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第1話 空っぽの棺
忙しかった収穫の季節が終わる頃、国土の中心を南北に貫く大河、ナイルの水位は最も低くなる。
農地も農夫も一休み、といったところだ。刈り入れの終わって乾いた土が広がる麦畑には麦わらが干され、落穂を漁る家畜や小鳥たちが、畑の間を闊歩する。それを眺めながら人々は、まだ完全に色づいていないナツメヤシの下に寝そべっている。
この季節は年の暮れ、増水の始まりとともに迎える新年に向けて、ゆったりとした日々を過ごせる数少ない季節なのだった。
税収役人のチェティも、忙しい時期がようやく終わって久しぶりの休みだった。
小麦の収穫期はほとんど実家に顔を出すことも出来ず、役人の詰め所に寝泊まりして、朝から晩まで畑と穀物庫を往復していた。休みをとった今日は、久しぶりに、実家で泊まるつもりだった。
だが、実家に顔を出すと、母に無理やり追い出されてしまった。
「それなら、家でゴロゴロするよりは、イウネトと出かけてきなさいよ。仕事、仕事で、放ったらかしだったでしょう。」
そんなわけで、チェティは、許嫁として実家で両親と同居している少女、イウネトと出かけることになったのだった。
ほとんど押し来られるような形で同居することになったのだが、いつの間にか、家族の一人のように、家にいるのが馴染んでいた。
――ただ、恋人という感覚ではない。チェティは年が明ければ十六になるが、イウネトはまだ十二だ。妹のメリトと一歳違いだし、年が少し離れていることもあって、チェティにとっては相変わらず、もう一人の妹のような認識のままなのだった。
「今日は、大神殿へは行かなくていいんですか?」
並んで歩きながら、イウネトは意味深な顔でそんなことを言う。
「いつも、お休みになったら一番にカプタハさんに会いに行くでしょ」
チェティの幼馴染で親友のネフェルカプタハは、メンフィスの街の守護神である冥界神プタハに仕える神官だ。その親友と話をするために、チェティが大神殿に足繁く通っていることは、彼女も知っている。
「カプタハと会うのは明日かな。今日は、仕事があるって言ってた」
「仕事?」
「貴族のお葬式らしい。一日がかりの、立派なやつをやるんだってさ」
葬儀は、冥界神に仕える神官の日常的な仕事の一つだ。
この街では、ほとんどの住民がプタハ神の信者で、死ねばプタハ神の支配する冥界へ往くと信じている。冥界に下った魂は、生前の罪に応じて冥界で試練を受けるとされ、冥界神のしもべが葬儀に招かれるのは、その冥界の辛い旅路を少しでも楽にしてもらうためのもの、魂が途中で力尽きてしまわないようにと祈ってもらうためなのだった。
メンフィスほどの大きな街では、人が死なない日は無い。神官たちは、ほとんど毎日のように、入れ替わりで誰かの葬儀に立ち会うことになる。
「今日は一日、イウネトとゆっくり出来るよ」
「それは、嬉しいですけど…どこへ向かっているんですか?」
「行けば分かるよ。そんなに遠くない」
チェティは、メンフィスの街を取り囲む城壁を出て、どこか郊外へ向かっているようだ。
街並みが途切れると、辺りは農村の風景に変わる。
「あ…」
イウネトは、思わず小さな声を漏らした。
農閑期に入った農村の若者たちは、結婚相手を探して恋の季節の真っ盛り。
ヤシの木陰で人目を憚らずいちゃついている若い男女がいれば、せっせと花を摘んで花束を作る若者に、川辺で念入りに身だしなみを整える娘たち。花の香りとともに、甘い吐息があちこちから聞こえてくる。
「あ、あの、…チェティさん?!」
イウネトは思わず頬を赤く染め、どこかそわそわしながら視線を彷徨わせた。
「えーと、ここって…」
「この道、前にハチミツを買いに行ったときにも通ったけど、覚えてる? あの時に行った果樹園の近くだよ。花畑があったの、覚える?」
「…うん。」
「あそこで香水を作ってるんだ。新年祭に向けて、そろそろ新しいのが出てるって聞いたから、行ってみようと思って。何か、気に入ったのを買ってあげるよ」
初夏の日差しの中を歩いていく二人の側を、蝶が二匹、絡み合うように舞いながら通り過ぎてゆく。
確かに、この季節、川べりや水路沿いに咲く野の花の種類は多い。
川の水位が下がった黒っぽい泥のぬかるみの中には、ところどころ白睡蓮の花が顔を出して、良い香りの花を咲かせている。
確かに、この妙なところで純朴な若者が、疚しいことなど考えるはずもないのだった。だが、イウネトは、まだ口の中でもごもご言っている。
「でも、お出かけで香水を贈り物にするだなんて…なんだか随分、手慣れてるっていうか…」
「え?」
