プロローグ

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プロローグ

 呼吸が出来ない。  車に轢かれて弾き飛ばされた後、腹側から落ちた事で、肋骨が折れて肺に刺さったようだ。  当然、立ち上がる事も出来ない。寝返りすらも難しい。  それでも血を吐きながら何とか寝返りを打ち、身体の向きを変えて――の方を見ると、ボクを車道へ押し出した人……の形をした悪魔を取り押さえてる場面が目に映った。  当たり前ではあるが、辺りが騒然としているので耳が痛い。誰がどこから声を出してるのか、正直判別が難しい状況だ。  誰か救急車は呼んだのだろうか。警察にも連絡はしたのだろうか。  遠巻きから見てヒソヒソ話すだけで、動こうとしない人々を見て、何とも言えない気分になる。  だからこそ、動く人影はかなり目立つ。知ってる人影なら尚更。 「聖っ!」 「おか、さん」  お母さんの姿を見て、ほんの少し安心感を覚える。  居ても立っても居られない心境になったのか、それともお母さんなりに運命を変えてみようとしているのか。予知夢の中では、お母さんの姿はなかったので、何でこの場に立っているのかは分からない。  予定では、このまま車道でゴミのように死ぬはずだった。民衆が騒ぎ立てるだけで、救急車が来るのが遅くなったからだ。その結果、ボクは――に最後の言葉すら残せず死んだ。  しかし、お母さんが来たのなら。最後の言葉を交わすだけの時間は取れるかもしれない。 「救急車はもう呼んだ。警察もすぐ来ると思う。とにかく気を強く持って! まだ死んじゃダメ!」  まだ、死ねない。死にたくない。  命の灯火が消えるのは確実。しかし、もう少しだけ待ってくれ。  遠くから、けたたましくサイレンを鳴らして救急車が走って来るのが分かる。  お母さんの迅速な行動の御影で、然るべき処置を行えば、僅かな時間は延命が出来る状態だ。想定よりは悪くない。  そして更に。この場に、もう一人現れる予定はなかった人物がボクの前に姿を見せた。 「ひじりんっ!」  親友だ。お母さんの電話で、彼女もこの現場に駆け付けたのだろう。  イレギュラーに次ぐイレギュラー。だが、悪い事は何もない。むしろ、良い方向へと動いている。  この状況。上手く利用すれば、警察の事情聴取に――を巻き込まず、タイムロスなく救急車で病院へ行く事も可能だ。 「手紙、は?」  まず確認しないといけないのは、彼女が手紙を読んだどうかである。  明日になったら読め。律儀な彼女なら、目が覚めた瞬間に……。 「……全部読んだよ。朝一番、起きた瞬間に」  ほら、この通りだ。  昨日、親友に宛てた手紙には、ボクが大凡何時頃に轢かれるかと、そもそも何で轢かれなければいけないのかを書いてある。  もっと正確に言うと、彼女への手紙には、――を殺害すると言う悍ましい計画が長々と書いてある。更には実行犯及び首謀者だと思われる男の子の名前と、庇わなければ確実に――が死ぬとも書いた。  親友が手紙を読んでいるなら、説明の手間が省ける。 「警察に説明を。手紙とレコーダーをゲホッガハッ!? な、何とか、上手く使って……!」  ボクは端的に、彼女にやって欲しい事を告げた。  途中咳き込んで血を吐いてしまい、中途半端な言語化になってしまったが、構わず口を開く。 「お願いっ。貴方しか……!」  滴る血が舌を染め、鉄を直接噛み砕いたかのような味がする。気分は最悪だ。 「……事情聴取に、私が答えれば良いんだね? 確かに、あの手紙には状況証拠が沢山書いてある。ボイスレコーダーも、証拠としては有用だ。だから使って欲しいって事か」  だが、彼女はとても利口な娘である。断片的な言葉であっても、ボクであれば真意を察せる人だ。  どうして手紙を使用するのか。その意図まで察してくれた。彼女も彼女で、ボクになるべく話させないようにしているらしい。 「あり、がっ……」 「口を開いたら、もっと苦しくなるでしょ。無理はダメ」  サイレンが近い。救急車と、警察車両はもうすぐそこだろう。  親友もそれを理解したのか、一度ボクの隣にしゃがみ込んで、奇跡的に無事だった右手を優しく包んだ。 「……言いたい事は、数えられないぐらいあるよ。