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天使に近づくグミ
「それ、天使に近づけるグミらしいよ」
私の言葉に、彼女は興味なさそうに「あっそ」とだけ返事をした。
彼女の手には柔らかいピンク色のラッピングに包まれたグミがある。
ふんわりと甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐり、口の中が自然と潤う。
「一つ頂戴?」
軽く尋ねると、彼女は分かりやすく眉をひそめた。
「嫌に決まってるでしょ」
「でもそれ、私のお菓子だし」
「そんなの知らないよ」
ふん、と鼻を鳴らして、彼女はハート形のグミをまた一粒口に放り込む。
彼女のこうした横暴ぶりは今に始まったことではない。昔からわがままで、自分の思い通りに事が進まなければ駄々をこね、気に入らない相手には陰湿な意地悪をするような子だった。
ケチだなんて言えば、きっと彼女を怒らせる。私は諦めて窓の外に目をやる。
「天使に近づくって、どういうことなんだろうね」
私の呟きに、彼女は反応を示さない。
天使と言えば、天国。つまり——
「死ぬってことなのかな」
そう言った瞬間、彼女は顔を強張らせた。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
冗談にしては真剣な声。視線を泳がせ、小さく震えた声がどこか不安げに響く。
「これどこで買ったの?」
「買ったんじゃないよ。今日、朝の公園でお婆さんがくれたの」
彼女の顔は一瞬で青ざめ、口を押さえる。そして、突き刺すような視線を私に送ったかと思うと、すぐに教室を飛び出していった。
次の日、彼女はまるで別人のようになって私の前に現れた。
顔はやつれ、目には疲れが滲んでいる。どうやらあれ以降、心配で食事が喉を通らず、寝付けないらしい。
かつてのような生気はなく、空っぽの目でどこか遠くを見つめている。まるで「死」という言葉が、彼女から色彩を奪ったかのようだ。
少し気になって声をかけてみたが、彼女は鋭い目つきで睨むだけだった。
ある日、彼女がポツリと呟いた。
「死んだらどうなるんだろう……」
消え入りそうな彼女の声に、私は肩をすくめ、
「分からないけど、天国とか地獄に行くんじゃない?」
そう答えた瞬間、彼女の瞳に光が戻る。
「そうだよね。そうに決まってる」
やつれた頬にかすかに微笑みが浮かび、彼女は嬉しそうに言った。
「なんだか元気が出たみたい。ありがとう」
一瞬呆気に取られたが、すぐに我に返る。彼女が「ありがとう」だなんて。幻覚でも見ている気分だ。
目を擦ってみるが、そこには今までにない彼女の優しい笑顔があるだけだった。
それ以来、彼女の行動はがらりと変わった。今まで冷たくあしらっていたクラスメートにまで「ありがとう」とか「ごめんなさい」を伝え歩くようになったのだ。
いつもは軽く流していた他人の気持ちに、初めて目を向けたらしい。
彼女の言葉に、皆私と同じように驚いて目を見開いた。
そればかりか、老人の荷物を持って歩いたり、席を譲ったり、掃除を手伝ってくれたり。別人のように変わった彼女には、いつも人を踏みつけるように笑っていた頃の面影は一切なくなっている。
彼女の整った容姿に、思いやり溢れる行動は、私に天使を思わせた。
「どうして急に優しくしようと思ったの?」
私が尋ねると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げ口を開く。
「いつもわがままで迷惑をかけて……親友のあなたにも酷いことをたくさん言った。病気がちな両親の見舞いの一つも行かなかった」
彼女はそう言って、瞼を伏せる。
「でも、もう終わりかもしれないってとき、このままじゃダメだって思ったの。今からでも優しくしたら、許してもらえるかなって」
無遠慮で、冷たい言葉を平然と吐き、人の心を踏み躙ることも少なくなかったのに。それでも彼女は、天国を願って人々に優しく接していた。
まるで、これで償いになると信じているかのように。
彼女の容態は、留まるどころかますます悪化し、今では病室のベッドで動くこともままならない。彼女の細い腕に何本もの管が絡まり、その先の痛々しさを物語っている。
医者によれば、もういつ亡くなってもおかしくないらしい。
「まさか、本当に死んじゃうようなものだったなんて。謝って許されるなんて思ってないけど……ごめんなさい」
私はベッドの横に座り、絞り出すように謝罪の言葉を口にした。
「いいの。私が勝手に食べたんだもん」
彼女は弱々しく微笑んで見せた。握られた彼女の手は小さく震えている。
「もし、天国で出会った時は……また良い友達になってくれる?」
悄然とした彼女の瞳には、どこか柔らかな優しさが宿っているようだった。
私はかすかに笑い、握られた手を離す。
「そんな虫のいい話、天使だって呆れるよ」
私の乾いた声に驚愕したように、彼女の目が見開かれる。乾燥した唇が何かを言おうと小さく動いた時、彼女の顔が苦痛に歪んだ。苦しそうに胸を抑え、彼女の細い足がシーツを乱す。
やがて病室には、冷たく静まり返った沈黙だけが残された。
彼女の苦悶に満ちた表情は、地獄の入り口でも見たようにも、私を睨んでいるのかのようにも見える。
陽の光が、彼女の横顔を優しく包み込む。
彼女は天国へ行けただろうか。きっと私は地獄行き。
でもいいのだ。私はポケットに入れられたお菓子をそっと撫でる。
「その時はきっと、また友達になろうね」
まだ体温の残る彼女の体にそう言い残し、私は軽い足取りで病室を後にした。
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