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Ⅸ
鉛色の空から降り注ぐ雨粒が、地面に無数の円を描いては消えていく。
くるくると回る傘の下。ケープを身に纏い、庭先に佇んだシャナは、煤けた紫陽花をひっそりと眺めていた。見頃が過ぎたとはいえ、無残に焼かれたこの姿には、やはり胸が痛む。
あれから、ひと月が経過した。
あのあとすぐに警察がやってきて、雨の中現場検証が行われた。ベルンによってあらかじめ通報がなされていたとのことで、担当の刑事は真っ先に彼のもとを訪れた。
その一部始終を、シャナはハラハラしながら見守っていた。
ところが、担当刑事はろくに聴取もせず、知り合いとの立ち話よろしく穏やかな笑みを交わすだけだった。そればかりか、グラッフルを交えて少しだけやりとりをすると、遺体を連れて早々に引き上げてしまったのである。
警察はこの件を、不法侵入者に対する正当防衛と結論づけた。
知り合い。そう、知り合いだったのだ。
各界に顕著な影響力を持つグラッフルとベルンは、公人とも深い繋がりがある。現場の担当刑事から当局の上層部に至るまで、その発言力の強さは実に際立っていた。
政界もまた然り。ふたりに恩義を感じている政治家が裏で手を回したおかげで、今回の件が国際問題に発展することはなかった。明るみに出ることすら、なかった。
文字どおり、闇に葬られたのだ。
「おい」
不意に。
背後で、不機嫌な声がした。
おのずとシャナの口元が綻ぶ。振り返らずとも、シャナには誰がどんな顔をしているか浮かんでしまうのだが、湧き上がる嬉しさに誘われ、即座に振り返ってしまった。
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「いつからそこにいるんだ」
今しがた仕事から帰宅したグラッフルと、微妙に噛み合わない問答をする。ひと月ぶりにベルンに会っていたという彼は、大量に土産の詰め込まれた紙袋を握らされていた。
「大丈夫よ。心配しないで。ちゃんと傘は差してるし、上着だって。ね?」
そう言ってシャナが麗しく笑いかければ、グラッフルは口を噤んだ。それでも眉間に皺は寄ったままだったので、あまり納得はしていないようだ。
シャナは、持っていた傘を閉じると、グラッフルの胸元に飛び込んだ。ぱしゃんと、足元の泥水が跳ねる。
「……子どもみたいなことはしねぇって言ってただろ」
「これはべつ」
茶目っ気たっぷりに笑って愉悦に浸るシャナに、グラッフルはため息をついた。
そんな様相とは裏腹に、自身の傘の角度を変え、極力短く持ち直して、その華奢な体を迎え入れる。
「雨の日って、なんだかわくわくしない?」
「いやべつに。三年暮らしててもまだ新鮮か?」
「うーん……たぶん、そういうんじゃないと思うの。わたしはただ、雨が好きなだけ」
「なるほどな。共感はできねぇけど」
「ふふっ。……でも、雨だと作業ができないわね」
ふたり揃って井戸のほうへと視線を向ける。
雨は今日に限ったものではなく、ここ半月にわたる不安定な天候が、埋め立て工事の円滑な進行を妨げていた。一日作業しては一日休み、半日作業しては二日休み、といった具合に。
「まあ、そこまで急いでるわけじゃねぇし、遅れてるわけでもなさそうだから大丈夫だろ。よくやってくれてる」
とはいえ、進捗は順調そのもの。当初の予定よりも工期は短縮される見込みだ。
さすがはベルンお抱えのギルドだと、グラッフルはその技術力に深く感心した。
「……ベルンは、元気にしてた?」
ぽつり、と。
シャナが口にした。
ベルンとは、あれから一度も会っていない。これまでは、ひと月に数回顔を合わせていたゆえ、こんなにも長いあいだ彼の顔を見ないのは初めてだ。
「まだ少し顔は腫れてたな。……が、お前を危険に晒した報いだと思えば、軽いくらいだ」
意図せぬ形とはいえ、ベルンの計画はシャナを巻き込むこととなった。グラッフルの言いつけを守って部屋に留まっていれば免れたのかもしれないが、敷地内にゾルを招いてしまった時点で、無事である保証はなくなっていた。
警察が引き上げたあと。
事前にベルンから何も知らされていなかったグラッフルは、ベルンを糾弾した。シャナに実害が及んだけじめとして、シャナの目の前で彼の顔面を一発殴った。
