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 一度諦めたひとだから、二度目はどうしても諦められなかった。  慎一郎さんとはじめて会ったのは、雪の夜だった。随分激しく雪が降る、珍しい夜。俺は恋人と別れ、部屋を追い出されたところだった。行く当てがなかった。電車は終電を過ぎていたし、親兄弟はいないも同然。急に頼れるような友人もいなかった。どうしていいのか分からなくて、とにかく駅前の通りまで出た。軒並み店の灯りは消えていて、短い商店街は真っ暗と言ってよかった。そんな中、穏やかなオレンジ色の光を漏れさせているのが、慎一郎さんが経営している深夜営業の喫茶店だった。財布さえ部屋に置いてきていたけれど、スーツのポケットには、珈琲代くらいの小銭は入っていた。俺は、牡丹雪で濡れた自分の身体を気にしながら、おずおずと喫茶店のドアを開けた。  「いらっしゃいませ。」  ごく小さな店だった。よく磨きこまれた焦げ茶色のカウンターの向こうに慎一郎さんが立っていて、テーブル席は三つあるだけ。俺は、カウンターの一番隅っこに座ろうとして、躊躇った。椅子を、濡らしてしまう。すると慎一郎さんが、カウンターの奥から真っ白いタオルを取りだし、俺に手渡してくれた。なにも言わず、口元には静かな笑みを浮かべて。俺はありがたくそのタオルを受け取り、身体を拭いた。自分の身体がひどく冷え切っていることに、ようやく気が付く。  「……珈琲、下さい。」  「はい。」  低くて聞き取りやすい慎一郎さんの声は、他の客がいない喫茶店に、吸い込まれるみたいに消えていった。カウンターに腰を下した俺は、じっと頭を抱えた。さっき見た、恋人の怒りに染まった顔が、頭を離れなかった。  「……お具合でも?」  頭の上から、慎一郎さんの心配そうな声が振ってきて、俺は慌てて首を横に振った。  「大丈夫です。」  「随分顔色がお悪い様なので……。」  「……ちょっと、寒かったんで。」  俺が誤魔化すみたいにそう言うと、慎一郎さんは黙ってエアコンの温度を上げてくれた。俺は、ありがとうございます、と、小さくなりながら頭を下げた。  「今日は、随分冷えますからね。」  慎一郎さんはそう言いながら、俺の目の前に白くて繊細に薄い珈琲カップを置いた。俺は、頷きながら珈琲を一口啜った。そして、驚いて慎一郎さんを見上げた。美味かったのだ。普段は缶珈琲くらいしか飲まないし、喫茶店になんてめったに入らないけれど、それでも、こんなに美味い珈琲にはそうそうありつけないと分かるくらい。
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