【1】コンフォート・ゾーン

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【1】コンフォート・ゾーン

 目が覚めると、見慣れない白い空間が広がっていた。  指先を動かすとチクッとした鈍い痛みを感じる。  手の甲には針が刺さり、テープで点滴が固定されていた。 「分かりますか? ここ、病院ですよ」  ベッドの横にいた、白い服を着た女の人は、僕の手首や肘の内側に優しく指をあてていく。 「気分はどうですか? あなた、階段下で意識を失っていたんですよ。きっと、雨で足を滑らせたんだろうって……梅雨明けはまだまだね」  覚醒しない頭でぼんやりとする。  夢なのか現実なのか、まだ分からない。 「階段……」 「駅近くの住宅街階段ですよ。思い出しました?」 「あぁ……はい」  そう返事をしたものの、正直言ってピンとこなかった。この人、他の患者さんと間違えているのではないだろうか。  しかし、全身のいろんなところが痛いのが証拠を物語っていた。  水色の検診衣から覗く腕や手首は、包帯がぐるぐる巻きになっている。  いつ、どうやってその場所に行ったんだっけ。  どこの階段から、どんな風に足を滑らせたのだっけ。    ……そして僕は。  僕は──── 「見た目は派手ですけど、軽い打撲や擦り傷程度で済んでますから、検査で異常がなければ、すぐに家に帰れるそうですよ」  そう気遣ってくれたが、受け答えする余裕が無かった。  ツンとくる匂いが鼻を刺激するせいで、うまく考えがまとまらない。 「先生を呼んできますね」 「あ、あのー……」  確認したいことは山ほどあるが、とにかく1番重要で切実に答えを教えて欲しい質問を投げかけた。 「僕って、誰でしょうか?」 「はい?」 「すみません。名前とかいろいろと、思い出せなくて」 「たまにいらっしゃるんですよね。そうやってからかう人」 「嘘じゃないです」 「またまたぁ」  どうやったら分かってもらえるのだろう。真剣味が足りないのだろうか。  軽くあしらわれても、何度も真面目な口調で言えば、さすがに相手も表情を強ばらせていった。   「本当に? ご自身の名前が分からない?」 「分かりません」 「先生を、呼んできます」  女の人は血相を変えて病室を出ていったので、少しほっとする。  不思議だ。窓をパラパラと打っているのは雨で、手に刺さっているこれは点滴で、というのは分かるのに、自分の名前や年齢が分からない。  いくら思い出そうとしても、解き方が分からない数学の問題のように何も出てこなかった。
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