シャナは止めに入った。けれど、ベルンはグラッフルの拳を甘んじて受けいれた。
恐ろしかったのは事実だ。最悪、命を落としかねない状況だったことも。それでも、シャナはベルンを責める気にはなれなかった。
ベルンの過去を、想いを、知ってしまったから。
「ベルンの大切な人のこと、グラッフルは知ってたんでしょ?」
「……ああ。あいつの家で、何度か会ったこともある」
色白で楚々とした雰囲気の女性だったと、グラッフルは振り返る。けっして恵まれた出自であるとは言えないが、聡明で思いやりのある女性だったと。何より、ふたりはほんとうに愛し合っていた。
幸せそうなベルンの顔が、忘れられない。彼女が死んだと知ったときの、あの悲痛な慟哭も。
「俺があいつの立場だったらって考えると……耐えられねぇな」
「……」
愛する者の死という、人間の存在理由を根源から揺るがす悲劇に、ベルンは直面した。にもかかわらず、絶望の深淵に突き落とされながらなお、彼はシャナとグラッフルを案じてくれたのだ。
彼の採った方法は多少強引ではあったものの、あれ以来、シャナの日常は劇的に変わった。少しずつ料理ができるようになったし、悪夢にうなされることもなくなった。炎に対する恐怖心も克服し、先日は屋敷のシャンデリアと一日じゅう一緒にいた。
過去は潰えた。逃げる必要も、抗う必要も、なくなったのだ。
「でも」
「ん?」
「紫陽花がなくなったのは、すごく悲しい」
焦げついた紫陽花の枯れ枝を指でなぞりながら、シャナは静かに呟いた。
ひと月前まで鮮やかな色彩で庭を彩っていた花は、炭のように黒く変色してしまった。
シャナにとって、特別な花。まるで自分の半身を奪われたかのような喪失感に、寂しそうに笑みを落とす。
「井戸の工事がひと段落したら、また植えりゃいい」
「わたしが植えてもいいの?」
「ああ。好きにしろ」
愛想もない、飾り気もない、されどあたたかいそのいらえに、シャナは眼差しを持ち上げた。相変わらず表情の乏しい彼の横顔に「ありがとう」と伝え、ぴったり寄り添う。
それから、ひと呼吸置いて。
「……わたしね、考えてたの」
シャナは、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「前に話してくれたでしょう? わたしの目が眩しかった、生きたいって叫んでるみたいだった、って。……正直なことを言うと、あまり腑に落ちなかった。だって、檻に入れられたときは、生きたいなんて、思ってなかったから。むしろ、こんな痛い思いをするなら、これ以上つらい環境が待っているなら、いっそのこと——って」
シャナの声は、心なしか震えていた。当時の記憶と向き合えば、否が応でもどろどろとした感情が溢れてしまう。
グラッフルは、ただ黙って耳を傾けていた。急かすことも促すこともせず、シャナの口から継がれる二の句を待った。
雨が傘を打つ。遠くで雷鳴が聞こえる。
静寂。時が冴えるような。
そして。
「でも、あなたが来てくれたから……あなたが、わたしを見つけてくれたから」
シャナの紫目が、まっすぐグラッフルを捉えた。
三年前となにひとつ変わらぬ耀き。まばゆく、美しい。
死にたくないと、生きたいと叫んでいた、あの——。
「あなたが見たのは、あなたを見ていたわたしの目。あなたが眩しいって言ってくれたのはきっと、あなたに焦がれたわたしの目。……あなたのその目に、わたしは惹かれたの」
「!」
グラッフルは瞠目した。予想外も予想外の熱烈な告白に、柄にもなく狼狽えてしまった。
不意打ちを喰らう獅子。澄んだ灰青の双眸には、麗しく微笑むシャナの玉顔が映っている。
「……」
「……」
「……照れてるの?」
「……るせぇ」
がぷっと、グラッフルはシャナの唇を捕まえた。
まるで甘噛でもするかのような荒々しい口づけ。ロマンティックと形容するには程遠い情景だが、そこには、確かに愛が存在していた。
シャナが笑う。声を上げて、嬉しそうに。
幸せそうに。
翌年。
シャナは、井戸の周りに紫陽花を植えた。
かつて灰燼が降り積もった土壌に根ざした紫陽花は、やがて鮮やかな青い花を咲かせた。
<END>
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