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お夏と一番接することが多いのは、お夏の母と、それなら母の身の回りの世話をする使用人さんたちである。あとは、母と仲良しの“あねさん”たちだ。
母と一番仲良しなのは“米さん”という女性だった。彼女は母よりもずっと大きくて、どっしりとした声をしていた。
「米さん、米さん、遊んでおくれ!お夏はひまだよ!」
「はいはいお嬢、今行きますからね」
米さんは力持ちなので、お夏をいつも肩車してくれる。米さんにだっこや肩車をしてもらうと、視線が高くなってとても楽しい。母は米さんと違って細いので、最近はお夏をだっこするのがちょっとしんどそうだった。なので、基本的にはだっこやおんぶは米さんにお願いすることにしていたのである。
母は忙しい人だった。特に、お夏が七つになる頃から一緒にいられる時間が短くなったのである。朝と夜はお夏とお喋りをしたりもしてくれるが、昼間はなかなか共にいられない。米さんいわく、母の仕事が忙しくなってしまったらしい。
「時さんはあたしと違って綺麗だからね。おしゃべりも上手で、だから人気があるんだ。今やこの店で一番さ。だから、仕方ないことではあるんだよ」
時さん、というのが母の名前だった。
「淋しいかもしれんが、我慢しておくれね。全てはお金をためて、いつかあんたと二人で生きていくためなのさ。時さんは、あんたには自分みたいになってほしくないんだよ」
「おっかさんや米さんは、どんな仕事をしているの?」
「……訊かないどくれ、お夏。時さんも知られたくないはずさ。こんな、嫌な仕事なんて」
仕事の内容を、米さんも母も頑なに教えてくれなかった。とても大変な仕事らしいのはわかる。特に夜遅くに帰ってくる時の母や朝に部屋に戻って来る母は、とても疲れ切った顔で湯浴みに行くのが常であったから。
「あたしも時さんもね、親に売られてこの店に来たんだよ。あたしらみたいに貧しい家の子や孤児にはままあることなんだ。こういう店に子供を売って、いやーな仕事をさせるんだよ。本当に嫌な仕事さ、人の尊厳なんかあったもんじゃない。そして、浮浪児を探して売り物にしようっていう悪い大人もわんさかといるもんさ」
「じゃあ、お夏も捨てられてたら、そうなったかもしれないってこと?」
「ああ。でも、あんたはそうはならなかった。時さんがそうさせなかった。……だから時さんは頑張って仕事してるんだ。金さえあればなんだってできる。好きなことをして、楽しく笑って過ごすこともできるってなもんだ」
だからわかっておくれね、と米さんは少し寂しそうに笑った。
「あんたのお夏って名前は、時さんの本名から取ってるんだ。あんたのおっかさんは、それほどまでにあんたを大事に思ってるんだよ」
米さんがそう教えてくれてから、お夏は自分の名前がますます好きになった。
そして思ったのだ。いつか、母の本当の名前を教えてもらおう、と。
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