肝心のチェティはというと、きょとんとした顔だ。
「父上から教えてもらったんだけど。女の人はいい香りのするものが好きだから、香水はとても喜ばれる、って」
「あ、そういうことなんですね…。」
妙に納得した反応だ。
チェティの父セジェムは大の愛妻家で、結婚してもう数十年にもなるというのに、相変わらず、妻に首ったけなのだ。妻が喜ぶことは何でもしたがるし、女性の好きそうなものには妙に詳しい。
その父親を見て育ったチェティは、無条件に父と同じことをすれば間違いないと思い込んでいるふしがある。もっとも、それはほぼ間違いなく、正しいことなのだが…。
「あれっ、香水はあまり好きじゃない?」
「いえ、好きです。というか…」
イウネトは、俯きがちに、ぼそぼそと言った。
「正直、つけたことがないので、ちょっと憧れてました…」
「そっか。じゃあ、気に入ったのを選んで。試しに匂いを嗅がせてもらえるはずだから。外国産の樹脂なんかを使うとすごく高くなっちゃうけど、花の香水ならそんなに高価じゃないから、ぼくでも手が出せるかな」
チェティは、何一つ気負いのない、あっけらかんとした笑顔だ。花畑の奥に建つ香水工房に向かって、歩き出す。
(そういうとこが、ずるいと思う…。変なこと考えたわたしが、馬鹿みたいじゃない)
少し口を尖らせながら、彼女は、チェティの後に続いて再び歩き出した。
と、ふと、花畑のほうから聞こえてくる女性の鼻歌に気がついた。
黒々とした、艷やかな黒髪の女性が、花をひとつひとつ摘みながら歌っている。どこか悲しげな響きを持つ声だ。摘まれた花は、手元で器用に編み込まれて、大きな花輪になっていく。
見事な手つきに、イウネトは、思わず足を止めた。
その視線に気付いたのか、花輪を作っていた女性が振り返る。
「何か――?」
「あっ! すみません。素敵な花輪だったので、つい」
言いながら、花輪だけでなく、それを手にした女性のほうにも見とれてしまう。
(きれいな人だ…)
香油を塗り込んでいるらしい、長くて艷やかな髪。もう若いとは言えない年のはずなのに、整った目鼻立ちと白い肌のせいで、老けているようには見えない。澄んだ色の瞳には、まだ少女のような瑞々しさが残っている。
「葬儀があるので、これは、そのために作っています。」
その女性は、抑揚のない声で答えた。
「注文があれば、葬儀用の香油や花輪も作るので。――何かお求めでしたら、奥の工房へどうぞ」
「はい。」
頷くように軽く頭を下げると、その女性は、まるで誰とも会っていないかのように、上の空のまま、奥の方に見える粗末な小屋のほうへ去ってゆく。
「イウネト? どうしたの」
先へ行っていたチェティが戻ってきた。
「花輪を作っている人がいたの。葬儀用なんですって」
「ああ、香水と同じ花から作るからね。ここの、ずっと奥の方に、遺体の防腐処理をするミイラづくりの工房があったはずだよ。そこで棺に添えるんじゃないかな」
「……。」
女性の鼻歌が、まだ、微かに聞こえてくる。不思議と惹きつけられる気がしてイウネトは、花畑の中に見え隠れしている黒髪の女性の後ろ姿を目で追っていた。
「まだ何か、気になることがあるの?」
「あの人、もしかして、身内を亡くしたのかなって。とても、悲しそうな歌だから。それに…」
彼女は、呟いた。
「…この歌、子守唄みたいに聞こえる」
* * * * * *
チェティとイウネトが郊外の花畑にいたその頃、ネフェルカプタハは、大神殿からほど近い、貴族街の邸宅を訪れていた。
この辺りは、メンフィスの街の中でも、いわゆる高級住宅街だ。立派なお屋敷ばかりが並んでいる。
葬儀の依頼をしてきたのは、この区画でも古参貴族の家長であるペルエンアンクという男で、亡くなったのは彼の長男だという。
それなりの年齢であれば死後のために棺や墓穴の準備をしておくものだが、長男はまだ若く、直前までは健康で、突然体調を崩しての急死だったという。当然、死を迎えるための準備は何一つ出来ていなかった。従って、埋葬のための棺も、副葬品も、全て急ごしらえのものだった。
棺は出来合いの無地の箱に、故人の名前と短い祈りの文句だけが書かれた至って質素なもの。特別な副葬品などは何も準備せず、生前の衣類だけを入れて、墓穴は父親が自分用に準備していたものを使うという。
棺や墓穴はどうしようもないが、跡取り息子だった長男を亡くしたのだから、せめて葬儀だけは立派にやりたいというのが故人の父の希望だった。
大神殿には、神官の行列が依頼された。棺を担ぐ人足に、棺の行く道に清めの水を撒く先触れ人。香炉持ちに朗唱神官。さらに、泣き女は八人も雇うという。
大規模な葬儀ともなれば、それなりの肩書きを持つ高位神官が取り仕切ることが必要になる。
