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Ⅷ
一瞬だった。
シャナは、その様子を呆然と見つめていた。ともに暮らしていたときは想像すらできない光景だった。
あの家で実質的に力を持っていたのはゾルだ。養母はゾルの言いなりだったし、養父はゾルを後継者としてみずからと同等に扱った。
そんなゾルが——吹っ飛んだ。グラッフルに蹴られて、まるで空箱のように軽々と。
地面に沈む。鳩尾を押さえて悶絶する。かはっと、血を吐いた。
「クソガキが。調子に乗んじゃねぇ」
冷徹な視線を貫かんばかりに浴びせ、グラッフルは吐き捨てた。語気を荒げることこそなかったが、両の灰青には、はっきりと冷たい炎が明滅している。
開いた瞳孔に研ぎ澄まされた怒り。否——殺意。
こんなにも恐ろしい彼を見るのは初めてだ。
「……グラッフル」
シャナの唇が揺れた。喉さえ震わせないささやきで、愛する人の名を呼んだ。
先ほどの叫びは、おそらくグラッフルに届いている。そして、この小さな声も。
シャナの呼びかけに反応したグラッフルの肩が、わずかに振れた。力なく膝をつく。そうしてシャナの頬についた泥を指で拭うと、その逞しい腕でシャナを抱き寄せた。シャナのぬくもりを、何よりも大切なその存在を、確かめるようにきつく抱き締める。
「……悪い。遅くなった」
グラッフルの掠れた息づかいが、シャナの耳朶を優しく打つ。
つんと、鼻の奥が痛んだ。視界が滲む。目頭が、胸が、熱い。
恐怖、悲哀、安堵……短時間で湧き上がった感情が、奔流のように押し寄せてくる。
シャナは、ふるふるとかぶりを振って、涙に濡れた顔をグラッフルの胸元に押し当てた。
「ううん、大丈夫。……おかえりなさい」
彼が謝る必要なんてない。どこにもない。だって、無事に帰ってきてくれた。それだけで、じゅうぶんだ。
「……なん、で、ここに、いるのさ……、……会長さん」
苦しそうなゾルの声が、虚ろに響いた。
およそ信じられないといった口ぶりだったが、プライドと望みはまだ生きているらしかった。わずかに口の端を持ち上げ、睨みつけたその視線の先には——ベルンの姿。
グラッフルの後方で静かに佇むベルンは、満月にも劣らないその麗しい顔を微動もさせず、無言でゾルをじっと見下ろしていた。
碧い瞳に宿るのは侮蔑。どんな白よりもずっと純白な、穢れなき侮蔑だった。
「……今夜は、ここに、戻らない手筈だった、だろ……。ぼくに、協力してくれる、って……。……ふたりに、嫉妬、してるって……あれ、嘘だった、の……?」
ゾルは鳩尾を押さえたまま起き上がり、よろけながらなんとか言葉を発した。ひゅうひゅうと息を弾ませる。
ゾルが語った事実の中には、シャナが危惧していたとおりの内容が含まれていた。だが、それ以上に気になる残響が、耳の中でこだまする。
……嫉妬?
シャナは、グラッフルの顔を見た。彼の表情は依然として険しいままだったが、一歩ひいたところから、ふたりのやりとりを静観していた。
何か知っているのか、はたまた何も知らないのか。シャナには知る由もないけれど、グラッフルがベルンに敵意を持っていないことだけは感取できた。
「……嘘じゃないよ」
「……っ、じゃあ、どうして……っ」
ゾルが吠えた。癇癪まぎれに不満を露わにしてベルンに詰め寄った。
渦巻く疑念と苛立ち。到底納得できる状況ではないらしい。
これに対し、ベルンはシャナとグラッフルを一瞥すると、切なそうに微笑んだ。まるで、言葉を超えた謝罪のような、深い微笑み。
それから一瞬瞑目した後、再度ゾルのほうへと向き直ると、おもむろに口を開いた。
「嫉妬、してる。それは嘘じゃない」
哀しげな声で明かされたのは、これまで鎖していた、彼の心の内側だった。
かつて愛する女性がいたこと。その女性は、父親が奴隷市場で買った使用人だったこと。
幸せだったこと。将来を誓い合ったこと。
激昂した父親が彼女を再度市場へと売り飛ばし、買われた先で彼女はみずから命を絶ったこと。
「……」
シャナは息が詰まりそうだった。普段の明るい彼からは想像もできないほど凄絶な過去に、胸の抉られる思いがした。
似ている。彼女と自分は。
もしもグラッフルじゃなかったら、おそらく自分も彼女と同じ末路をたどっていただろう。みずからの意思で、みずからを終わらせていたはずだ。
けど……と、ベルンは続ける。
「こいつは僕の親友で、この子は親友の大切な人だからね。ふたりには離れてほしくないって思ってる。……そのためにも、君にはこの子の前から消えてもらわないと」
「……はっ、なにそれ。そのために井戸の図面まで渡して、ぼくをここにおびき寄せたのか? ここまで会長さんのシナリオどおりってこと?」
