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 一瞬だった。  シャナは、その様子を呆然と見つめていた。ともに暮らしていたときは想像すらできない光景だった。  あの家で実質的に力を持っていたのはゾルだ。養母はゾルの言いなりだったし、養父はゾルを後継者としてみずからと同等に扱った。  そんなゾルが——吹っ飛んだ。グラッフルに蹴られて、まるで空箱のように軽々と。  地面に沈む。鳩尾を押さえて悶絶する。かはっと、血を吐いた。 「クソガキが。調子に乗んじゃねぇ」  冷徹な視線を貫かんばかりに浴びせ、グラッフルは吐き捨てた。語気を荒げることこそなかったが、両の灰青には、はっきりと冷たい炎が明滅している。  開いた瞳孔に研ぎ澄まされた怒り。否——殺意。  こんなにも恐ろしい彼を見るのは初めてだ。 「……グラッフル」  シャナの唇が揺れた。喉さえ震わせないささやきで、愛する人の名を呼んだ。  先ほどの叫びは、おそらくグラッフルに届いている。そして、この小さな声も。  シャナの呼びかけに反応したグラッフルの肩が、わずかに振れた。力なく膝をつく。そうしてシャナの頬についた泥を指で拭うと、その逞しい腕でシャナを抱き寄せた。シャナのぬくもりを、何よりも大切なその存在を、確かめるようにきつく抱き締める。 「……悪い。遅くなった」  グラッフルの掠れた息づかいが、シャナの耳朶を優しく打つ。  つんと、鼻の奥が痛んだ。視界が滲む。目頭が、胸が、熱い。  恐怖、悲哀、安堵……短時間で湧き上がった感情が、奔流のように押し寄せてくる。  シャナは、ふるふるとかぶりを振って、涙に濡れた顔をグラッフルの胸元に押し当てた。 「ううん、大丈夫。……おかえりなさい」  彼が謝る必要なんてない。どこにもない。だって、無事に帰ってきてくれた。それだけで、じゅうぶんだ。 「……なん、で、ここに、いるのさ……、……会長さん」  苦しそうなゾルの声が、虚ろに響いた。  およそ信じられないといった口ぶりだったが、プライドと望みはまだ生きているらしかった。わずかに口の端を持ち上げ、睨みつけたその視線の先には——ベルンの姿。  グラッフルの後方で静かに佇むベルンは、満月にも劣らないその麗しい(かんばせ)を微動もさせず、無言でゾルをじっと見下ろしていた。  碧い瞳に宿るのは侮蔑。どんな白よりもずっと純白な、穢れなき侮蔑だった。 「……今夜は、ここに、戻らない手筈だった、だろ……。ぼくに、協力してくれる、って……。……ふたりに、嫉妬、してるって……あれ、嘘だった、の……?」  ゾルは鳩尾を押さえたまま起き上がり、よろけながらなんとか言葉を発した。ひゅうひゅうと息を弾ませる。  ゾルが語った事実の中には、シャナが危惧していたとおりの内容が含まれていた。だが、それ以上に気になる残響が、耳の中でこだまする。  ……嫉妬?  シャナは、グラッフルの顔を見た。彼の表情は依然として険しいままだったが、一歩ひいたところから、ふたりのやりとりを静観していた。  何か知っているのか、はたまた何も知らないのか。シャナには知る由もないけれど、グラッフルがベルンに敵意を持っていないことだけは感取できた。 「……嘘じゃないよ」 「……っ、じゃあ、どうして……っ」  ゾルが吠えた。癇癪まぎれに不満を露わにしてベルンに詰め寄った。  渦巻く疑念と苛立ち。到底納得できる状況ではないらしい。  これに対し、ベルンはシャナとグラッフルを一瞥すると、切なそうに微笑んだ。まるで、言葉を超えた謝罪のような、深い微笑み。  それから一瞬瞑目した後、再度ゾルのほうへと向き直ると、おもむろに口を開いた。 「嫉妬、してる。それは嘘じゃない」  哀しげな声で明かされたのは、これまで(とざ)していた、彼の心の内側だった。  かつて愛する女性がいたこと。その女性は、父親が奴隷市場で買った使用人だったこと。  幸せだったこと。将来を誓い合ったこと。  激昂した父親が彼女を再度市場へと売り飛ばし、買われた先で彼女はみずから命を絶ったこと。 「……」   シャナは息が詰まりそうだった。普段の明るい彼からは想像もできないほど凄絶な過去に、胸の抉られる思いがした。  似ている。彼女と自分は。  もしもグラッフルじゃなかったら、おそらく自分も彼女と同じ末路をたどっていただろう。みずからの意思で、みずからを終わらせていたはずだ。  けど……と、ベルンは続ける。 「こいつは僕の親友で、この子は親友の大切な人だからね。ふたりには離れてほしくないって思ってる。……そのためにも、君にはこの子の前から消えてもらわないと」 「……はっ、なにそれ。そのために井戸の図面まで渡して、ぼくをここにおびき寄せたのか? ここまで会長さんのシナリオどおりってこと?」 「そうだよ。