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死神の夜想曲
月が空高く昇り、まるで眠りを拒むかのように街を見下ろしていた。
誰もが寝静まった頃、私はビルの屋上に一人で立ち尽くしている。冷え切った私の頬を冷たい夜風がそっと撫でた。
「やあ。今日は早いんだね」
どこか哀しげな優しい声に、私は高鳴る胸を押さえ振り返った。
「待っていたわ」
足音もなく現れた青年は、そっと私に手を差し伸べる。私は何も言わずに彼の手を取った。
すると次の瞬間、どこからともなく静かな音楽が響き始める。
優美な音楽に身を任せるようにして、私たちは軽やかに宙を舞う。
周囲に無数の星が降り注いだ。闇に浮かぶ光の粒が二人を包み、大きく光る満月は私たちだけに当てられたスポットライトのようだった。
少しもつれる足で、彼に導かれるままステップを踏む。彼の足を踏まないようにと私が下を向けば、まろやかな声が耳に届く。
「何も気にする必要ないよ。君ただ僕だけを見て、身を委ねてくれればいい」
私は彼の言う通りに、ただ彼を見つめていた。
透き通るような肌の彼のことを、私は何も知らない。ただ、満月の夜にこうして踊るのだ。彼の、まるで星々の輝きを映したような秀麗さは、私に彼が天使なのではないかと錯覚させる。
「あなたといると、ここが現実だと忘れてしまいそう」
私がそう呟くと青年はただ微笑み、私を優雅に旋回させる。彼の手に導かれるまま、私は何もかもを忘れてゆったりと踊り続けた。
夜の冷たさも、地面の硬さすらも、今の私には存在しない。
瞬く光の中、二人だけの時間が静かに流れていく。私の瞳に映るのは、ただ彼だけ。彼の腕の中で、彼の瞳に酔いしれ、まるで永遠がここにあるのかのように感じていた。
視界が滲み、光がぼやけ、まるで夢の中にいるような感覚が、ゆったりとした音楽と共にさらに深まっていく。
星のような光が私たちの周りで揺らめき、夜空の青さが波のように二人の中へと流れ込む。
夜の空気は冷たいはずなのに、彼の手を握っていると、まるで柔らかな布に包まれたような温もりが指先を伝う。彼の囁く声は深く、どこか遠くで響く鐘の音のようで、私の耳に心地よく染み込んでくる。足元は何故か軽く、まるで風に乗って踊っているかのようだった。
「あなたと、ずっとこのまま踊っていられたら良いのに」
私の囁きは、風に乗って夜空に溶けていった。
私は手を取られるまま、知らず知らずのうちに夜の空へと引き寄せられていた。
ビルの淵に立つと、星々がまるで私たちを祝福するかのように煌めき、二人の周りで静かに回っているようだ。
彼がくるりと私を引き寄せる。夜の深さを映したような彼の目は、私の視線を奪って離さない。
「君のために、今夜は月さえも微笑んでいるんだよ」
と、彼はそっと耳元で囁いた。
彼の声が愛おしさと共に胸に響き、私の心を優しく乱す。彼の言葉がまるで魔法のように心を捕らえ、他の全てがどうでも良く思えてしまう。
感じたことのないほどの幸福感。たとえ明日が来ないとしても、この瞬間に永遠を感じられるなら、それで十分だと思った。
気がつけば、二人は月光に照らされた宙を舞っていた。音もなく、ただ彼の腕に抱かれて。
しかし、ふと足が空を切った瞬間、一瞬何か冷たい感触があったような気がした。けれどそれはすぐに溶けて消えてしまう。
微睡の中で二人を隔つ境界さえも消えてしまうほどに、ただ彼の温もりを感じていた。
——朝の光が街を照らす頃、少女の体はビルの下でただ一人静かに横たわっていた。夜露が消える頃には、彼女の火照った肌も、冷たい霧に溶け込むように消え始める。まるで彼女がこの世にいた証も儚く消え去るかのように。
彼女の瞳は何も映さなくなった。彼女の甘い恋も、夢のような夜も、月の光に溶けて永遠に消えてしまったのだ——。
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