それで、彼の父である大神官プタハヘテプが、ネフェルカプタハを指名したのだった。
メンフィスが首都だった時代から館を構える古参貴族の家柄とあって、邸宅は、貴族街の中でも大きくて立派だ。
神官たちが到着すると、玄関で待っていた中年女性が、陰気な笑みを浮かべて出迎えた。格好からして、この家の主婦だろうか。だとすれば故人の母親になるはずだが、ずいぶんと若く見える。
「このたびは、ご愁傷さまでした。棺は、どちらに?」
「奥の部屋です。ご案内しますわ」
ネフェルカプタハは、棺運びの人足たちに目で合図をして、ついてくるよう促した。
喪に服した邸宅の中は不気味なほど静まり返って、生きた人間の気配はほとんどしない。この広さなら使用人を何人も雇っているはずなのに、どこかに隠れて息を潜めているかのようだ。
棺は、玄関を入ったすぐ奥の、庭に面した部屋に安置されていた。
最高級の杉材製ではなく、手頃なアカシア製だ。
ネフェルカプタハと女性が部屋に入った時、ちょうど、その脇に幼い少年がいて、蓋の隙間に手を突っ込もうとしているのが見えた。
それを見るや、いきなり女性が、びくっとするほどの金切り声を上げた。
「ジェドヘル! 何をしているの!」
飛び上がって振り返った少年は、慌てて棺の側から逃げ出そうとする。手元から、何かを取り落とすのが見えた。
それを拾うのとほぼ同時に、女性の腕が少年の首根っこを捕まえた。
「自分の部屋にいなさい、と言ったでしょ! どうして言いつけを守らないの」
「ごめんなさい、母上…」
こっぴどく叱られて、少年は涙ぐんでいた。何か言いたげに棺を見やったあと、追い払われるようにして奥の部屋へ消えていく。
(故人の弟、か。何か玩具みたいなのを持ってたな。…ふうん、中の良かった兄貴に、お別れの品でも入れたかったってことか)
ネフェルカプタハは、ちらと傍らの女性を見やった。
片や、こちらのご婦人はというと、死んだ息子の棺には目もくれず、幼い息子の去っていったほうに怒りの眼差しを向けたままだ。
長男が死んだというのに悲しげな表情を見せるでもなく、それよりは、どこか落ち着かないというような、不安そうな眼差しを彷徨わせている。
まるで、何かを恐れているような感じだ。
(家庭事情に訳あり、ってやつか? まぁ、珍しいもんでもねーけど)
こほん、とひとつ咳払いをして、ネフェルカプタハは人足たちに棺を担ぐよう指示した。
「では、葬列を動かします。喪主は、故人の父上でしたかな? 先頭に立って、墓所までご案内いただきたい。その他のご家族は、棺の後ろについていただきます。」
「わかりました。夫を呼んで参ります」
女性が、部屋の奥の階段を上がってゆく。
棺が玄関に向かって通り過ぎてゆく時、ネフェルカプタハは、棺の蓋に墨で書かれた死者の名前を素早く読み取った。
(ペルエンアンクの息子、冥界神に愛されし者、”ルドエフ”。――)
棺の大きさからしても、立派な葬儀からしても、死んだ長男ルドエフは成年に達していたはずだが、何も仕事はしていなかったのか、生前の肩書きや業績は銘文として書き込まれていない。
長男を失うことは痛手だろう。だが幸いにも、この家には次男が残っている。あの子が無事に成人すれば、跡継ぎには困らないはずだ。
ふと視線を感じて振り返ると、奥に通じる出入り口に、さっきの少年が戻ってきていた。涙を一杯に溜めた目で、じいっとこちらを見つめている。
ネフェルカプタハは思わず笑みを浮かべ、少年に向かって手招きした。
「ほら、来いよ。今なら、怖い母さんはいないぞ。兄貴に最後のお別れをしたかったんだろう?」
「……うん」
少年は、駆け寄って来て棺にすがりついた。そして、握りしめていた木彫りの短剣のようなものを見せた。
「兄上に、これ…持っていってほしくて…」
「そうか。んじゃ、それは入れてやろう」
ネフェルカプタハは、側にいた人足を振り返った。
「蓋をちょいと開けてやってくれ。隙間が出来りゃそれでいい。この子の、心の籠もった贈り物を、一緒に入れてやりたくてな」
「へい。畏まりました」
人足たちが、棺の蓋の四方に手をかけた。
木製の四角い棺は、ほぞを使って組まれている。構造さえ知っていれば、噛んでいる場所をずらして蓋を外すことは難しくない。
蓋が外され、隙間が開いた。
「ほら、早くしろ。」
「ありがと」
少年が、蓋と本体の隙間の暗がりに手を差し入れて大切な品を中に入れようとする。中には遺体が入っているはずなのに、恐れている様子はない。棺に入っているのが、親しかった家族だからなのだろう。
それを微笑ましく見守っていたネフェルカプタハだったが、ふと、微かな違和感に気がついた。
(んっ…? あれ?)
