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白衣の天使に潜む悪魔
医療現場は本当に過酷だ。
しかも外科病棟は不自由だけど元気な人が多くて、何かと気を遣う。
「お先します。お疲れ様でした」
「白井さん、お疲れー」
「栄子ちゃん、またねぇ」
眠い目を擦りながら、更衣室の外にある自販機で買った苦いコーヒーで眠気を抑え込む……それが私の夜勤明けのルーティンだ。
「1102号室の桜田さん」
「ああ、あの気持ち悪いおじさんね。どうしたん?」
「ナースコール何回鳴らしたと思う? 32回よ、32回!」
「ははっ、あんた数えてたんだぁ」
「数えたくもなるわよ。寂しいからって、ちょっと顔が見たくなったとか……私らキャバ嬢じゃないっての」
「どうせ足の骨折でしょ? すぐに退院するわよ」
いつものように更衣室から、ベテランもといお姉さまたちのかしましい声が聞こえてきた。
夜勤と日勤が交わるこの時間帯はいつもこうだ。大抵が患者さんの愚痴だ。
一昨年寿退職した先輩が、白衣の天使には“悪魔”が潜んでるって言ってたっけ。
先輩いわく、その正体は溜め込んだストレスとかの負の感情諸々。
天使たちにも色々あるのだ。
私はというと、今の病院で看護師をやって7年目。
29歳の独身女ゆえにか、はたまた図太い性格だったのか、まだ私の中に“悪魔”は確認されていない……と思う。
「白井さん、まだいらっしゃたんですね」
突然、背後から弱々しい声が飛んできて我に返った。
「ああ、咲ちゃんお疲れ様。また廃棄頼まれたの? 今日の担当は東さんでしょ」
「いやぁ、お子さんと用事があるからって……」
この損な役回りを押し付けられた子は、最近系列病院から転属してきた【野々村 咲】だった。
私より10センチは背が高いのに、猫背のせいで妙に弱々しい感じがする。
しかも化粧っ気がないし、洒落っ気の無い眼鏡が相まってか、よく仕事を押し付けられるのを目にする。
何かに似ているなって考えていたら、昔実家で飼っていた愛犬マックに似ていることに気付いた。それ以来、彼女には妙な親近感を覚えている。当然、本人には伝えてはいないけど。
「咲ちゃんさぁ、無理なら無理ってハッキリしなよ。その調子だといつまでも頼まれ続けちゃうよ」
「いいんです、白井さん。私は帰っても寝るだけですから」
そう言って、医療廃棄物の乗った台車を押してエレベーターに向かっていった。
「はぁ、まったく……」
彼女の背を見送った後、空き缶をゴミ箱に放り投げた。
さっさと帰ろう。今日はいつもに増して眠気が凄まじい。
玄関のドアを開けた勢いのまま荷物を放り出し、服を脱いでシャワーも浴びずにベッドイン。
そのまま下着姿で12時間ほど爆睡。夜に一度起きたけど、そのまま朝まで二度寝。
その日は休みだったけど、出前を取って家でゴロゴロ。予約してた美容室もすっぽかし、来週に延期した。
ああ、怠惰怠惰。我ながらほんとに怠惰。
でもこれが私の気分転換なんだ。“悪魔”が目覚める前に、怠惰を貪って浄化しているのだ。
――次の勤務日。
「……急だけど、今夜は白井さんと野々村さんでお願いできる?」
聞きたくない言葉が師長の口から飛んできた。
「今日は東さん、お休みなんですか?」
「ええ。お子さんがご病気ということで。患者さんも少ないし、今夜は二人で頑張ってね」
既婚者看護師あるあるだ。こればっかりはお互い様で仕方ないことだけど、独身には災難でしかないやつ。
「それと……昨日、特別病室に権田原さんが入院されました。腰痛の検査入院です」
「検査入院で特別病室利用ですか」
「院長のご友人だそうで。非常にお元気でいらっしゃるから……“気をつけてね”」
気をつけてね、か。それで全てを察した。
検査入院で一泊ウン万円の特別病室を使うくらいだから、そこそこの金持ちなんだろうけど……ハァ。
「白井さん、今夜は私たちだけですね。よろしくお願いします」
何も知らない咲ちゃんのピュアな視線がマックを彷彿とさせる。
「ん、私の顔に何かついてますか?」
「えーっと、目と鼻と口」
なんてごまかしたり。さすがに昔の愛犬に似てるとは言えないや。
それは初日から容赦なく、突然訪れた。
「ひゃん!!」
どこから出したかわからないような甲高い声。
「手が当たっちまったぁ、スマンスマン」
「いえ……大丈夫です」
咲ちゃんは顔を赤らめ、目を伏している。
こいつ、さっそくお尻を鷲づかみしやがった!