ひじりんに聞きたい事だって、まだまだ沢山ある。けど、色んな意味で時間はなさそうだし。だから、これだけ言わせて」  彼女は、これで今生の別れになるかもしれないと思ったらしい。  涙を浮かべながら。しかし、微笑みながら。ボクの手を少し強く握った。 「いっぱい、ありがとう。もしも次があったら、とても嬉しいかな」  それだけ言い残すと、親友は立ち上がった。  ボクの霞んだ視界でも、救急隊員が走って来るのが見える。警察の人も、辺りに事情聴取を開始していた。  次いで視界に入ったのは、救急隊員だと思われる人たちである。  あれよあれよという間にボクはストレッチャーに乗せられると、ガラガラと救急車まで運ばれた。  救急車には、お母さんと――が同乗している。――の方は心ここにあらずと言った様子だが、お母さんが無理に引っ張って来たのだろうか。  救急隊員がボクの容態を見て、明らかに顔を曇らせた。相当に重傷なのだろう。 「ご家族の方ですか?」 「ええ。私はこの娘の母、この子は……血は繋がってませんが、この娘にとって大切な家族のような存在です」 「分かりました。本来ならご家族以外乗せないのですが、そこまで仰るなら目を瞑りましょう」 「ありがとうございます。あの、娘が助かる見込みはありますか? 「正直に申しますと、かなり厳しい状態です。このまま総合病院の方へ直行し、然るべき処置を取らせて頂きますが……」 「最悪を覚悟して欲しい。そう言いたいのですね」 「……はい」  分かっていた事だ。死ぬとハッキリ知っているボクは、救急隊員の言葉を聞いても何も焦りは感じない。  むしろ、予定では救急車にすら乗れなかったのだから、ちょっと嬉しい気持ちまである。 「我々も全力を尽くします。どうかお母さんたちも、お気持ちを強く持っていてください」  延命は気持ち勝負になるだろう。未だに放心している――が我に返り、ボクと話せるようになるまでは、死ねない。  装着された酸素マスクや点滴の御影で、事故当初よりも気持ち的には楽だ。だが、そう長続きはしないだろう。早く行動を起こさなければ、無駄に長く苦しんだだけになる。  せめて。この生き長らえた命を、もっと意味のある物に。  唯一無事な右手を無理やり動かし、ボクは未だに俯いている――の膝元へ移動させる。  本来の目的とは異なり、途中で力が完全に抜けてしまったので、中途半端な所で手が落ちてストレッチャーを叩いてしまい、――の膝の上に置く事は叶わなかったが。ボクがまだ生きている事をアピールするには、十分な効果を発揮した。  死んだような目付きだった――だったが、ほんの僅かだけ生気が戻ったように感じる。かなり視界がボヤけているので、ハッキリとは分からないが。  そんな中でも、しっかりとボクの手を握ってくれる辺り、本当に優しい人だ。 「聖……?」  何か喋らなくては。呼吸をするだけで酷く胸元は痛むし、今にも意識は途切れてしまいそうなのだが、それでも何かを。何かを口にして、――に少しでも言葉を遺したい。 「てがみ、――のらんどせるにっ」 「え、ランドセル? 中にか?」  そう言いながら――は、ランドセルの中身を確認して。そして、驚愕の表情を浮かべた。 「いつの間に……」  時間がないと思っているのか、――は手紙を物凄い勢いで読んでいく。  見る見る間に、――の顔には鬼が宿った。 「こいつらが、聖を……!」  いや違う。結果的にそいつらに殺される事になったけど、最初からボクを殺そうとはしていない。  本来死ぬはずだったのは貴方だ。その運命をボクが、無理やり変えただけである。  だが、ああもう。状況を全て説明するには、とても時間が足りないな。  この事件の真相は、親友に説明してもらわないとだ。  本当にごめん。こんな時まで、更に面倒事を増やしてしまって。そう心の中で謝る。  次いで言葉にしたのは、切なる願望だ。 「い、きて」 「っ、聖。君も、君も生きるんだ! もう少しで、もう少しで病院だから!」  テレビの報道でたまに見る、搬送中に死亡と言う奴になるだろう。ほんの少し口を開いただけで、急速に死の匂いが濃くなる感じがあった。  言葉を口にできるのは、もう数回程度が限度だろうな。  限られた回数の中で。ボクは、何を――に直接伝えたいかを、必死になって考える。  