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 「……奥さん、ですか?」  勇気を振り絞って尋ねた。慎一郎さんは、軽く俯くと、はい、と答えた。俺は、それ以上問いを重ねることができなかった。半分くらい残っていた珈琲を飲み干し、カウンター席から立ちあがる。  俺の感情を受け止めてもらおうなんて思わない。  心に決めていたのに、揺らぎそうな自分が怖かった。受け止めてもらえるとも、気持ちが通じるとも思わない。でも、それでも気持ちをぶちまけてしまいそうな自分が、とても怖かった。  いきなり立ちあがったからだろう、慎一郎さんは、ちょっと驚いたような目で俺を見た。俺は、慎一郎さんの目の中に俺が映っているという幸福感を感じて、そしてそう感じる自分に絶望した。  「亮輔さん?」  「帰ります。お会計、お願いします。」  「なにか、あったんですか?」  なにかは、あった。けれどそれを、慎一郎さんの前で言えるはずもない。  「私がなにか、気に障るようなことを?」  「いいえ。」  違う。全然違う。悪いのは、全部俺だ。  「でしたら、もう少しここに。なにか飲み物を出しますから。」  慎一郎さんの柔らかな声が、胸を締め付ける。このひとは、俺が不埒な欲望を持っているだなんて、わずかばかりも疑ってはいないのだ。俺がゲイだと分かっていても、なお。  「ほら、座ってください。」  慎一郎さんの大きな手が、俺の肩に一瞬触れた。俺は、その手に従った。従いたかったのだ。どうしても。  慎一郎さんは微笑んで、俺の前に大きめのマグカップに入ったホットミルクを出してくれた。  「店のメニューにはないんですけど、珈琲を飲みすぎると、眠れなくなりますしね。」  「……ありがとうございます。」  多分、このひとにとって、俺は心配な子どもなのだ。この寒い夜に、一人で放っておくには心配すぎる、幼い子。だからこうやって、無限にやさしさをくれる。もしも俺がここで、自分の欲を吐き出したとしたら、慎一郎さんは、これまで通りでいてはくれないだろう。  それから俺と慎一郎さんは、何気ない会話を交わした。俺の新しい家の間取りについてだったり、俺の職場の話だったり、俺の休日の過ごし方だったり。慎一郎さんについての話は、しなかった。彼は自分のことについて話したい素振りを見せなかったし、俺も、今日これ以上傷つく余裕は残っていなかった。  一時間くらい経って、俺が会計を済ませて帰ろうとすると、慎一郎さんは、また来てください、と言ってくれた。はっきりと、俺の目を見て。俺は、言葉がとっさに出なくて、ただ頷いた。自分でも自分のことを、まるっきり子どもみたいだと思った。
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