こう言っては何だが、不健康そうに太った、頭の薄い典型的セクハラ親父だ。
“気をつけてね”とは、こういうことか。
「権田原さーん?」
すぐに間に入って、作り笑いで注意を促す。
「おっ、お姉さんも可愛いじゃないの」
こいつ頭沸いてんのか。これだけ直球を放ってくる輩も久々だ。
「白井さん、お薬の確認終わりました!」
やるじゃん。咲ちゃんはこの間に仕事を終えていたらしい。
「はーい。では失礼しまーす」
「もう行くのか。つまらんのぉ……」
はいはい、聞こえませんよぉーと、さっさと部屋から立ち去った。
バタンと特別病室の重厚な扉が閉じた瞬間、
「検査入院なら明日には出て行くだろうけどさ。咲ちゃん大丈夫?」
怒りよりも心配が先に出た。
「はい、ありがとうございました」
咲ちゃんも気を取り直したようで安心した。まあこれなら大丈夫だ。
「あそこは私が行くから、咲ちゃんは他の部屋をお願い」
どうせ検査入院だ。投薬の確認と食事の上げ下げくらいしかやることは無い。
「ありがとうございます。でもほんとにあんな人っているんですね」
『クソジジイが……』
「ん、咲ちゃん?」
「白井さん、どうしたんですか?」
今、確かに声が聞こえた……ような気がしたけど。
だが気のせいだろう。咲ちゃんに変わった様子は無い。
これが心の中の“悪魔”ってやつかな。なんて、馬鹿馬鹿しい。
その時はさほど気にもならず、宿直の時間は過ぎていった。
「お疲れですね、白井さん」
「あ、ごめん……わかる?」
仕事が一通り落ち着いたせいか、いつの間にか業務端末の前で、うつらうつらと舟を漕いでいたのだ。
「眠気って、月経前症候群ですか?」
「いやぁ、いつも眠いからただの過眠症だよ」
「確かに白井さん、いつも眠そうですもんねー」
「んー、それって皮肉?」
「いえいえ、そんなつもりでは。……そうだ、今日はありがとうございました」
「ああ、セクハラ親父のこと? 気にしないで……って言いたいところだけど、咲ちゃんもっとしっかりしなきゃ……ふわぁ」
って、先輩風吹かそうと思ったけど、語尾にあくびじゃかっこつかない。
「私、目覚ましにコーヒーでも入れてきますね」
咲ちゃんはカップを持って、従業員用の給湯室に向かった――
――時計を見ると、いつの間にか1時間ほど経っている。
目の前には空っぽのコーヒーカップ。咲ちゃんの姿も見えない。
あれ? ていうか、私もうコーヒー飲んだんだっけ?
