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Ⅵ
揺れる炎を、ずっと見ていた。
突如部屋に乗り込んできた兄に押し倒された。激しく抵抗するも、顔を殴られベッドに組み敷かれた。
兄は無表情だった。まるで石で作られた仮面のように、硬く不気味な。にもかかわらず、繊月のような眼は、猛獣のごとく血走っていた。
顎を押さえつけられ、無理やり唇を奪われた。反射的に兄の舌をガヂッと噛めば、また顔を殴られた。血の味がした。
肌に食い込む指先。下腹を這う湿った感触。いつ終わるとも知れない苦痛から逃れるため、シャナは心を殺した。
耐えて、耐えて、ひたすら耐えて。
どのくらいの時間耐え続けただろうか。けたたましい足音が近づいてくるやいなや、蝶番が外れんばかりにドアが押し開けられた。
養母だった。
ようやくこの苦痛が終わる。そう思ったシャナの心が、かすかに動いた。
ところが、そんな一縷の望みも虚しく、ベッド脇のランプによってあらわとなったその光景に、養母は金切り声を立てて発狂した。
『こんの淫乱女ぁ!! ゾルから離れろぉぉぉっ!!』
烈火のごとく怒り狂った養母は、シャナを息子から剥がすようにしてベッドから引きずり下ろすと、顔面を床にはたき込んだ。持っていたカンテラを振りかぶり、華奢なその体目がけて思いきり投げつける。
シャナの喉奥で、小さな悲鳴が上がった。ぎゅっと目を瞑り、とっさに身を丸めるも、かろうじて纏っていただけの寝衣に火がついた。
燃えている。見えないけれどわかる。
熱い。
照りつける太陽よりも、熱砂の大地よりも、すさまじく。
熱い。
床の上でのたうち回る。赤黒い熱風が、髪を、肺を、容赦なく焦がす。
熱い。
痛みに意識が遠のいていくなか、それでもシャナは必死に叫び続けた。
——熱い!!!!
「……っ!!」
また、うなされた。
背中が痛い。焼けるように。頭が割れそうだ。
皮膚は再生した。傷はとっくに治っている。それなのに、脳が痛みを忘れてくれない。
この悪夢は記憶だ。三年前、実際にシャナの身に降りかかった、狂気に満ちた惨劇の。
あの夜、養母はシャナを……シャナだけを、激しく責め立てた。冷静に考えれば、予見できたはずなのだ。養母の怒りが息子である兄に向かうことなどありえないと。
養母にわずかでも救いを見出そうとしてしまった自分の愚かさを、何度自嘲したことか。
「……」
乾いた静けさが漂う。
ふと、隣に目を落とせば、真っ白なシーツが視界に映った。
グラッフルがいない。広い広いベッドに、シャナはひとりきりだった。
急遽ベルンに呼び出され、グラッフルは夕方屋敷を出ていった。先日着工した井戸の埋め立てに関することだろうか。帰宅は深夜になるとのことで、先に休んでいるよう言われた。
ひとりで眠ることは珍しくない。多忙を極める彼と過ごす時間は希少だ。とはいえ、やはりひとりは心細かった。悪夢にさいなまれた夜は、とくに。
「……強く、ならなきゃ」
三年。もう三年が経ったのだ。グラッフルも言っていた。あそこに自分はいない。自分のいるべき場所は、あそこじゃない。もういい加減、忌々しい過去と訣別しなければ。
これ以上、グラッフルをわずらわせたくない。
重荷に、なりたくない。
「……?」
不意に。
庭先で、物音がした。
現在井戸の埋め立て工事が行われているため、周辺には資材や梯子などが置かれたままとなっている。
野良猫のしわざだろうか。それとも野鳥……?
訝しく思いつつも、気づけばシャナはベッドから抜け出していた。寝室をあとにし、階段を駆け下り庭へと向かう。
神秘的なブルームーンが、紺碧の夜空に謐然とぶら下がっていた。
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