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「トリック・オア・トリート! おかしくれなきゃいたずらするぞぉ!」
結は保育園で覚えたばかりの言葉を元気よく叫んだ。
その瞬間、周りにいた人たちが驚いた表情で振り返る。
隣では母が飛び上がらんばかりの勢いで慌てた。
「ゆ、結っ? 今日はお祖母ちゃん家に持っていく、羊羹を買いに来ただけなのよ!」
「でも、ハロウィンはおかしもらえるって、せんせいがいってたよ?」
「ここは保育園じゃなくて和菓子屋さんよ!」
町内でも有名な和菓子店内で母は必死に説明するが、結は首を傾げた。
目の前には見惚れるほどに美しい和菓子やお団子、そして祖母が大好きな羊羹も並んでいる。
しかし店内にはコウモリの飾りもないし、かぼちゃの置物もないからか、ここではお菓子は貰えないらしい。
せっかく保育園でとっておきの言葉を教えて貰ったのに。
この前の日曜日に魔女の黒い帽子を被って練り歩いた商店街のハロウィン企画でも、保育園で開かれたハロウィンパーティーでも、こう言ったらお菓子をたくさん貰えた。
今日は魔女のとんがった黒い帽子を被っておらず、保育園の丸い黄色の帽子だからダメなのだろうか。
魔女の帽子を持ってこれば良かったと思いしょんぼりしていていたとき。
「あ……あの……」
後ろから小さな声が聞こえた。
くるりと振り返ると、そこには結と同じくらいの年頃の、女の子のように可愛い顔をした男の子がいた。
「いちごだいふくみたい」
俯いている頬は、真っ白な大福に包まれたいちごのような色をしていて、結は思わずそう呟いた。
そんないちご大福のような男の子は、俯いたまま何かを差し出した。
「ぼくのおやつ、はんぶんあげる……」
結に差し出されたのは、ふっくらとしたどら焼きだった。
「あ、あのね、おとうさんがつくったわがし、おいしいよ」
内気な性格なのか、男の子は小さな声で、けれども一生懸命そう言った。
結の通っている保育園のわんぱくな友達とは雰囲気が違う。
ちなみに、保育園で一番わんぱくと言われているのは結だ。
「ここのおうちのこ?」
「う、うん。ぼく、ひかる……」
「わたしゆい! ひかるくんのおうち、おかしいっぱいあっていいなぁ!」
結が店内を見回しながら大きな声でそう言うと、周囲にいたお客も店員たちも微笑まく笑い、結の母だけが真っ赤になっていた。
そんなお喋りが聞こえたのか、奥から店主が出てきて坪庭の見える席に案内し、新しくどら焼きとジュースまで用意してくれた。
結はとっておきの言葉が通じたと大はしゃぎした。
その傍らでは必死に代金を支払おうとする母と、いえいえと言って断る店主の永遠に続きそうなやり取りが交わされていたが、そんなことお構いなしに結はどら焼きにかぶりつく。
祖母は羊羹が好きだが、結はどら焼きの方が大好きだ。
「おいしいね!」
「うん。おとうさんのつくるわがし、とってもおいしいんだ」
「ひかるくんもおかしつくるの?」
「う、うん。おとうさんみたいになるのが、ゆめなんだ」
「すごいね!」
和菓子と洋菓子の区別もつかず全てお菓子と認識している結だったが、美味しいことだけは分かっている。
そんな美味しいお菓子を作るという夢に、結は尊敬のまなざしを向けた。
「じゃ……じゃあ、おおきくなったら、ゆいちゃんにつくってあげるね」
「ほんと? やくそくだよ!」
「結! あんこがついた手で指切りしないの!!」
「う、うん! やくそく!」
途中で母の悲鳴が聞こえたがそんなことお構いなしに、結はどら焼きの甘いあんこを頬張りながら小指を伸ばす。
隣に座っていた男の子は、いちご大福のような頬をさらに紅潮させて大きく頷きながら、同じように小指を伸ばした。
店内に指切りげんまんの歌声が響き、いつにない賑やかさに包まれた。
これが、老舗和菓子店の南月堂―なんげつどう-の跡取り息子である光と、食べることが大好きな結の、ハロウィンがきっかけの甘く小さな恋の始まりだった。
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