父の思い出

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 その日は、大雨だった。当時、私は高校生で、あれは土曜日の部活帰りの電車の中だったろうか。何があっても止まらないことで有名な電車が、視界不良となり、途中駅で運転見合わせとなってしまった。  私の実家は、その二駅先であった。電車の中でも「この大雨の中、家まで歩くのしんどいな」と、うんざりしていたところに、この運転見合わせ。アナウンスは何事かを伝えようとしているが、それすらも雨音に掻き消されて聞こえない。  「これは、車で迎えに来てもらおう」と私は決心した。運転再開の目処も立たないようだし、運転再開したとしても駅から家まで十五分の道のりを歩くのも嫌だ。  当時、私は携帯電話を持っていなかった。公衆電話を探さねばならない。初めて降り立つ駅で公衆電話を探すと、ありがたいことに駅のホームに電話が備え付けられていた。そこにはすでに人が並んでいたが、用件を済ますとすぐに次へと代わってくれる心ある人ばかりで、すぐに私の番となった。  家に電話をすると、なかなか出ない。この大雨の中、出歩いているのだろうか。後ろへ並ぶ人たちに気兼ねをしながら三度目の正直で掛けると、ようやく父が出た。  「お父さん、今電車止まっちゃってね。O駅にいるんだけど、迎えに来てくれない?」  大雨と断続的に続くアナウンスが耳につき、ついつい大声になる。  「えー」  と父の声がした。  「O駅にいるから…」  もう一度言いかけた私に、父は言った。  「お父さんは、薔薇に傘を挿さないといけないから、あんたは自分で帰ってきなさい」  な、な、なんて?  私は絶句した。今、この親父は何て言った?  父は、ごくごく普通のサラリーマンではあったが、それと共に薔薇づくりの名手であった。十坪ほどの狭い庭に、コンテスト用の品種である大型の薔薇を常時二十株ほど育てていた。それは確かに素晴らしく、近所の老人のたちの散歩コースになっていたし、近隣の市から見学に来る人もいた。  この父が育てている品種だが、咲けば子どもの頭ほどの大輪が見事だが、まともに花を咲かせるのは非常に難しく、蕾に雨が掛かると花弁に染みができてしまう。(もしくは腐ってしまう)なので、薔薇の株には各各支柱が立てられていて、そこに傘が縛り付けられていた。  「ば、薔薇…?」  聞き返した私に、父は厳かに申し渡した。  「お父さんはね、薔薇に傘を挿さないといけないから」  「薔薇の方が、我が娘より大事なわけ!?」  「カレシにでも迎えに来てもらいなさい」  力いっぱい叫んだ。  「カレシなんかいねーし!」  しかし、言い終わるかどうかという前に、無情にも電話は切られた。切れてしまった受話器を手に、しばし呆然としたが、そのまま後ろに並ぶサラリーマンへ受話器を渡した。居並ぶ人々は気の毒そうに、しかし笑いを堪えているような様子で顔を伏せた。  電車は思ったよりも早く運転を再開し、私は大雨の中を帰宅した。ずぶ濡れ姿で家に着くと、薔薇たちはみな傘を挿してもらい、雨見を楽しんでいた。  「お父さん!」  怒鳴りながら、家に上がると父は風呂上がりで、すっかりくつろいだ様子だった。しれっと父が言った。  「帰って来れたじゃん」  「『帰って来れたじゃん』じゃないよ!」  「モテない女は駄目だなー」  「こ、この、クソ親父」  『父の』薔薇には、母も私も妹も散々振り回されており、市の花を決める市民投票があった際、薔薇を含む三択の中から三人とも秋桜を選ぶくらいには、薔薇を嫌っていた。  あれから時は経ち、父はもう居ない。六十四年の生涯だった。残された薔薇たちは散り散りにもらわれて行ったり、処分したりした。  人は死ぬと無になるというのは、本当だろうか。死ぬと無になるというのなら、なぜ私は父のことを覚えているのだろうか。あの薔薇の色や分厚い花弁の感触、「『リンカーン」だよ」と誇らしげに薔薇の名前を言う声まで、ハッキリと覚えているのは何故だろうか。  人は死ぬと無になるのではない。背広を脱ぐように、ネクタイを外すように、自分自身へと還ってゆくだけなのだと思う。  結婚した夫は虫が大好きで、家の中にカブトムシの幼虫が入ったタッパーが、タワマンの様に立ち並んでいる。よくこんなに育てる気になるなと思う。結局似たような男と結婚してしまった。  今でも電車が止まるほどの雨の日は、億劫ではあるけれど嫌いではない。
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