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そして、そんなアムンゼンの姿を、考えると、私は、悩んだ…
実に、悩んだのだ…
違い過ぎる…
違い過ぎるのだ…
今、目の前の葉問が、言った、アムンゼンの姿と、私の知っているアムンゼンの姿が、違い過ぎるのだ…
私が、知る、アムンゼンの姿は、3歳のガキ…
大人びた、口を利く、生意気なガキでしか、なかった…
なかったのだ…
それが、そんな…
この目の前の葉問の言葉を疑うわけでは、決してないが、誰が、どう考えても、そんな偉大な人物には、見えんかったのだ…
すると、葉問が、
「…お姉さん…なにを、悩んでいるんですか?…」
と、聞いてきた…
私は、
「…オマエの言うことは、わかるさ…でもな、オマエが言う、アムンゼンの姿と、私が、知っているアムンゼンの姿が、どうしても、一致しなくてな…」
「…それは、当たり前です…」
「…どうして、当たり前なんだ?…」
「…日本人は、偉人を美化し過ぎなんです…」
「…美化し過ぎだと?…」
「…そうです…政治でも、科学でも、なんでも、偉大な実績を残した人物が、私生活では、偉人でもなんでもありません…ただ、偉大な実績を残したに過ぎません…そこに偉大な人間性も、高潔な人格も、必要ありません…あるのは、偉大な実績だけです…」
「…オマエの言うことは、わかるが…」
「…身近な例で言えば、ノーベル賞です…」
「…ノーベル賞?…」
「…そうです…ノーベル賞は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルが、作った賞ですが、なぜか、数学賞がありません…なぜだか、わかりますか?…」
「…わからんさ…」
「…数学賞を作れば、間違いなく、当時遠からず、数学賞を受賞するであろう、優勝な数学者がいて、その人物と、アルフレッド・ノーベルが、ある女性を巡って、恋敵だったと、言われています…だから、その人物に賞を与えないために、数学賞を作らなかった…それが、現在の定説です…」
「…なんだと? …定説だと?…」
「…ノーベル賞を作った人物でも、そんなところです…誰にも、光と影がある…そういうものです…」
葉問が、したり顔で、説明する…
私は、葉問が、言いたいことは、よくわかったが、それにしても、葉問は、どこから、そんな知識を得たのか?
それが、謎だった…
なぜなら、ホンモノの葉問は、子供のときに死んでいる…
今、目の前にいる葉問は、双子の兄の葉尊のもう一つの人格に過ぎないからだ…
だから、なぜ、知っているのか?
悩んだ…
そして、考えた末にたどり着いた結論は、おそらく、これは、葉尊の知識に違いないと、結論づけた…
そうでなければ、幼い時に死んだ、葉問にこれほどの知識があるわけがないからだ…
だから、
「…葉問…オマエは、葉尊と、知識を共有しているな…」
と、言った…
すると、どうだ?
