついているが昔はそのプレス機に指を挟んで切断した人もいた。そんな話を聞いてから実和はこの機械にどこか嫌悪感を感じていた。
二階には製造工場や下請け会社で作られた製品を取引会社に納品するために梱包する梱包課がある。実和はその梱包課に所属している。
実和は父の葬儀を終え、会社に出勤した。
朝礼のとき、実和の上司にあたる梱包課の課長から「これ、従業員のみんなから」といわれ香典を渡された。実和は恐縮して受け取った。実和は葬儀の際の供花のお礼を言いに事務所に行き社長に礼を述べた。そして、梱包課に戻るとき、一階の通路で五十代半ばの二人の従業員の立ち話を聞いた。
「せめてボーナス一か月は出してほしいよな」
「うちなんか下の子が来年受験だから金掛かって大変だよ」
「ほんと幸せなのは社長と専務だけだな」
「息子の結婚決まったんだから、ご祝儀のつもりで一か月分ぐらい出してもいいんじゃないのか」
「無理無理。親子そろってケチだから」と愚痴をこぼしていると突然、通路に面したトイレのスライドドアが開き、専務の粕谷大貴、三十九才が出てきた。大貴は愚痴を言っている二人を見下すように無言で睨んだ。
二人は罰悪そうな顔をし、恐縮しながら「すみません」と一言言って立ち去った。実和も大貴とすれ違う時、軽く会釈をして通り過ぎた。
昼になると男性従業員が食堂で仕出し弁当を食べる。実和は一人梱包課で持参した弁当を食べる。事務所で働いている専務の大貴は直属の部下の室田耀、三十七歳を伴って近所の定食屋に食べに行く。その定食屋で大貴は従業員の愚痴を室田に話した。
「それを聞いて何も言わなかったんですか?」
「言ってどうする? なんで俺が雑魚の言うことを真に受けなくちゃいけないんだ? 奴らはわかってるんだよ。これといった能力もない人間を正社員で雇う会社なんてどこにもないってことを。せめて若ければどこかあるかもしれないが、結局、生きていくためにはうちにしがみつくしかない。不満があっても辞めることも出来ない。ほんと無能な人間っていうのは虚しいものだな」
「……」
この粕谷製作所は離職者がほとんどいない。それは仕事にやりがいがあるわけではない。仕事は至って単純労働。手は油で汚れ、鉄板など重たいものを扱うからほとんどが腰痛持ち。給料がいいわけでもない。かといって居心地がいいわけでもない。だから若い人は入社してもすぐ退職してしまう。他の会社を選択する。結局、ここに残るのは年齢的にもどこも雇ってもらえない、後がない中高年ばかりになる。そのことを社員は自覚しているから自らやめることはない。勿論、労働組合なんていうものもない。不満があるなら辞めればいい。
『お前の代わりは沢山いる。雇ってもらえたことをありがたく思え』
そんな会社では社長はまさに王であり、息子の専務は王子である。王や王子のいうことは絶対である。別に言葉で表さずとも素振りで何を言わんとしているのか察しろ。それが社員には求められる。それは実和も例外ではない。実和は仕事を終え、いつもの喫茶店で大貴から連絡が来るのをスマホをもって待っていた。暫くすると大貴からLINEが届いた。
実和は喫茶店を出て歩道を歩いていると車道脇にハザードを付けて停車している大貴の白いセダンが見えた。実和はセダンに近づく。運転席にいる大貴が実和を見た。実和は助手席に乗り込むとセダンはハザードを消して走り出した。
「看病、大変だったろ」
「いいえ」実和は伏し目がち。
「でも、こういっちゃなんだけどこれで一区切りついたのかな」
「……そうですね」
実和は大貴を見て、
「専務、ご結婚おめでとうございます」
「知ってるんだ」
「聞きました」
「正確には婚約しただけで、結婚はまだ先だけどね」
実和、伏し目がちに聞いている。
「でも大丈夫。実和ちゃんには良い思いしてもらいたいから。僕たちは何も変わらないよ」
大貴の口調は優しかった。しかし、実和の表情に失望の色が伺える。
公道沿いにホテルまでの距離を示す看板が見える。看板にはホテルまで二百メートルと書いてある。実和はその看板を見ながら思った。
〈まだ私を好きなようにするの?〉
セダンはホテルに向かって走っていった。
二十四時を過ぎた団地は静まり返っている。所々に部屋の灯りが見える。
大貴はセダンを団地の前の車道脇に停車させた。実和は助手席のドアを開け車を降りた。
「おやすみなさい」
「明日、会社で」
実和はお辞儀をしてドアを閉めた。大貴のセダンは実和を残して去っていった。
実和が玄関を開けて部屋に入ると灯りは消えていた。母はもう寝ている。実和は居間の灯りをつけた。父、芳夫の遺影と骨壺が小さなテーブルに置いてある。実和は遺影を見ながら火葬場で聞いた母の言葉を思い出した。
「その『ごめん』は、苦労かけてごめんねって言ったのよ。私からもごめんなさいね。実和の人生に迷惑かけて」
「よしてよ。私、そんな風に思ったことなんて一度もないよ」
母は首を振った。そして涙ぐみながら言った。
「実和。幸せになってね」
実和は父の遺影を見ながら母が言っていた言葉を噛みしめ口を真一文字にした。
〈父が死んだのに私の置かれた立場は何も変わってはいない。専務は婚約したのにまだ私を想い通りにしている。この愛人関係を終わらせる気が全くない〉
実和はそう思うと自分が情けなくなった。
実和はスマホを手に取り動画を見た。その動画は実和が大貴に抱かれている生々しい動画である。実和は自らが抱かれている動画を隠し撮りしたのだ。自らをスキャンダラスな映像の餌にしたのだ。そして、その動画からもっとも生々しい映像を静止画として数点、ピックアップした。実和はその静止画を見て、意を決したように「私にだって、」と呟いた。
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