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あなたの家に引っ越したのはよく晴れた5月のことです。
「いい感じ、かな?」
部屋に招き入れたあなたは優しく訊ねました。
わたしは黙ってうなずきました。
今まで住んでいたところよりずっと日当たりがよくて、ずっと広くて、とても気に入りました。
ベランダからは新緑の街が見えます。
お隣りの庭で木苺の白い花が咲いていました。
「大切にするからね」
彼の言葉に、わたしも微笑みで返します。
とても幸福な気持ちでした。
★
一緒に住んでわかったのですが、彼は忙しくてあまり家にいません。夜遅く帰ってきて、朝早く出ていきます。
でも、仕事へ出かける前に彼はわたしと必ず朝食をとります。
わたしはコップいっぱいの水。彼は果物か、オニギリを少しだけ。じっとわたしを見つめて、何も言わずに出ていきます。
わたしのこと、ちゃんと好きなのかな?
あなたに早く会いたくて、わたしはベランダで背伸びをして待ちました。
★
雹が降った日、あなたは急いで帰ってきました。ベランダに出ていたわたしを慌てて部屋へと連れ戻しました。ベランダの床はちいさな氷の粒で白くなりかけていました。
不安で潰れそうだったわたしをそばにおいて、「大丈夫だよ」と囁やきました。
あなたは本当に優しい人。
★
6月の雨の日でした。
彼が部屋に連れてきたのは、小柄でかわいい女性でした。ショートカットと眼鏡の似合う、彼にお似合いの女性でした。
二人は私の目の前で向かい合って、夕食を食べました。
女性は私を見て、
「素敵ね」
と、いいました。
「そうでしょ?」
って、得意げなあなた。
そして、二人は見つめ合ってキスをしました。
わたしなんて、いないと思って。
★
最近、あなたはわたしを見なくなりました。
わたしは好き放題に荒れ放題。
夏が近づくにつれ、背丈はぐんぐんと伸びました。
だって、わたしトマトだから。
★
わたしはいつもベランダにいます。
ここのところ、日差しが強すぎて、ため息ばかりついていました。日当たりのいいベランダは灼熱地獄。シャンとしているのは昨日降った雨のおかげ。
ぐんぐん伸びて、赤い実がたくさんなりました。
すずなりの実は、恋に焦がれて熟していくみたい。
夏になって、毎朝あなたはわたしを摘みます。
最近のあなたは、黄色い花を褒めてくれるし、脇芽もちゃんと取ってくれます。支柱だって優しく添えてくれました。
6月の雨の日にやってきた、かわいい奥さんと向い合せで、素敵な朝ごはんを食べるために。
★
8月のある日でした。
赤いわたしを一つ食べて、あなたとかわいい奥さんは顔を見合わせました。
「これあんまり甘くない」
「ハズレだね」
二人は少し密やかに、でも楽しそうに笑いました。
あなたたち、ハズレになったことある?
★
冠みたいな緑のヘタは、あなたのお気に入りでした。
今はお皿の中で干からびています。
あなたを好きになったこと、ちょっと後悔していました。
灼熱のベランダ。
近所の子どもたちの声。
向かいの家の百日紅。
全部好きです。
あなたの声、指先、唇。
全部好きです。
だから、私は実をつけます。
秋になっても、惨めな枯れ姿になっても、それでもこの実を赤くします。
あなたに好きとは言いません。
気持ちはどうせ、口の中で弾けてしまうから。
ハナムグリが食べに来る前に。どうか摘んでいってください。
せめて、あなたの口の中で弾けたいんです。 酸っぱくてもいいから。ハズレでもいいから。
できることなら、おいしいと言って笑ってください。
だってわたし、トマトだから。
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