「…エッ?…」
と、葉問が、驚いた…
驚いたのだ…
私の質問が、想定外だったのだろう…
呆気に取られた表情に、なった…
「…なんですか? …お姉さん…いきなり…」
「…考えたのさ…」
「…なにを考えたんですか?…」
「…オマエの知識の源さ…」
「…」
「…オマエは、物知りだ…いろんなことを、知っている…だが、その知識は、どこから、得たのか? 考えたのさ…」
「…」
「…オマエは、葉尊と、同じカラダを共有している…だから、いわば、情報源も同じ…オマエが、知っていることは、葉尊も、知っている…違うか?…」
私が、言うと、葉問の表情が、凍てついた…
明らかに、凍てついた表情になった…
「…これは、たしか、以前も言ったことが、あるな…」
私は、指摘した…
「…オマエと葉尊は、同一人物…つまり、葉尊が、知るところは、葉問も、また知る…
なぜなら、オマエたちは、コインの裏と表…ジキルとハイドではないが、同一人物だからだ…」
「…それが、どうかしましたか? お姉さん…」
「…別に、たいしたことじゃないさ…驚くことじゃ、ないさ…ただ…」
「…ただ、なんですか?…」
「…ただ、オマエが、知っていることは、葉尊も知っている…真逆に、葉尊が、知っていることは、オマエも、知っている…二人の間に、隠し事は、なにもないということさ…」
「…」
「…つまりは、オマエたち、二人とも、もしかしたら、あのアムンゼンを利用しようと思っているのかも、しれんと、思ってな…」
「…」
「…でも、それは、許さんさ…」
「…許さない?…」
「…そうさ…アムンゼンは、私の大切な友人さ…そんな友人を利用することは、許さんさ…」
「…」
「…大切な友人は、利用しちゃ、ダメさ…損得で、利用しちゃ、ダメさ…大切な友人に、利害関係を求めちゃ、ダメさ…」
私が、力説すると、最初は、葉問は、呆気に取られた顔をしていたが、すぐに、ニヤリと、笑った…
「…なにが、おかしい? 葉問…」
「…お姉さんは、つくづく善人ですね…」
「…なんだと?…」
「…お姉さんは、一見、ずるがしこい部分も、あるけれど、本質は、善人…まぎれもなく、善人です…」
「…」
「…だから、愛される…誰からも、愛される…そして、信頼される…」
「…」
「…あのリンダも、バニラも、アムンゼン殿下も、そんなお姉さんを慕い、お姉さんの元に、集まって来る…本当に、お姉さんは、稀有な人間です…つくづく、羨ましい…」
「…羨ましい?…」
「…嫌われる人間は、誰からも、嫌われます…どこに行っても、誰からも、嫌われます…でも、お姉さんは、真逆です…どこに行っても、誰からも、好かれるでしょう…違いますか?…」
「…それは、私は、他人様から、嫌われた経験は、ないが…」
「…ですよね…」
「…」
「…そして、そんなお姉さんだからこそ、葉敬も、お姉さんと葉尊との結婚を認めた…いわば、出会うなり、お姉さんの人柄を認めたんです…実に、羨ましい…」
「…羨ましい?…」
「…葉敬に限らず、リンダにしても、バニラにしても、アムンゼン殿下にしても、多くのひとを、見ています…」
「…ひとを、見ている?…」
「…葉敬は、六十代ですが、他の三人は、皆、若い…一番年上の殿下にしても、30歳です…リンダは、29歳…バニラに至っては、まだ23歳です…ですが、皆、その地位や職業柄、大勢の人間に会っている…普通なら、その年齢では、会えない数多くの人間と会っている…それゆえ、同世代の人間より、人間に対する洞察力が、鋭い…ありていに、言えば、すぐに、良い人と、悪いひとを、見分けることが、できる…」
「…」
「…そして、お姉さんは、そんなひとたちに、好かれている…誰よりも、愛されている…きっと、お姉さんは、これからも、どこに行っても、誰からも、愛されるでしょう…実に、稀有な人間です…」
「…」
「…そして、お姉さんは、これまでも、そして、これからも、そんな人間のために、尽力してください…」
「…尽力?…」
「…いえ、尽力せずとも、皆、お姉さんと、いっしょにいることで、力を得ることができます…お姉さんといることで、心が安らぎます…それゆえ、生きる力が出るんです…」
「…生きる力だと?…」
「…そうです…」
葉問が、真顔で、言う…
私は、それを、聞いて、リゲインを思い出した…
レッドブルを思い出した…
それでは、まるで、栄養剤…
この矢田トモコは、栄養剤みたいではないか?
