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先生と患者さんって、近い存在になっても大丈夫なんだろうか。
篠口先生は蛇口の水を止め、こちらを真っ直ぐに見て何かを考えてから言った。
「嫌……」
「え」
「じゃない」
ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべられて、なぜか胸がぎゅっと痛くなる。
なんだろう。篠口先生は、魅力的なオーラを放っているように思える。冷淡そうに見えるのに笑うと子供みたいに幼く見えるし、目から入ってくる情報と話した時の情報が違う。
僕はふふっと笑った。
「篠口先生って、怖いのか優しいのかよく分からない」
「笑ったな」
「……へ」
「初めて見た。笑ったところ」
指摘されて気付いたが、そういえば昨日から焦ったり怒ったり悲しんだりで、口角をあげることをしていなかった。
先生は嬉しそうに続ける。
「これから少しずつ、思い出せるといいな。感情や匂い、景色、味、音。今の空は暗いけど、晴れの日は明るいこととか」
窓から外を見ると、雨はもう止んでいたが、灰色の空には変わりなかった。
晴れの日にまた、ここで篠口先生と一緒に空を見上げたいな。
そう思っていた時、近くでクラクションの音が聞こえた。
路駐した黒い車の後ろに、白い軽自動車が停まっている。
靴を履いて車へ向かうと、運転席にいたおじいさんが窓から顔を出した。
「悪ぃんだけど、車どかしてもらえるか? 家に入れねぇんだわ」
口調は強いけど、顔は穏やかだったので、怖い印象は受けなかった。
白髪まじりの、60代半ばと思われるおじいさんは細い眉を上げてニコッと笑った。
「すみません、今どかします」
篠口先生が車のエンジンをかけて前に進むと、おじいさんはハンドルをきって、僕の家の向かいの家の駐車場にバックで車を停めた。切り返すこともなく、車はすんなりとそこに収まる。
篠口先生がバックで元の位置に車を戻している最中、おじいさんは先に車から降り、僕の包帯が巻かれた腕を見て目を丸くした。
「おいおい、どうしたんだよそれ、怪我したのか?」
「はい」
「ずいぶん派手にやったんだなぁ。骨折ったのか?」
「打撲です。階段から落ちちゃって」
「バッカだなぁ」
あちゃー、と頭を抱えたおじいさんに、僕は尋ねた。
「僕のことを知ってるんですか?」
「は? おいおい兄ちゃん、ボケてんのか? 俺はお前のことを常日頃から良くしてやってんじゃねぇか……ていうかお前どうしたよ、その喋り方は……」
「常日頃から?」
「忘れちまったってのかぁ? このバカタレがァ!」
べしんっ。
なぜか豪快に笑いながら頭を叩いてきた。
冗談だと思われているのだろう。
はい忘れましたとは言い難い状況のなか、車から降りてきた篠口先生が助け舟を出した。
「すみません、その子、少し頭も打ってしまって、混乱しているようなんです。失礼ですが、琴くんとはよくお話されていたのでしょうか」
記憶障害だと言えばいいのに、体裁が悪いと思ったのか、先生はおじいさんにそんなふうに言う。
おじいさんは、よく分からないながらも軽妙に頷いた。
「琴のお袋さんからよく言われてるからねぇ。琴をよろしく頼みますってな」
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