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翌日、目を覚ますともう昼近くだった。仕事、とぎょっとして飛び起きかけてから、今日は土曜日だと気が付く。そして、ここはどこだ、と再びぎょっとしてから、慎一郎さんの喫茶店に泊めてもらったのだと思い出す。そうすると瞬時に恋人の顔が頭を過ぎって、どうしようもなく悲しくて情けない気分にはなったけれど、極力彼のことは思い出すまいと自分に言い聞かせ、椅子の背に引っ掛けていたジャケットを取って、階下に降りた。とにかく、一度恋人の住む家に行って最低限の荷物を回収し、どこかに住むところも確保しなければならない。
階段を下り、喫茶店に続く扉を開けると、珈琲のいい香りが漂ってきた。半ばうっとりしながら中に入ると、カウンターの奥で慎一郎さんが珈琲を淹れていた。
「おはようございます。」
慎一郎さんの低い声は、よく通り、耳にはやさしかった。俺はぺこりと頭を下げて挨拶を返した。
「ありがとうございました。これから荷物取りに行って、部屋も探してきます。」
「そんなに慌てなくても。」
「え?」
「朝食を用意したのですが。」
「え?」
「どうぞ。」
にっこり微笑んだ慎一郎さんは、穏やかなのに有無を言わせない動作で、カウンターにトーストとサラダ、ベーコンエッグの皿を並べた。どれも彩りや焼き加減が完璧で、俺はその眩さに一瞬目がくらみそうになってしまった。恋人と暮らしていた間、俺たちは朝食など摂らなかったし、さらにさかのぼって親元にいた間も、目が覚めて朝食が用意されていたことなどなかった。父親は事情があって別居後離婚していたし、母親は忙しく働いていたので、寒い台所のテーブルの上に用意されたシリアルを、自分で皿に注いで食っては登校していた。
「……ありがとうございます。」
「いいえ。」
俺がカウンターに座り、珈琲を啜りだすと、慎一郎さんもカウンターから出てきて俺の隣の席に座り、自分の分の朝食を食べだした。姿勢のいいひとだ、と思った。背もたれを必要としないくらい、その背中はすっと伸びていた。
「荷物を取りに行くとおっしゃっていましたね。」
「……はい。」
「おひとりで、大丈夫ですか?」
「え?」
俺は、なにを言われているのか把握できず、ぽかんとして隣の席に座る背の高いひとの横顔を見上げた。慎一郎さんはこちらに向き直ると、私もついていきましょうか、と言った。
「昨晩聞いた話を鑑みると、おひとりで行かれるのは、随分つらそうな気がしたので。」
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