そう、思った…
そう、思ったのだ…
だから、気が付くと、
「…私は、栄養剤なんかじゃ、ないさ…」
と、小さく呟いていた…
「…栄養剤?…」
葉問が、驚いた…
「…そうさ…葉問…オマエの言うことを、黙って聞いていると、まるで、私は、栄養剤さ…飲めば、元気になる栄養剤さ…リポビタンDさ…」
私が、キツメの口調で、言うと、葉問が、呆気に取られた表情に、なった…
それから、
「…栄養剤…」
と、呟いて、
「…さすがに、それは、思いつかなかった…でも、ありえる…例えとして、上手い…実に、上手い…」
と、独り言をブツブツ言った…
それから、私を見て、
「…お姉さんは、たしかに、栄養剤かも、しれない…」
と、呟いた…
そして、
「…でも、お姉さんは、誰にとっても、栄養剤になります…」
と、続けた…
「…なんだと?…」
「…殿下も、リンダも、バニラも皆、お姉さんと、いることで、安らぐ…お姉さんといっしょにいることで、元気になる…まさに、お姉さんは、みんなの栄養剤です…」
「…」
「…そして、今、おそらく、一番、精神的に、疲れているのが、殿下です…この騒動が、終わったら、殿下を癒して下さい…お姉さん…」
葉問は、言うなり、いきなり、消えた…
いきなり、葉尊と入れ替わった…
私は、呆気に取られた…
まさか、このタイミングで、葉尊に入れ替わるとは、思っても、みんかったからだ…
だから、驚いた…
同時に、葉尊に、どう対応していいか、わからんかった…
わからんかったのだ…
何度でも、繰り返すが、私は、葉尊より、葉問の方が、話しやすい…
ハッキリ言って、葉尊より、葉問といる方が、楽なのだ…
葉問と、いる方が、気疲れしないのだ…
だから、焦った…
いきなり、葉尊に戻ったから、焦った…
すると、だ…
葉尊が、私が、水割りのグラスを手に持っている姿を目にして、
「…お姉さん…ボクにも、一杯下さい…」
と、私に告げた…
私は、
「…わかったさ…」
と、言って、立ち上がって、食器棚から、グラスを持って来ようとした…
すると、
「…そのグラスで、構いません…」
と、言って、私が手にしたグラスを持って、私から、奪い取り、グイと、一口飲んだ…
私は、呆気に取られたが、考えてみれば、それは、さっきまで、この葉尊が、飲んでいたグラスだった…
だから、葉尊が、飲んで、当たり前だった…
「…うまい…」
と、一言、葉尊が、呟いた…
それから、
「…このグラスで、お姉さんも、飲んでいたから、間接キスになりますね…」
と、笑った…
「…間接キス?…」
「…そうです…」
そう言うなり、葉尊が、またグラスを口に運んだ…
そして、
「…うまい…実に、うまい…」
と、繰り返した…
私に気を使っているのは、明らかだった…
この矢田に気を使っているのは、明らかだった…
そして、私は、考えた…
この葉尊…
当たり前だが、さっきの私と葉問のやりとりを、見ていたことに、気付いた…
つまりは、葉尊の知るところは、葉問の知るところとなる…
真逆に、葉問の知るところは、葉尊の知るところとなる…
本来、同じ人物なのだから、当たり前と言えば、当たり前だった…
私は、今さらながら、それを、思い出した…
そして、私と、葉問とのやりとりを見て、この葉尊も、考えたに違いない…
思うところが、あったに違いない…
だから、いきなり、葉問から葉尊に戻った今は、私になにも、言わなかった…
さっき、危うく、バチバチの仲になりかけたことに、触れないように、した…
それに、気付いた…
だから、私も忘れることにした…
さっき、危うく、葉尊と、ぶつかりかけたことを、忘れることにした…
なかったことに、した…
その方が、私にとっても、葉尊にとっても、都合がいいからだ…
だから、忘れることにした…
そして、その夜は、葉尊と、いっしょに、飲んだ…
二人きりで、酒を飲んだ…
思えば、結婚以来、こんな夜は、初めてだった…
実に気持ちよく酒を飲んだ…
そして、酒を飲んでいると、いつのまにか、腹が減っていたことも、忘れた…
茶葉らも一時というやつだ(苦笑)…
ウィスキーの水割りで、いつのまにか、私のお腹は、いっぱいになっていた(笑)…
そして、いつしか、私は、寝込んだ…
寝込んだのだ…
そして、朝、起きると、イスラエルと、ハマスの戦闘が、始まっていることを、知った…
<続く>
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