レモンソーダ、フレッシュすぎて目に染みる

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 恋人と別れると、もらったプレゼントや思い出の品を全て捨てる人がいる。  けれど、モノに罪はないし、例えばそれを気に入っていたりすると、それまでも恋人と一緒に切り捨ててしまうのがもったいないときもある。 『だってモノに罪はないし』  こういう考え方は女性の方が得意かもしれない。  私の場合、二人の行きつけだったカフェがそれで、別れてからもなんだかんだ顔を出している。  理由はいたって単純。  この店の『フレッシュレモンソーダ』が好きだから。それだけだけど、されどそれだけ。  それは、とにかく酸っぱくて、さらには苦いのだけれど、定期的に飲みたくなるし、この先も飲まずにはいられないと思う。 *  店のドアを開けた瞬間、私はその場で動けなくなった。  カウンターに座っていた彼も、ドアベルの音に導かれた視線の先に私の姿を認めて、同じく固まっているようだ。 「ありゃ、こりゃまたきまずいのが揃ったな」  おおげさに肩をすくめたのは、カウンターの隅で新聞を読んでいたマスターだ。  ふがいなくもまだその場で動けずいた私に、彼はためらいがちに口を開いた。 「⋯⋯ひさしぶり」  声も姿も変わらない。  懐かしくて、甘くて、しかし感傷に浸っている場合ではない。  我にかえった私は、努めて確かな足取りを気取る。動揺を悟られないようにしたい。  そして、一瞬考えてから、彼の隣をひとつ空けてハイチェアに腰かけた。  隣だと近すぎる気がし、かといって、例えば端と端にならなければならないほどよそよそしくするものおかしいと考えた。 「フレッシュレモンソーダ」  マスターに注文をすると、隣の彼が笑顔になった。 「やっぱり今もそれなんだ。あのすっぱ苦いやつ。君以外にここであれを飲んでる人を見たことない」 「まあ、正直なところ、これをオーダーする客は他にはいない」 「えっ、そうなの!? ……だって、なんか好きなんだもん」  カウンターの奥にある大きなガラスジャーには、半分にカットされたレモンがごろごろとやや鈍い色になって漬かっている。『大好き』の素である自家製レモンシロップだ。  マスターの家の庭の大きな木にはレモンが鈴なりになるらしく、収穫だけでも大変らしい。なので、スライス状ではなく真っ二つに切って処理するだけで精いっぱいだとか。  レモンソーダはそこにさらにフレッシュなレモンが絞られる。  レモンを、それもまた真っ二つに切って、絞って、すると酸っぱい匂いがあたりにはじける。  次に絞った皮とアイススコップで乱暴にすくった氷をジョッキグラスに放り込む。カフェなのに。  豪快で、居酒屋みたいなレモンソーダ。ささった赤いストローが私的には結構ツボだ。  愛想のないマスターのせいか、店はたいがい閑古鳥が鳴いていた。今も客は、私と彼の二人だけで、流れるBGM以外に音はない。とても静かだ。 「それにしても、ほんとに久しぶり」  彼が落ち着いた口調で、視線を目の前のコーヒカップに落として言った。彼の中身も、昔と変わらないオリジナルブレンドなのだろうか。  最初の動揺はすでになりを潜め、私も久しぶりの感慨に少しだけ耽りながら、うん、と簡単に返事をした。  彼と別れてもうすぐ二年になる。  最後は疑心暗鬼のかたまりの、お世辞にも円満とは言えない別れ方だったので、今こうして穏やかに二人で並んでいることは不思議なくらいだった。  ふと気づいて、私は顔を上げた。 「でもどうしたの、こんな時間に」  平日の昼間に自由な時間などないはずだった。彼は高校で教師をしている。 「もしかしてジョシコーセーと問題起こしてクビになったとか?」  冗談にしては際どい質問だったかなと、瞬時に発言を後悔した。  最後の喧嘩は、彼が女子生徒から言い寄られていたことだった。それは忘れもしない。  けれど今思えば大したことではない。誤解だと説明されたし、実際事実ではなかったのだろうし、そもそも彼はそういう恋愛に走るタイプではない。信じることができなかった原因は私の痛々しい若さだ。  気まずさをどう誤魔化そうか考えていると、 「期待に沿えず申し訳ないけど、まだ無事に先生やってるよ。まあ最近は、そういうことはバレないように、細心の注意を払ってるから」  彼がおどけたように言ったが、冗談なのか本気なのか、今の私にはわかりかねた。  私たちの中の時間が経ちすぎているせいで、彼が今、どんな冗談をどんなふうに言うのか、もちろん私が知ることはない。    返事に困っていると、彼が、今日は創立記念日で休み、と付け足した。 「君こそ仕事は?」 「外回りで近くまで来たから寄ったの」 「こんなどころまで営業? 大変だな」  確かにここから会社は遠い。電車で一時間程かかる。けれど、営業先が近いのも本当だ。と言っても、三つも向こうの駅だけれど。 「それにしても、君もまだここに通ってるとは思わなかった」 「ずっと来てたよ。家が遠くなったから回数は減ったけど。あなたも来てたんだね。知らなかった。マスター、何も言わないし」 「客のプライベートには立ち入る趣味もなければ、興味もない」  マスターは吐き捨てるように言いながら、どん、と私の前にレモンソーダを差し出した。  透明のはじける炭酸中の奥底で、シロップがゆらゆら溶け出して透明と透明のマーブリング模様を作っている。  大胆な大きさのレモンがごろごろと氷の間を邪魔していて、私は見た目にもこれが大好きだった。
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