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「でも全然会わなかったね、今まで」
「君はいつも平日の昼間だろ? 俺は土日か、夜しか来られないから」
「ってことは、今日はここで会ったのはすごい確率?」
「驚いた」
一口含むと、炭酸が舌に痛く、酸っぱさに顎が痛くなった。
実のところ、昔のこれはもっと甘さがあった気がしている。酸っぱい中にもほんのりと甘かったはずだ。
いつだったか、マスターにそう伝えたら、気のせいだと言われた。甘いと思うのも苦いと感じるのも、その時、その人の心身状態ひとつで、味覚は左右されるのだそうだ。つまり、今の私には『スイート』が足りないのだと。
グラスの中でストローを一回転させると、炭酸がさらに弾けて細かな音を立てた。
目に染みる。
「あ、そういえばさ、アイツら結婚したんだよ」
「えつ、絶対に別れると思ってたのに、意外」
「だよなぁ、まったく」
「あ、火災報知器、もう鳴らなくなった。全戸、新しく取り換えますって連絡来て。ってもうそれも二年前の話だけど」
「あの頃、一週間に一回は誤作動してたよね。ほんと迷惑だったよねー。日曜の朝とか非常ベル鳴るの」
それからしばらくの間、私たちは別れたときにぷつんと切れたままになっていたことの報告をしあった。
会社のお局の不倫がどうなったかとか、二人でよく行った中華料理屋が潰れたとか、アパートで餌付けしていた野良ネコの飼い主がやっと見つかったうしていると、二年間のブランクは感じられなかった。
あの頃のように、仲良かったあの頃のように、変わらかで会話は弾む。
と、話が急に途切れたので、私は彼を見た。
カウンターに両肘をついて、口許を両手で隠している。その下で笑みを堪えているように見えたので、どうしたのと尋ねると、何でもない、と彼は答えを曖昧にした。
「なに? 気になるじゃん」
そう言って私は、つい癖で彼の腕に触れた。
服の下にあった彼の腕の感触に、胸が痛くなるほどの懐かしさを覚えた。硬さ、厚み、熱さ。
と同時に、今それがとても遠いものであることも実感する。
「気になるよ。気になる。教えてよ、けち」
掌に残る筋肉の厚みに、いてもたってもいられなくなって、惰性とごまかしでしつこく続きを促していると、諦めたように彼がぽつりと呟いた。
「いや、笑ってるから、君が」
「⋯⋯え?」
「嬉しいなって」
「う、嬉しいとか、なにそれ。意味わかんないし⋯⋯」
予想外の答えに、どぎまぎしていると、
「だって、最後の方は、怒ってるか泣いてるかで、君を思い出すときそればっかで、それが悲しかったんだよね」
ごめん、と彼が心底申し訳なさそうに言うので、私は涙があふれそうになって、ううん、と慌てて首を振る。
「⋯⋯.私こそ、ごめんなさい。あの頃は子供で、わがままばかりで、今考えると恥ずかしくて情けない」
視線を上げられずにそう言うと、彼も同じように首を振ったのがわかる。
「最近、どう?」
「どうって、何が?」
思わず問い返す。彼は、仕事とか、と言った。
「ああ、うん、相変わらず忙しい。あなたは学校どう? 女子にキャーキャー騒がれて、よりどりみどり?」
「ないよ。第一、俺は生徒になんか興味はないって。君こそどうなんだよ。あの上司とはどうなった?」
「どうなったもなにも始まってもいないってば。ただ、あの頃は指導係だったから二人でいることが多かっただけで、今は挨拶する程度。あの時も違うって何度も言ったよ」
社会人になりたての日々は、急激な全ての変化にお互いを思いやることができなくなっていた。あの頃が蘇る。
彼もそうなのか、手元のカップをじっと見ている。私はそれを横目で眺めていた。
その握る手に力が入ったな、と思ったとき、彼は言った。
「今は? 一人?」
顔を上げて彼を見ると、彼も私を見ていた。
私は何も言えずに、ただひとつ頷くだけだった。
そういえば、もっと素敵な彼氏を見つけて見返してやるとか会ったら嘘でもいいからかっこいい彼氏ができたと見栄を張ろうなどとを思っていたことを、馬鹿馬鹿しく思い出していた。
「俺もいない」
あれからずっと一人だった、と彼は言った。
「わ⋯⋯」
わたしも、と言いかけて、しかしその後が続かなくなった。
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