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奇跡の命
それは数ヶ月前の冬のこと。桶狭間の戦いで駿河の盟主今川義元を破って全国的に名を広めた織田信長は、現在尾張と美濃の領主として破竹の勢いを続けていたが、最近はうちうちにではあるが家臣が何を聞いてもうわの空であることが多く側仕えの者たちは気を揉んでいた。確かに信長は少年の頃はエキセントリックな行動も多く常識ある家中からは正直疎まれることも多かったが、美濃のマムシこと斎藤道三の一人娘・帰蝶を娶ってからは大分落ち着いた。だが、今回はその帰蝶こと濃姫が体調不良で表に出て来られない状況が長く続いていた。濃姫ほど信長の気性をコントロールできるものはいなかったので、家中の皆も心配していたのである。
「それはお心懸かりなことでございましょう。濃姫様は信長様だけでなく家臣・領民の心の支えでもおわしますれば」
「まっことよセバスティアン殿。濃姫様はわしの様な身分卑き出身のものにも分け隔てなく接してくださる。家中の中にはわし身分の卑しさを嫌って冷たく接してくるお方もあるが、濃姫様が温かく接してくださるのでわしの心も癒され洗われるのじゃ。お館様の妹御のお市の方様は、たしかに天下第一番の生まれつきと言われるだけはあるお美しい方だが、やはりわしの身分の卑しさがお嫌いのようで濃姫様ほど女子として出来てはおらぬ」
「それはまたたいそうな入れ込みようですな(笑)。おね様は嫉妬なさりませんか?藤吉郎殿」
「またまたセバスティアン殿、わしがお館様の正室に横恋慕したってどうにもなるまい(笑)。まぁ残念ながら濃姫様にお子はいらっしゃらないがもしお子がいらっしゃるならその中のお一人でも我が養子に迎えたいものじゃがの」
岐阜城の本丸廊下でそんなたわいもない雑談をしながら、遠き異国イスパニア(スペイン)からやって来た、信長の国際外交顧問でもある宣教師セバスティアン・ガウディは信長の家臣木下藤吉郎に案内され信長の待つ居間へ向かった。イスパニアから来た宣教師とは言えセバスティアンは布教よりも大航海時代の昨今における国際情勢に関心が深かったため、信長からは「異国から来た友人」として厚遇されていた。
「お館様、セバスティアン殿でございまする」
「おうよう来た。ここへ参れ」
信長は信長で最近よく眠れないのか顔色が優れない。
「……セバスティアン殿、みっともないがこの有り様での。お濃の病はなんなのじゃ?ここ三月ほど食事も喉を通らず床に臥してばかりなのじゃ」
「……奥方様は元来体のお弱いお方ですか?」
「いや、そんなことはない。だから余計に心配なのじゃ。好物も喉を通らなくてのう」
セバスティアン殿はしばらく考え込んで、急に明るくにこやかな表情になり信長や藤吉郎はいよいよ驚いた。
「ご心配には及ばぬものですよ、信長様。奥方様はお子を身籠もっておられるだけかと存じ上げまする」
「……お濃は三十四になるこの年までに子ができたことはないぞ。出鱈目を言われては困るぞセバスティアン殿」
「そうは申されましてもお子は天からの恵みゆえ、多い少ないはともかく結婚なされている以上絶対にないとは申せませぬ。まさか形だけの夫婦ということでもありますまい(笑)」
「……お濃に子か。それはまことにめでたく嬉しいことじゃ!でもなんでわしにお濃は申さぬのじゃ」
「安定期に入るまでは殿にいい加減なことは言えないと慮ってらっしゃるのでは?それに濃姫様がお子を産んだら今までの信長様のお子たちの順序が狂うてしまうことをお憂いなのかもしれませぬなぁ。お方様はそういうお方でしょう?」
「うぅ水くさい。お濃の子はわしの子でわしが最も待望していたものの一つじゃというに!」
そして1568年4月19日(永禄11年。日付は新暦)現在。
「殿…そのようにバタバタと歩き回るのはおやめなさいませ。奥方様も気が気ではなくなりますゆえ……」
「各務野!そのような呑気なことをよく言え多ものだな。お濃は初産で決して若くはないのだぞ!もしもの事があったらどうすれば良いのじゃ!」
「あらまぁ殿…わらわはそんなに年寄りで頼りのうございますか?この子は大きくて殿によく似た元気な子でございますわ。きっと男の子ですよ」
産褥の濃姫が夫を説き聞かせるようにゆったりと微笑んだ。
「お濃!喋るでない、陣痛は大丈夫なのか?」
信長は濃姫の枕元に座ってその手を握る。
普通、お産は夫が妻の体を支えてやり座産するのがこの国のスタイルだが、例によって友人のセバスティアン殿は「それはかえって妊婦の体には負担がかかります。信長様はご心配でしょうが濃姫様は寝かせて手を握っておやりなされ」と助言したものである。
「うっ……ああ元気だこと。殿名前はなんとしましょうか?」
「そっそうだのう…松千代はどうじゃ?」
「……立派なお名前ですねぇ。でもこの子だけ立派な名付けではエコ贔屓が過ぎませんこと。他のお子達のように普通に名付けなさいませ……」
「一晩寝ずに考えたがのう」
「……殿、わらわはこの子はとても大きな運命を背負った子、この日の本の歴史を大きく変える子になるような気がします。天下よりももっともっと大きなものを」
「うーん、そうだのう…わしとお濃の子だからの…じゃあ於次はどうじゃ?わしの次の天下人という意味じゃ」
「フフフフフ……ようございますねぇ。でもわらわが今言ったことは他言なさいませんことよ。それこそ世の大うつけ夫婦と笑いものになりますゆえ」
それから幾時間だったろうか濃姫は長い陣痛の末に大きな男の子を出産した。その間信長はずっと濃姫の手を握っていた。
「殿、奥方様、それは元気の良い玉のような男の子でございますよ!」
「お濃、良くやったの。大義であったぞ」
濃姫は長い出産で少しやつれてはいたがそれよりも自分が産み落とした命に神妙な顔をしていた。各務野が抱いてきた赤ん坊を抱き取ると一筋の涙が彼女の頬を伝った。
「於次、よく母の元に生まれてきてくれましたね。誰よりも長い人生を幸せに生きるのですよ……父上、帰蝶は斎藤の血を残しましたよ」
「ほうこれは健康そうな男前じゃの。目元とくせっ毛はお濃に似ておるが、釣り上げた眉と鼻筋はわしにそっくりじゃ」
「殿も於次を抱いてやってくださいませ」
「おう、これは重い……立派な男の子じゃ。奇妙や茶筅、三七の時よりもそちは大きいの。そなたはどんな武人になるのであろうな。わしには想像もつかぬがそなたが特別な星の下に生まれたことは確かじゃ」
それは日本の歴史を大きく変えていく大きな一コマの最初のフレームであった。
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