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一人いた先客も、俺の前に珈琲が届いた直後に店を出て行った。慎一郎さんは、カウンターの向こうで少し笑って、空いているでしょう? 夜中は。と小声で歌うように言った。
「はい。……どうして、こんな夜中に店を開けているんですか? お客さんも、少ないのに。」
俺が単純な興味から訊くと、慎一郎さんは考えるような間の後、必要だと思ったので、と、低く言った。
「必要としてくれるひとが、いると思ったんです。夜中に、ファミレスや居酒屋ではなくて、静かな喫茶店を。……亮輔さんみたいに。」
「俺?」
「違いますか? ……私も、必要としたことがあったんですけど、そのときはそんな店は見つからなくて、ただ夜道を歩いていました。」
違わない、と、俺は呟いた。確かにこの前の夜中、俺にはこの店が必要だった。行く当てがなかったというのもあるけれど、もと精神的な部分で必要としていた。慎一郎さんにも、そんな夜があったのだろうか。この、どこまでも穏やかでやさしいひとに。
なにがあったんですか、と、訊きたくて訊けなかった。鬱陶しいと思われるのが怖かったし、そこまで踏み込んでいい仲ではないのだとも分かっていた。俺と慎一郎さんは、ただの喫茶店の客と店主だ。そして、もしもここに翔真がいたら、とも思った。翔真は確実に、そういうところがまじで嫌い、と言うだろう。
手が少しだけ震えた。それを誤魔化すみたいに、珈琲を啜る。慎一郎さんの視線を手のあたりに感じて、なおさら震えが止まらなくなる。
「新しい家は、どうですか?」
なにげない様子で、慎一郎さんが話題を振ってくれた。俺は、珈琲カップをカウンターに置いて、膝の上でぎゅっと手を握った。
「なんか、慣れなくて。……職場に近いので、便利ではあるんですけど。」
「慣れない、ですか。」
「……ひとりに。……ずっと、ひとりだったようなものなんですけど、5年間、恋人と暮らしていたのが、なんかもう、習慣になってしまったみたいで。……いやですね。」
俺が俯くと、慎一郎さんの控えめな声が、静かに店内に注がれた。
「分かりますよ。ひとりに慣れたつもりなのに、誰かと暮らす温もりを知ってしまうと、弱くなってしまう感じ。……悪いことではないと思いますけど。」
俺は、弾かれたみたいに顔を上げて、慎一郎さんを見上げた。知りたいと思った。慎一郎さんに誰かと暮らす温もりを教えた相手が、どんなひとなのか。聞けば、傷つくと分かっていても。
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