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朝のひかりは手触りのある紗のカーテンのように、こちらへとひらひら手を伸ばしている。その中に残暑のしずくが密かに混じっているような湿度だった。こんな日に、私の人生は大きく変わるのか。何かに焦らされる気持ちを抑えるために、そっとまぶたを閉じる。
薄闇の世界にこもっていると、次第に落ち着いてきた。そうやってまた、新しく自分の中を巡る時間を迎える準備をする。
すべての準備を終えて、いざ家を出ようとした時に、背後から「鞠子」とまるっこく高い声に呼び止められる。まだ声変わりしていない少年の透明な声。
振り返ると、いつもより綺麗に結った髪が揺れて、ちいさな兄が、むすっとした顔で仁王立ちしながら、リビングのドアの前に置かれたままになっていた手荷物をゆびさしていた。背は、私の腰までの高さしかない。
「あっ、忘れてた」
慌てて駆けて戻る私に、兄の夏己は、腕を組んで仏頂面をしながらくちびるを噛んで睨んでいる。
「おいおい大丈夫かよ……。結婚式の朝だってのに新婦がこんなばたばた走ってるとか、あんのかよ」
「あ~やばいやばい。他に忘れものないかな」
「向こうのご両親にサプライズで渡すプレゼントは持ったのか?」
「持った!」
私は手にしていた淡色の紙袋を顔の横まで上げて得意げな顔をする。もう二十四歳なのに、子供みたいに。それも今だけ。兄の前だけ。
「結婚指輪は?」
「嵌めてる!」
「……俺達の家族写真は」
夏己が視線を逸らす。
私はその横顔を見つめながら、瞳を震わせて切なく笑った。視界が刹那、揺れて溶ける。
「持ってるよ。それは忘れるわけないでしょ」
「……じゃあもう忘れものねえな。行けよ。もうここには戻らねえんだからさ」
夏己の背後に、物が何もなくなった部屋が広がっていた。いつもより空気も清々しい。昨日記念にひとりで食べた、台湾マンゴーのあまく瑞々しい香りだけが、かすかに残っている。
目の前にうっすらと透明な水の膜が張るのがわかる。さらにまなじりが温かく染まってゆく。私は夏己に視線をうつした。
「お兄ちゃんさ、まだずっとこの家にいるの? あたしと英生さんの家に来ない? 一緒に暮らそうよ」
「何言ってんだお前」
あかるい私に、夏己はかくりと肩を落としてあからさまに嫌そうに、上目遣いで睨んできた。声もしんと冷えて肌に触れてきた。
「この家にずっといるんだったら、あたし週末しか来れないしさ。お兄ちゃん寂しいでしょ? あたしがいなくて」
「寂しがってんのはお前の方だろ。良い加減兄貴離れしろ!」
ひときわ強い声が響く。立っていた私の脛がふるふると震え、こめかみに緩やかにウェーブがかっていた髪のすじは、電流が走ったように痺れて、ひとすじ、髪の束がはらりと落ちて顎を撫でた。周囲の空気はしんと深く冷え、脳裏に刹那、うす紫のかすみが見えた。声が、体が動かなかったが、ようやく視界が透明に戻り、私は夏己を睨みおろした。
「な、何よ! 怒ることないじゃん。何カリカリしてんの? お兄ちゃんなんか知らないんだから! ひとりで寂しくなって、私の新しい家に現れても、無視してやるもん!」
頭に血が上り、顔が熱く火照る。
私は玄関へ走り、ぱっとドアノブを掴むと扉を開ける。外の空気は涼しく、早朝の清らかさに満ちている。
振り返る。ドアはもう閉まり、私が帰る部屋は、永遠に閉ざされた。涙がひとしずく、まだ化粧をしていない頬へ流れて消えてゆく。純白の花嫁衣装が待つ場所へ、黒いワンピースで駆けてゆく。
「……全く子供みてえだな。俺の前だけでは」
ひたりと静かにドアが閉まった部屋で、俺は鞠子の姿が消えてゆくのを見守っていた。
俺が十三歳の時に家族で交通事故に遭って、ふたつ違いの鞠子ひとりだけが助かったあの夏から、幽霊となって彼女と生活して、彼女を見守ってきた。
「俺の役目は終わった」
体がほのかに温かく包まれて、薄緑の透明なひかりが、濃さを増してゆく。
そっとまぶたを閉じる。うすれてゆく意識の中で、最後に浮かんだのは、妹のくしゃりとした笑顔だった。 (終)
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