グラッフルに今夜打ち明けることもね。……ただ、シャナが庭に出てるとは思わなかったから、正直肝が冷えた」  無事でよかったと、ベルンは柳眉を下げて笑った。間に合ってよかったと。心の底から、ほっとしているようだった。  ベルンはグラッフルを裏切ってなどいなかった。シャナをうとんだりしていなかった。  すべてはグラッフルとシャナのため。  シャナの悪夢を、終わらせるため。 「……く、くく……っ、はは……っ、あはははははっ!!!!」  ゾルの哄笑が、あたり一帯に殷々と響き渡る。  笑って笑って笑って、深く息を吸い込んで……がくっと、項垂れた。どうやら、己の本懐を遂げることはできないと悟ったらしい。 「シャナ」  シャナを呼ぶ。互いに幼かったあの頃のように。 「シャナ……」  もう一度呼ぶ。今度は、縋るように。  もう一度、もう一度、もう一度もう一度もう一度、呼んだ。  しかし、何度ゾルに呼ばれようと、シャナが応えることはなかった。動かなかった。体も心も。  ずっと一緒に育ってきた。兄だと思っていた。兄だと思って、慕っていた。  あの夜までは。  いろいろなことを教えてくれた。他愛のない言葉に救われたことがあるのも事実だ。  だが。  今、シャナの中でうごめくのは、激しい怒りと憎しみだけだ。 「もう、ぼくたちの家には帰ってこないの?」 「わたしの家はここよ。ここが、ここだけが、わたしの居場所」  拒絶。  絶望。  沈黙。  そして。  絶叫。 「……や、いや……やだ……っ、やめて……やめてぇえぇぇぇぇ!!!!」  ゾルが炎をちらつかせたのと、グラッフルとベルンが拳銃を構えたのは、ほぼ同時だった。  ゾルは、あらかじめ準備しておいたのだ。シャナがここへ来て最初に嗅いだにおいの正体、それは——油。  ゾルは耽っていた。グラッフルの腕の中で取り乱すシャナを見て、甘美な快楽に浸っていた。 「ああ、シャナ。やっぱり火が怖いんだね。恐怖に歪むお前の顔は本当にきれいだ。お前にそんな顔をさせているのがぼくかと思うと……ぞくぞくする」  シャナが売られたあと。恐怖におののくシャナの顔を思い出しながら、ゾルは人知れず己を歓ばせ欲望を吐き出していた。たまらなく興奮した。犯したあの夜よりも、断然。  自身の手元で揺らめく炎は、かつての無垢な少女を飲み込んだ業の深紅だ。 「……だいぶイカれてるな」 「あれで僕らの半分しか生きてないんだから、将来かなり有望だろ?」  ベルンの皮肉を受けて、グラッフルは忌々しそうに「たしかにな」と吐き捨てた。  有望な芽だ。有望で、有数で、有害な。  早急に摘んでおかなければ。今この場で、摘んで潰して燃やして……灰燼に帰し去ってやる。 「……っ」  突如、グラッフルの腕に痛みが走った。興奮したシャナの爪が皮膚に突き刺さっている。裂けた箇所から、じわりと血が滲んだ。 「落ち着け、シャナ。俺を見ろ」  抱きすくめたままの片腕でシャナの顔を固定し、無理やり視線を搦めとる。  色を失ったシャナの瞳は、ふらふらと虚空をさまよっていた。 「俺を見ろ」 「……、あ……」  重みのある低声が、シャナの意識を呼び戻す。ようやく、目が合った。 「よく聞け。()()()()()()()、お前が選べ。お前が望むものすべて、俺が叶えてやる」  グラッフルのこの問いは、静かに、しかし力強く、シャナの心に響いた。  シャナの瞳に、色が戻る。透きとおるように明るい、まるでアメジストのような光彩。  グラッフルに出会うまで、シャナはただ息をしているだけだった。望むこと。願うこと。そんなものは許されないのだと。……許されていなかったことさえ、気づいていなかった。  自分がどうしたいか。 「わたし、は……」  選ぶものは、とっくに決まっている。 「……っ、わたしは、ここで、あなたと生きていきたい……!」  シャナの声が、夜気を決然と切り裂いた。  今一度覚悟を呼び覚ます。グラッフルと生きるためなら、堕ちることさえ厭わない。シャナにとってこの世でもっとも確かなものは、グラッフルだけなのだから。  炎なんて怖くない。  だって。 「わたしに、過去は必要ない」  刹那。  ゾルの体が動いた。狂気を孕んで、揺れた。  天高く突き抜けた、ふたつの筒音。ゾルの頭と脚に、ふたつの真っ赤な花が散った。  火が落ちる。ゾルが後ろに倒れる。  ごうっという音とともにゾルの影は薄れ、地を這う炎が勢いよく紫陽花を飲み込んだ。  あたりを黒く赤く染め上げながら、燃え盛る炎が夜空に伸びていく。  燃える。  火の粉と煙を巻き上げて。  燃える。  血のように紅い紫陽花が。  グラッフルの腕の中で、シャナが低い空を見上げる。  ——雨だ。
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