考えて。考えて。ただひたすら、考え抜いて。まずボクは、こう告げた。 「ごめん、ね――。やくそく……」  約束を破って、ごめんなさい。  貴方との約束だけは、絶対に守りたかった。何が何でも、守りたかった。  貴方とこれから先も一緒に生きて。一緒に年を取って。結婚して。子供も産んで。そして死にたかったのだ。  しかし、現実はこれだ。ボクが、その未来を自ら捨てた。 「何で謝るんだよ。むしろ謝るのはこっちの方だ。約束破ったのだって、俺の方だ! 君を守って見せると約束したのにっ!」  返ってきたのは、――の悲痛な叫びだった。  こんな所まで似なくても、良かったのになぁ。お互いに凄く苦しいだけじゃないか。  まあ、2人して約束を守る事をひたすらに、もう病的と言っても良いぐらいに守ろうとする性格してたから。この関係は長続きしたんだろうけど。  お互いがお互いを思いやる。実に素敵な関係じゃないか。  複雑な心境の反面、嬉しいとも感じる。  難儀な物だ。ボクの心は。 「守るって、あれだけ約束したのに。あんなに言ったのに。俺は君を守れなかった……」  肩を落としているのだろう。もう、視界がほぼゼロで正確には分からないが、そんな気がする。  声は、もう1回出せたら良い方だ。腕の力もほぼ入らない。指先から冷えていて、ボク自身は全く――の手を握れていない。  それでもほんの一瞬。一瞬だけ、ボクは指先に力を籠めた。  思ってたよりも僅かにしか力は入らなかったが、手を握っていた――には何とか変化が伝わったらしい。  後悔や懺悔の言葉が、少しの間止まった。  今度は首元に力を入れる。  左右に数回。何とか動かす事が出来た。無抵抗で流れる涙が頬に落ちるが、気にせず振る。  これだけで凄まじい疲労感が全身を包んだが、どうにか意思表示はできただろう。 「ひじ、り……」  ボクは、何も気にしてない。守られなかっただなんて、全く思っていない。  無理な話だとは思う。だが、そんなに気負わないで欲しかった。 「君は、本当に優しいな」  優しいだなんて。貴方こそ、誰よりも優しい人間だ。その優しさで、自分自身を殺してしまうぐらいに。  勝手に頬が緩んだ。口角は上がり、瞼からは涙が零れ落ちる。  涙は止まらないだろう。息の根が止まる、その瞬間まで。  無理に身体を動かしたので、命が急速に縮まる感覚がボクを襲う。もう、間もなく死ぬ。  分かる感触は、どうしようもなく温かい、――の手に触れている指先だけ。  ぐにゃりと曲がる景色。視覚も限界だと悟った。  最後の。最後の言葉を、貴方に。 「――。あ、いし……て……」  ああ。全部は、言えなかったか。  もう一歩の所で、舌が完全に回らなくなってしまった。  まあ、大体は言えたか。――にしっかり伝わったかどうかを知る術は、ボクにはもうないけど。  触覚も消えて、涙が流れているのかも分からなくなった。  確かに死んで行ってるなと分かる。徐々に、しかし確実に。  唯一残っていた聴覚も、少しずつノイズ混じりにしか音を拾えなくなっている。もう少ししたら、ボクの身体の全ての機能が停止するだろう。  死ぬ直前だと言うのに、随分とボクの心は落ち着いている。怖くもあるが、それ以上に――を守れた事に満足しているからだろうか。  思考能力も、かなり弱くなってきた。終わりだ。もう。  整合性のない会話を脳内で繰り返しては、また消えていく。 「親友に直接謝れたら良かったけど、もう仕方のない事か」 「〇〇ちゃんはボクが死んで悲しむだろうな。普段はツンツンしてるけど、根は凄く優しいから」 「――ちゃんは、つい先日話した相手がこんなアッサリ死んだと知ったら絶対に驚くだろう。直接謝れたら良かったのに」 「彼女、新しく会話を交わせる人が増えたら良いのだけど」 「お母さんごめんね。何度でも言う。親不孝者で、ごめんなさい」 「貴方と、もっと一緒に。願わくば、永遠を生きたかった」  意識が落ちる直前。確かに聞こえた音が、ボクの胸をじんわりと愛情で満たしていく。 「俺も、“僕”も愛してる。聖……」  嗚呼。来世で、貴方と結ばれたら良いな。
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