ただ、見てる

1/1
前へ
/1ページ
次へ

ただ、見てる

「いてて……」  鈍い全身の痛みに目を開けると、目の前には輪っか状に結ばれた縄があった。一瞬思考が停止する。  しかし、ジンジンと痛む頭ですぐに理解した。  そうだ、俺は死のうとしていたのだ。昨晩は、何もかもが嫌になってしまい、25歳にして初めてやけ酒をし、酔ったのち自殺の準備をしていたのだ。  それがたまたま椅子に乗った瞬間に意識がはっきりしたということだろう。  お酒を飲んだのは昨晩が初めてだったので、初めての二日酔いに小さくため息をつく。 「しかし、昨日の俺の勇気を無駄にするわけにはいかんしな。よし、死のう」  縄に手をかけ、ぎゅっと目を瞑る。  首吊りは初めてだ。日本の死刑の際の首吊りは苦しまずに死ねるそうだが、一般的な首吊りは苦しいらしい。  俺は一体何分苦しむのだろう。死体は発見してもらえるのだろうか。  ……いや、当分は発見されないだろうな。  こんなクソみたいな人生にも未練がましく縋り付いていると、右側から刺さるような視線を感じた。  ありえないのだ。俺には家に招くような友人もいなければ、家族仲も良くない。右側には視線を感じるようなものは置いていない。  俺は恐る恐る視線の主に目をやった。 「……誰ですか、あんた」  俺に熱烈な視線を送っていたのは見知らぬおっさんだった。少しお腹が出ていて、禿げかかった頭。絵に描いたような中年サラリーマンだ。 「あの……どうやって、いつからここにいるんですか?」  もしかしたら、酔っ払って俺が招いてしまったのかもしれないと一瞬考えたが、そもそも俺に人に話しかけるような勇気はない。  おっさんは、俺の問いに答えることもせず、ただ真っ黒な目でコチラを見つめている。  どこかを見ているようで見ていない。こちらを見ているのに視線の交わることのないその空虚な瞳は、見ているだけで背筋を凍らせるには十分なものだった。 「あの……聞いてます?」  試しに手を振ってみた。 ——やはり反応はない。  試しにお腹に触れてみた。 ——するとどうだろう、俺の手はおっさんのお腹をすり抜けたではないか。 「マジかよ……」と思わず小さく呟いてしまった。その直後、笑いが漏れる。 「俺、幽霊にも無視されるとか……マジで終わってるわ」  笑いと同時に、目頭が熱くなるのを感じる。 緊張で固まっていた体の力が一気に抜け、俺は先ほどまで立っていた椅子に腰掛けた。 「あのさ……ちょっと話していいかな」  返事はないだろうと思いつつも、一応声をかける。  やはりおっさんの返事はなく、「そうだよな」と一人納得して俺は続けて口を開く。 「俺、昔からいじめられっ子体質ってやつでさ。小学校の頃から、会社に通い始めた今現在もいじめられてるんだよ。カッコ悪いだろ?」  おっさんは何も言わずにこちらを見ている。 「ムカつくさ。そんなのいじめてくる奴の方が間違ってるんだ。あいつらは頭がおかしい。イカれてる。……でもさ、だんだん俺が悪いんじゃないかって思い始めたんだ。そんなはずはない。だって俺は本当に何もしていないんだ。他の人と同じように生きてた」  一度話し出すと、溜まっていたものが溢れるように口からこぼれ出す。  おっさんが何も言わずに立っているのも、今となってはなんだか心地よかった。 「同じように生きていても、なぜだか俺はあいつらの八つ当たりに使われるんだ。俺が悪いのか? 俺の存在が彼らを不快にさせているのか?」  俺は縋るようにおっさんを見る。 「なあ、俺はあいつらの言うように今すぐ死ぬべきなのかな」  小さく放った言葉にも、おっさんの瞳が動くことはなかった。そんなおっさんの瞳に、俺はゆっくりと息を漏らす。 「そうだよな……。死人にこんなこと聞くなんて、こういうところなのかもな。やっぱり死ぬわ。でもさ、おっさん。……死んだ後は俺たち、普通の人みたいに話せるかな」  何を言ってるんだ俺は。もう何年も誰かに向けて自分の気持ちを話すなんてことしてこなかったから、おかしくなったんだ。 「よし、じゃあまた後で」  決心するように立ち上がり、硬く目を閉じ、首に縄をかけ勢いよく椅子を蹴った。  縄は容赦なく俺の首を圧迫する。 「あれ……?」  が、全く苦しくない。