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こんなふう穏やかで、幸せだと思える時間は、別れているからこそなのかもしれない。だから笑って話すことができる。昔話だから。今は他人だから。
ここで仮に復縁し、また付き合ったとしても、結局、私たちは同じことを繰り返すだけなのではないか。
懐かしさを、恋だと履き違えているだけなのではないか。
あの時のように彼を傷つけるのは嫌だ。同時に、私もあんな悲しい思いはしたくない。
ほとんど無意識だった。何かにかき立てられるように、理性が衝動にそう言わせているのを、頭の隅で冷静に感じていた。
「頑張っていい人見つけようね、お互い」
笑ってそう言ったが、彼の顔は見られなかった。
「⋯⋯そうだな。君も、頑張れ」
レモンソーダの中の氷がずいぶん解けている。きっと、気の抜けた酸っぱくて苦いだけの炭酸水になっている。
炭酸はもう弾けてないのに、目に染みる。フレッシュなレモンが目に痛い。
「⋯⋯じゃあ、俺、先に行くかな」
後ろ手にポケットから財布を出して、彼が立ち上がる。
「あ、いいよ。私、自分で払う」
慌てて制すると、最後くらい、と彼は言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ごちそうさまです」
小さく頭を下げる。
「この店でさ、レモンシロップの量が減っているのを確認しては、もしかして君が飲んだ分じゃないかって思ってた。まだここに来てるんじゃないかって、どこかで期待してたよ。だから、今日会えて⋯⋯嬉しかった」
私は何も言えないまま、カランカランと鳴ってドアが開いて閉まるのを聞いていた。
「五六杯」
呆然としている私に、突然にマスターが言う。
その手元にはどこから出したか、事務的なノートを広げている。
訳がわからず、説明を求めるように、眉をひそめた。
「君が一人で来るようになってから飲んだレモンソーダの消費数だ。レモン56個分だ。かなり美容に貢献してやっているな」
「は? そんなのいちいち数えてるの? いくら暇だからって」
「営業記録と呼べ。君たちクソガキの恋愛ごっこに、うちの店はていよく利用されている」
「客のプライベートに興味ないんじゃなかったの?」
「興味はないが、じじいになると『余計な世話』もやぶさかではない」
「なにそれ」
「君のつまらんリスクヘッジよりも、十分に信用に足る数字だと思うが」
言わんとするところに心当たりがあって、私はばつの悪い思いでうつむいた。
「こんな酸っぱ苦いモンのためだけに、わざわざウチまで来てるんならそれはご苦労なことだ」
「人気のないメニューですがご愛飲ありがとうございます、の間違いでしょ」
「ちなみに、あいつのブレンドは、今百四十八杯目だ。君の三倍か」
あいつも相当な馬鹿だな、と煙草に火をつけた。
この店禁煙でしょ、と思ったが言わずに、私は静かに目を閉じる。
結局のところ、私は、確かに、この酸っぱ苦いだけのフレッシュレモンソーダを飲むためにここに通っていたわけではなかった。
いつもドアを開けるたびに何かを期待していたし、マスターの一言一句に何かを見出そうとしていた。この店内に、この空間に、この時間に、私は唯一の望みをかけていた。
どうしてももう一度、彼に会いたかった。
私は、ズッと音を立てて、残っていたソーダを一気に飲み干した。まだちゃんとソーダだ。
「この際言わせてもらうと、これさあ、ほんとに酸っぱくて苦いだけで、正直、美味しくないとは私も常々思ってて。昔は甘酸っぱくて好きだったのに」
「まあ、そう言うな。次からはちゃんと作ってやるから。シロップを三杯入れるのが本来のレシピなんだな」
そう言って、ニヤリと笑う。
作るのは何度も見ている。いつもマスターはレードル一杯分しか、シロップを入れていない。
「な⋯⋯! やっぱりレシピ、間違ってたんじゃん!」
次に飲むときには、シロップなどいらないくらいに私の中の甘さが足りていることを願って。
私は彼を追いかけるべく走り出した。
終
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