……どうも記憶が定かじゃない。
立ち上がるとフラつく。廊下まで出てみると、あの特別病室から明かりが漏れていた。
猛烈に嫌な予感がする。
おぼつかない足取りで廊下の壁を伝い、特別病室へと向かう。
病室までの廊下には、綺麗な病院とは思えないくらい物が散乱している。
そして脱ぎ捨てたように制服があった。一体誰が……。
拾って名札を見てみると【野々村咲】……咲ちゃんだ。
間違いなく、咲ちゃんに何かあったんだ。
言い知れぬ不穏が、言い知れぬ不安を掻き立てる。
『……ブタ…………この…………』
重厚な扉に遮られてよく聞こえないが、部屋の中から声がする。
中で何かが起こっている。
フラフラする身体で、私は恐る恐る扉を開けた。
『この成金クソ豚野郎!!』
吐き捨てるような罵詈雑言。
ベッドで寝ている権田原の正面に立っていたのは、身体の線が強調される黒いキャットスーツとでも呼ぶのだろうか……それを着た背の高い女性だった。
『もう起きちゃったんですね?』
振り向いた顔には見覚えがない。
病院に似つかわしくない紅いルージュに切れ長の目。クールな印象のモデルのような美人だ。
「あなた……何してるの」
私が何とか吐き出した言葉に、美女は微笑んだ。
『うふふ……私ですよ、ワ・タ・シ。野々村咲ですよ!』
「さ、咲ちゃん!?」
背筋を伸ばし、しっかりと化粧を施せばこんな感じになるのか。と、私は妙な納得をしてしまったが問題はそこじゃない。
『白井さん……日本で一番人が亡くなる場所は知っていますか?』
「えっ? いきなり何を……」
『答えは病院です。病院なんですよ! 病院が日本で一番“死”に近い場所なんです』
咲ちゃんと名乗った女は、胸の谷間から薬液の入った注射器を取り出し、先端のニードルカバーを親指で弾いた。
『いいですか? 人間、ある程度の年齢になれば、基礎疾患の一つや二つは持っています。死因なんていくらでもでっち上げられるんです。この病院なら特に。つまり手を下しても100%バレることはありません』
何を言ってるんだこの子は。……頭がふわふわする。意識が持っていかれそうになる。
『権田原は私服を肥やす過程で、とんでもない数の人間を騙し、姑息に利用して今の地位を築きました。被害者は多数。殺されたって仕方の無いクズ野郎なんですよ……物言わぬ被害者に代わって、私が断罪するのです!!』
グーグーと寝息をかく権田原の首元に、注射器があてがわれた。
『このクスリを打てば、ごく自然な疾患でコイツはくたばります!』
首の動脈に、細い注射針が突き刺さっていく。
ダメと叫ぼうとしたが声にならない。動けもしない。
『うふふふふ……あははははははは!! 死ねっ! 死ねぇ!!』
咲ちゃんとはやっぱり思えない、壊れている。
どうして身体が動かないの。
ダメ、止めなさい!! お願いだから!! 咲ちゃん、ダメだ――――
「――さん、白井さん。どうしたんですか?」
「さ、咲ちゃん!!」
「は、はい?」
「……」
気付けば、業務端末の前。
どうやら突っ伏していたらしい。
窓の外が白んでいる。
「……私、寝ちゃってた?」
「ええ。ほんの1時間ほどですが、そのままで……」
ええっと、夢か現実かハッキリしない。
じゃあ、あれは夢なのか……。
夢の中の女……あれがいわゆる“悪魔”だったのだろうか?
「ごめん、寝ぼけてた……そうだ、権田原さんに変わりなかった?」
「え、権田原さんですかぁ……さっき見たときは、外まで聞こえる大いびきをかいていらっしゃいましたよ」
「そ、そう。なら問題ないわ」
それを聞いて、強張っていた身体中の力が一気に抜けた。
すぐさま病室に行き、状況を自らの目で確認して、やっと私は安堵した。
「先輩の変な教えが、夢にまで浸蝕してきて、大変だったんですからね!」
夜勤終わり、いつものルーティンでコーヒーを飲みながら、私に“悪魔”の話をした先輩に久々に電話した。
通話の中で先輩は、
『ごめん、ごめん。あれは色々溜め込むなってことじゃないかな。私も、私の先輩から言い聞かされた話だったからさ』
「でも、ほんとに怖かったんですから」
『そんなことより、居眠りなんかするなっての!』
って、笑い話で落ち着いた。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
今日は咲ちゃんが先に帰っていく。
そうだ。この教訓も、いつかは彼女に伝えることがあるんだろうか。
【白衣の天使には悪魔が潜んでいる】
眠い目を擦りながら、いつも通り空き缶をゴミ箱に投げ入れて帰路についた。
翌日、洗い物をしてると珍しく師長から電話がかかってきた――
「白井さん、ゴメンね。実は検査入院の権田原さんのことなんだけど……」
「あ、咲ちゃんへのセクハラの件ですか?」
「いや、実は容態が急変してね、先ほど虚血性心不全で亡くなられたの……」
「…………」
「白井さん、ねぇ聞いてる?」
完
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