愛は鬼にも悪にも勝る

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愛は鬼にも悪にも勝る

 お(なつ)が世界で一番好きなものは、母である。  誰より美しく、誰より優しく、誰よりお夏を愛してくれる彼女のことをお夏もまた心から愛していた。例え自分と彼女に、明らかにのっぴきならぬ事情があるとわかっていてもだ。  お夏は幼い頃は、ずっとお屋敷の中で暮らしていた。大きな日本家屋であり、たくさんの人が暮らしているお屋敷である。どうやらそこが、母の職場であるらしい。多分母は偉い人の奥方や妾なのかと最初はそう思っていた。母の部屋にあった本に、そんな感じの箱入り娘が登場したからだ。  お夏は自分が賢いことを自覚していた。まだ五つをやっと数えるくらいの年にはもう、難しい漢字の類も読むことができたし、なんなら外来語も多少理解することが出来たからである。  いつも派手な橙の着物を着て、簪を髪にさしていた母。黒髪黒目の母とは違い、お夏は黒髪に赤い目をしていた。目の色まで母と同じだったら良かったのに、と何度そうぼやいたか知れない。 「おっかさん、お夏の目の色は、おっとさんと同じなのかな?お夏、目の色もおっかさんと同じだったら嬉しかったけど」  前にそう呟くと、母は少し驚いた顔をした。自分が何を言いたいのかわからなかったのだろうかと、母に髪をとかされながら続けたのである。 「お夏、おっかさんが大好きだから!おっかさんとそっくりなところがあれば嬉しいなって。そりゃあ、お夏はおっかさんとおっとさんが両方いないと生まれて来れなかったのかもしんないけど、お夏をいつも愛してくれるのはおっかさんだけでしょ?おっとさんは、お夏に顔を見せてもくれやしない」 「まあ、そうだね……」 「ねえ、お夏のおっとさんって、どんな人なの?」 「…………」  父について尋ねてはいけない。その日、お夏はそう悟ったのだった。何故ならば。 「わからねえのさ」  母は悲しそうに首を横に振ったのである。 「お夏のおっとさんがどんな人なのか、私にはわからねえんだ。きっと、お夏に似ていたのだろうけれど」 「え?お夏、おっかさんとおっとさんが愛し合って産まれたんじゃないの?本には、男の人と女の人が夫婦(めのと)になると子どもが生まれると書いてあったよ」 「……すまねえな、お夏」 「なんで謝るの、おっかさん」 「本当に、すまねえと思ってるんだ、お夏……」  なんで母が謝るのか、お夏にはまったくわからなかった。ただ、父について訊くと母は悲しい顔をするのだと、それだけは理解したのである。 「一つだけ、忘れてくれるなよ。お前が誰であろうと、父親が誰であろうと、おっかさんはお夏のことを誰より愛してるってことを。……お夏はな、私にとってたった一つの宝物で、世界で一番大切な存在なんだ。だから、お夏も……どうか、自分が生まれてきたことを誇っておくれ。絶対に、自分は要らない子だったなんて思ってくれるなよ。そんなことになったら、おっかさんは悲しくて悲しくて死んじまうからな」 「……それは、いや。お夏はおっかさんが死んだら嫌だ」 「そうだろう、そうだろう?安心をし、おっとさんがいなくても、この屋敷にはお夏が大好きな人がたくさんいるからな。お夏のことはおっかさんとみんなが、ずっとずっと守ってやるからな……」  もう少し年を重ねれば、母が言っていた言葉の意味もわかってこようというものだ。なんせ、勉強するための本は母の部屋にも、母の友達の部屋にもたくさんあったものだから。  お夏は普通の子ではないのだ。何故ならこの世には、愛されなくても生まれてきてしまう子もいる。男の人が女の人に酷いことをすると、愛がなくても子どもができてしまうことがあるらしい(酷いこと、の具体的な内容までは、この時はまだわかっていなかったけれど)。それから、愛し合っていた夫婦でも、生まれた子供は可愛くなくて捨ててしまうこともあるのだろそうだ。  ならば、自分は少なくとも幸せな子供であるのは間違いない。お夏はそう結論を出した。何故ならば。 ――この世には愛されない子どもいる。けど、お夏にはお夏を愛してくれるおっかさんがいて、おっかさんの周りの人もみんなお夏を可愛がってくれる。  ならば、お夏は紛れもなく幸福なのだ。  それ以上に大切なことなど、きっとこの世には存在しないのである。
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