「そうだよ。グラッフルに今夜打ち明けることもね。……ただ、シャナが庭に出てるとは思わなかったから、正直肝が冷えた」
無事でよかったと、ベルンは柳眉を下げて笑った。間に合ってよかったと。心の底から、ほっとしているようだった。
ベルンはグラッフルを裏切ってなどいなかった。シャナをうとんだりしていなかった。
すべてはグラッフルとシャナのため。
シャナの悪夢を、終わらせるため。
「……く、くく……っ、はは……っ、あはははははっ!!!!」
ゾルの哄笑が、あたり一帯に殷々と響き渡る。
笑って笑って笑って、深く息を吸い込んで……がくっと、項垂れた。どうやら、己の本懐を遂げることはできないと悟ったらしい。
「シャナ」
シャナを呼ぶ。互いに幼かったあの頃のように。
「シャナ……」
もう一度呼ぶ。今度は、縋るように。
もう一度、もう一度、もう一度もう一度もう一度、呼んだ。
しかし、何度ゾルに呼ばれようと、シャナが応えることはなかった。動かなかった。体も心も。
ずっと一緒に育ってきた。兄だと思っていた。兄だと思って、慕っていた。
あの夜までは。
いろいろなことを教えてくれた。他愛のない言葉に救われたことがあるのも事実だ。
だが。
今、シャナの中でうごめくのは、激しい怒りと憎しみだけだ。
「もう、ぼくたちの家には帰ってこないの?」
「わたしの家はここよ。ここが、ここだけが、わたしの居場所」
拒絶。
絶望。
沈黙。
そして。
絶叫。
「……や、いや……やだ……っ、やめて……やめてぇえぇぇぇぇ!!!!」
ゾルが炎をちらつかせたのと、グラッフルとベルンが拳銃を構えたのは、ほぼ同時だった。
ゾルは、あらかじめ準備しておいたのだ。シャナがここへ来て最初に嗅いだにおいの正体、それは——油。
ゾルは耽っていた。グラッフルの腕の中で取り乱すシャナを見て、甘美な快楽に浸っていた。
「ああ、シャナ。やっぱり火が怖いんだね。恐怖に歪むお前の顔は本当にきれいだ。お前にそんな顔をさせているのがぼくかと思うと……ぞくぞくする」
シャナが売られたあと。恐怖におののくシャナの顔を思い出しながら、ゾルは人知れず己を歓ばせ欲望を吐き出していた。たまらなく興奮した。犯したあの夜よりも、断然。
自身の手元で揺らめく炎は、かつての無垢な少女を飲み込んだ業の深紅だ。
「……だいぶイカれてるな」
「あれで僕らの半分しか生きてないんだから、将来かなり有望だろ?」
ベルンの皮肉を受けて、グラッフルは忌々しそうに「たしかにな」と吐き捨てた。
有望な芽だ。有望で、有数で、有害な。
早急に摘んでおかなければ。今この場で、摘んで潰して燃やして……灰燼に帰し去ってやる。
「……っ」
突如、グラッフルの腕に痛みが走った。興奮したシャナの爪が皮膚に突き刺さっている。裂けた箇所から、じわりと血が滲んだ。
「落ち着け、シャナ。俺を見ろ」
抱きすくめたままの片腕でシャナの顔を固定し、無理やり視線を搦めとる。
色を失ったシャナの瞳は、ふらふらと虚空をさまよっていた。
「俺を見ろ」
「……、あ……」
重みのある低声が、シャナの意識を呼び戻す。ようやく、目が合った。
「よく聞け。どうしたいのか、お前が選べ。お前が望むものすべて、俺が叶えてやる」
グラッフルのこの問いは、静かに、しかし力強く、シャナの心に響いた。
シャナの瞳に、色が戻る。透きとおるように明るい、まるでアメジストのような光彩。
グラッフルに出会うまで、シャナはただ息をしているだけだった。望むこと。願うこと。そんなものは許されないのだと。……許されていなかったことさえ、気づいていなかった。
自分がどうしたいか。
「わたし、は……」
選ぶものは、とっくに決まっている。
「……っ、わたしは、ここで、あなたと生きていきたい……!」
シャナの声が、夜気を決然と切り裂いた。
今一度覚悟を呼び覚ます。グラッフルと生きるためなら、堕ちることさえ厭わない。シャナにとってこの世でもっとも確かなものは、グラッフルだけなのだから。
炎なんて怖くない。
だって。
「わたしに、過去は必要ない」
刹那。
ゾルの体が動いた。狂気を孕んで、揺れた。
天高く突き抜けた、ふたつの筒音。ゾルの頭と脚に、ふたつの真っ赤な花が散った。
火が落ちる。ゾルが後ろに倒れる。
ごうっという音とともにゾルの影は薄れ、地を這う炎が勢いよく紫陽花を飲み込んだ。
あたりを黒く赤く染め上げながら、燃え盛る炎が夜空に伸びていく。
燃える。
火の粉と煙を巻き上げて。
燃える。
血のように紅い紫陽花が。
グラッフルの腕の中で、シャナが低い空を見上げる。
——雨だ。
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