思わずおっさんの方を見て首を傾げてしまった。 「いや、首吊ってるのに首傾げるのはおかしいだろ」  せっかくの決心を台無しにされた俺は、一周回って冷静になっていた。  足元に目をやれば、俺の足はしっかりと椅子についていた。つまり縄と椅子をすり抜けていたのだ。  試しにもう一度縄に手をかけてみたが、触った感触はあるが動かすことはできない。動かそうとするとすり抜けるのだ。 「なんだ、俺もう死んでるんだ」  どうやら俺は自殺に成功していたらしい。  クソみたいな人生だったが、死んでから思えばなんだか良いこともあったような気がしてくる。親にも、一度でいいから感謝を伝えておけばよかった。  なんて後悔をしながら、俺はおっさんをぎろりと睨む。 「なあおっさん。幽霊なら最初からそう言ってくれよ。俺、なんか恥ずかしいじゃん」  おっさんは何も言わずに俺を見つめている。  出会ってから短い時間ではあるが、変わらないおっさんの態度に俺は小さくため息をつく。  不思議と気分は晴れやかだった。 「でもさ、俺ようやく自分のことを自分で決められたような気がするんだ。 今まで自分の価値も進路も何もかもを誰かに決められているような気がしてて、生きてるって感じがしなかったんだ。……でも死んでから言うのも変な感じだけど、今俺、生きてるって感じがする」 「その選択が自殺ってのもなんか悲しいけどさ」と笑った俺の頬を、冷たい夜風がそっと撫でた。 「なんだ……?」  おかしい。俺は普段、外から聞こえてくる人の声が怖くて窓を閉め切っている。夜風が入ってくることなんてありえないのだ。  不審に思って窓の方に目をやれば、窓は乱暴に割られていた。  ガラスが内側に飛び散っているということは、酔って俺がやったのではない。他の誰かが外から割ったのだ。  誰かの嫌からせだろうか。もしくは……。  そう思い、俺はおっさんに目を向ける。  いやいや、それはない。なぜならおっさんは幽霊で、窓を割る必要がないからだ。だとしたら一体誰が? 「ダメだ、全人類が俺の家の窓を割る理由を持っている気がしてくる」  頭を抱えながらも、ふと視線を上げると違和感に気がついた。  部屋が暗く、普段から散らかっていたため気が付かなかったが、不自然にタンスやクローゼットが開けられている。それに、冷蔵庫までもが開けっぱなしになっていて、小さくピーッという音が鳴っているのが聞こえた。  床に敷かれたカーペットがひどく乱れている。  台所、リビング、広い部屋ではないが、全体的に荒らされた形跡があるのだ。  ふと連想されたのは強盗。こんな家になぜ入ったのかは分からないが、この部屋はアパートの2階で侵入不可能なわけでもない。たまたま俺の家に入ってきたのかもしれない。  ……だとしたらいつ?  昨日から死ぬつもりで無断で仕事を休んでいる。つまり、俺がこの家から出た時間なんてない。酔っ払っている間に入ってきたのか?もしくは俺が死んだ後だろうか。  二日酔いで頭がガンガンと痛む。死んでからも二日酔いの効果は続くのかよ、と死んでもなお続く不条理に唇を噛んだ。  俺は痛む頭を押さえながら、部屋と立ち尽くすおっさんを見つめる。 「……何を見ているんだ?」  観察していて今更気がついたのだが、おっさんは決して俺を見ているわけではなかった。ただ、俺が立っていた方をじっと見ているのだ。  幽霊が立ち尽くしているなんてありがちな話だが、気になっておっさんの視線の先を追いかける。 「おいマジかよ……」  視線の先にいたのは、壁にもたれかかるように座り込んでいる自分だった。  座り込んだ俺は頭から血を流していて、誰かと争ったのか服は乱れ頬が腫れていた。さらに腹部には台所から持ち出したのであろう包丁が深々と刺さっている。  うっすらと開かれた目は、もう彼が生きていないことを示すように何も写さない。 「よりにもよって他殺かよ……」  先ほどまでの清々しい気持ちはもう俺の心には残っていなかった。  俺を心配して訪ねてくる人なんていないだろう。異臭で誰かが気づくまで、俺の死体が人目に触れることはない。  幽霊になった俺は、腐っていくだけの自分をただ見ている事しかできないのだ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加