思わず、少年の肩に手をかけた。
「ちょっと待て。中、どうなってる」
「え?」
手を引っ張り出そうとしていた少年は、きょとんとした顔だ。
違和感を感じたのは、棺の中から、死者に特有の「気配」が漂っていなかったせいだった。腐敗臭、湿っぽい気配、棺の重さ。
「おい、もうちょい大きく蓋を開けてくれ。中が見えるように。そうだ、そのまま」
光に照らし出された棺の中に、広げられた白い亜麻布。その下に、黄ばんだ麻袋が幾つか並んでいるのが見える。ほんの微かな香油の匂い。花束からこぼれ落ちたような一輪の花。
――それだけだ。
棺の中に、遺体は無かった。
階段のほうから、再び、女性のけたたましい悲鳴が上がった。
「ちょっと! 何をしているのよ」
二階に上がっていた女性が、棺の側に立つ少年に向かって突進していく。その後ろから、この家の主人らしい、黒い髭をたくわえた男性が、険しい表情で降りて来た。
彼らが口を開くより早く、ネフェルカプタハは、毅然とした表情ではっきりと口にした。
「棺の中に死者がおりません。これでは、我々は依頼は果たせませんぞ」
「――何だと?」
弔いの装いに身を包んだ男は、信じられないという様子で大股に歩いて来て、棺の側にいる妻を突き飛ばすように脇へどけると、自ら、棺の蓋を全て取り払って中を覗き込んだ。
「……。」
亜麻布を捲ってみるまでもなく、状況は明白だった。
朝の明るい光に照らされて、はっきりと分かる。
棺の中には、人の体があるように見せかけた砂入りの麻袋が数個、並べられている。
棺の中に遺体と一緒に入れたのだろう、上着と履物。一輪の花。
そして、たったいま幼い弟の入れた木製の剣のおもちゃが、砂袋の間に落ちている。
「そんなはずはない…」
ペルエンアンクが呟くのと、傍らにいた女性が悲鳴を上げるのは、ほぼ同時。
「居なくなった! 生き返ったんだ、あの子…あなた! あなた、どうしよう!」
「どう、…って。馬鹿なことを言うな。ルドエフは死んだ。それはお前だって知っているだろう」
「だって、居なくなってるじゃないの!」
妻のほうは、既に混乱の極みに陥っていた。
正気を無くしたように叫び、夫に掴みかかろうとするのを、居合わせた人足たちが羽交い締めにして止めようとする。怯えた少年は家の奥へ逃げ込み、家の表で待っていた葬列の参加者が、何事かと中に入ってくる。
もはや、葬儀どころではなかった。死者の遺体が消えてしまったのだ。
一家の主婦は泡を吹いて倒れてしまい、故人の父は棺の側に座り込んでしまっている。
家族の遺体が消えたのだとすれば、確かに、その反応は決しておかしくはない。だが、ネフェルカプタハには、違和感だらけだった。
遺体が消えて「生き返った」とは何事か。そもそも、倒れてしまった女性は、ついさっきまで棺に興味も示していなかったではないか。
彼は、空っぽの棺の中を見つめながら、考え込んでいた。
――遺体は一体、どこに消えたのか。それに、そもそもこれは、ただの遺体消失事件なのか?
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