【1】コンフォート・ゾーン

10/11
前へ
/12ページ
次へ
 先生と患者さんって、近い存在になっても大丈夫なんだろうか。  篠口先生は蛇口の水を止め、こちらを真っ直ぐに見て何かを考えてから言った。 「嫌……」 「え」 「じゃない」  ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべられて、なぜか胸がぎゅっと痛くなる。  なんだろう。篠口先生は、魅力的なオーラを放っているように思える。冷淡そうに見えるのに笑うと子供みたいに幼く見えるし、目から入ってくる情報と話した時の情報が違う。  僕はふふっと笑った。 「篠口先生って、怖いのか優しいのかよく分からない」 「笑ったな」 「……へ」 「初めて見た。笑ったところ」  指摘されて気付いたが、そういえば昨日から焦ったり怒ったり悲しんだりで、口角をあげることをしていなかった。  先生は嬉しそうに続ける。 「これから少しずつ、思い出せるといいな。感情や匂い、景色、味、音。今の空は暗いけど、晴れの日は明るいこととか」  窓から外を見ると、雨はもう止んでいたが、灰色の空には変わりなかった。  晴れの日にまた、ここで篠口先生と一緒に空を見上げたいな。  そう思っていた時、近くでクラクションの音が聞こえた。  路駐した黒い車の後ろに、白い軽自動車が停まっている。  靴を履いて車へ向かうと、運転席にいたおじいさんが窓から顔を出した。 「悪ぃんだけど、車どかしてもらえるか? 家に入れねぇんだわ」  口調は強いけど、顔は穏やかだったので、怖い印象は受けなかった。  白髪まじりの、60代半ばと思われるおじいさんは細い眉を上げてニコッと笑った。 「すみません、今どかします」  篠口先生が車のエンジンをかけて前に進むと、おじいさんはハンドルをきって、僕の家の向かいの家の駐車場にバックで車を停めた。切り返すこともなく、車はすんなりとそこに収まる。  篠口先生がバックで元の位置に車を戻している最中、おじいさんは先に車から降り、僕の包帯が巻かれた腕を見て目を丸くした。 「おいおい、どうしたんだよそれ、怪我したのか?」 「はい」 「ずいぶん派手にやったんだなぁ。骨折ったのか?」 「打撲です。階段から落ちちゃって」 「バッカだなぁ」  あちゃー、と頭を抱えたおじいさんに、僕は尋ねた。 「僕のことを知ってるんですか?」 「は? おいおい兄ちゃん、ボケてんのか? 俺はお前のことを常日頃から良くしてやってんじゃねぇか……ていうかお前どうしたよ、その喋り方は……」 「常日頃から?」 「忘れちまったってのかぁ? このバカタレがァ!」  べしんっ。  なぜか豪快に笑いながら頭を叩いてきた。  冗談だと思われているのだろう。  はい忘れましたとは言い難い状況のなか、車から降りてきた篠口先生が助け舟を出した。 「すみません、その子、少し頭も打ってしまって、混乱しているようなんです。失礼ですが、琴くんとはよくお話されていたのでしょうか」  記憶障害だと言えばいいのに、体裁が悪いと思ったのか、先生はおじいさんにそんなふうに言う。  おじいさんは、よく分からないながらも軽妙に頷いた。 「琴のお袋さんからよく言われてるからねぇ。琴をよろしく頼みますってな」
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加