地獄の天使

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お前の翼は、羽ばたける。 地獄の天使 「お前、なんでその刺青にしたんだ?」 裸体でシャワーを浴びていた珊瑚に、同僚である無花果は訊ねた。 珊瑚の背中には、翼の刺青が彫られている。 「……まあ、色々有ってね」 そのコードネームに相応しい緋色の髪をかき上げ、シャワーのスピンドルを回した。 「皆刺青挿れてるから、別に変じゃないじゃん」 珊瑚は釘を刺す様に言う。 この業界で詮索するのは御法度だが、何故か無花果には引っ掛かるものがあった。 大通りが綺麗であればある程、その路地裏は暗い。 陽あれば陰が有る。そんな真理は何千年も前からわかっていた事だった。 珊瑚はパイプをふかしながら獲物を探す。 この闇の世界に迷い込む人間は、ただのカモだった。 「お前の所為で仕事が増える」 「仕方ないじゃーん!馬鹿が引っ掛かりやすいからさー」 珊瑚と無花果は、マフィアの下っ端だ。 なんとなく二人で組んで、よくない仕事や勧誘をしている。 こんなやりとりをするのは何回目かわからかった。 珊瑚は、その美貌とおちゃらけた話術で人の隙に付け入るのが上手かった。 無花果は主に珊瑚に誑かされた人間を"連れていく"役目をしている。 無花果は珊瑚を、天使の様な悪魔だと思っていた。 だから、闇に馴染んでいた珊瑚にあんな一面が有るなんて思わなかった。 その夜は満月だった。 あまりにも大きくて、街を飲み込む様にさえ見えた。 その月を珊瑚は見上げていた。 月光に煌めく緋が、彼の名前通りに輝いていて。 一瞬、珊瑚が人間と思えなかった。 緋の男は、歌っていた。 まるで満月に語り掛ける様な、美しい歌声だ。 何故か頬を伝う程の涙が出て、無花果は自分で驚いた。 泪なんて、もう枯れ果てたと思っていたから。 珊瑚は無花果に気付き、振り返った。 「……お前、歌上手かったんだな」 隣に座り、そう褒めればえへへと照れてくる。 「俺を泣かす歌がまだ有ると思わなかった」 そう続けると、珊瑚は本当に嬉しそうに笑った。 無花果は月を見ず俯いている。珊瑚のトパーズの眼が、優しくそれを見ていた。 その夜から、無花果は月に歌う珊瑚の隣に座っていた。 彼の歌声は、荒んでいた無花果の心に染みわたり、古傷を癒すようにすら感じる。 いつもは悪魔の囁きで地獄の様な世界へ堕とす緋が、歌う時だけは天使の様に見えた。 無花果も、その片棒を何年も担いでいる。 今更、赦されたいなんて思っていなかった。 でも。 「……俺はさ」 星の無い、満月だけが輝く日に、無花果は言葉を紡いだ。 「小さい頃から音楽が好きで、ミュージシャンになるのが夢だったんだ」 トパーズの眼は、無花果に向く。 「でも親が借金して、首が回らなくなって……どうせ俺は売られるか殺されるんだろうなって思った。だったら自分から地獄を上手く渡り生きようって考えて、親を売ってこのマフィアに入った」 月が見ている。 「結局、覚悟を見せてみろって家族を自分で殺せって言われて……両親の頭を撃ったよ」 そうして地獄の住人の仲間入りをした。 珊瑚は、ふぅん、と興味無さげな相槌を打つ。 そんな奴、此処にはごまんと居た。 「知ってたよ。だって、今でもギター触ってるもんね」 無花果が目を見開くと、部屋から音聴こえてたよ、と言われる。 「勿体無いねえ。こんなとこに居るの」 「……お前もな」 珊瑚はケラケラと笑った。 この地獄の中で、珊瑚は天使の様に生きている。 だからこそ、こんな所に居てはいけない。 ある幹部の話を盗み聞いて、無花果は尚更そう思った。 だから、無花果は走る。 満月の夜に訪れる、いつもの場所へ。 息を切らしてきた無花果に、トパーズの眼は丸くなる。 どうしたの、と珊瑚に問われ、息が切れたまま言った。 「珊瑚は、本当に天使じゃねえか」 ただ一言で全てを察した彼は、隣に座るよう促す。 「……俺、実験体なんだ」 その告白に無花果は頷いた。 神殺計画。 人間が神を超えた存在になる為の計画だ。 その為に人の手で天使を生み出す研究をしている。 二人が所属しているマフィアが、計画に資金を出していた。 そうして生み出された実験体を引き取り、監視する。 珊瑚は、その実験体の一人だった。 「No.35。だから珊瑚って名前を付けられたんだ」 初期モデルは翼も生えず、特に人間と変わらなかった。 その美貌と歌声以外は。 「だからってこんな刺青挿れるんじゃねえって話な」 惨めになる。と珊瑚は俯いた。 「人間が神になれるわけ無いのにね。だって、神様なんて居ないんだから」 珊瑚が言うと、真理に聴こえる。 「あーあ。天使みたいに飛べればいいのに」 こんな地獄から、飛び立ちたい。 その言葉が、やけに虐笑的で。 「飛べるよ」 無花果の呟きに、金の眼を向ける。 「俺と一緒に、この街を出よう」 まるで告白の様なその言葉に、珊瑚は全ての苦しみを表した顔で頷いた。 夜になれば、月が見えた。 酒場から麗しい歌声が聴こえる。 添えられたアコースティックギターが、歌声を更に美しく彩っていた。 小さな港街の一角に酒場は在る。 男はその歌声と美貌から、"緋の天使"と呼ばれていた。 今日も客を虜にし、酒のつまみにさせる。 過去の名を捨てたヒイロとタクミは、そうやって暮らしていた。 何日も、何年も。 二人は、幸せと呼んでよかった。 なのに、地獄は足首を掴んで引き摺り戻す。 ある日、酒場は荒らされた。 ヒイロは買い出しから帰ってきた時、唖然とその場から動けなくなる。 酒場のマスターがカウンター越しに倒れていて、悲鳴をあげた。 駆け寄ると、マスターは、裏へ、と唸る。 嫌な予感の中、ヒイロはカウンター裏から店員室へ駆け込んだ。 最初に感じたのは、血の匂いだった。 そして、倒れている相棒が目に入る。 タクミ、と叫びながら駆け寄った。 タクミは全身が真赤になるほど血を流し、息も絶え絶えだった。 タクミはなんとか瞼を上げ、ヒイロに縋り付く。 逃げろ タクミは小さく、そう呟いた。 ヒイロは服が赤く染まるのも気にせずタクミを抱きしめて、嫌だ、と泣いた。 誰がこんな事をしたのかはすぐわかった。 逃げ出した筈の地獄……マフィアは、足抜けを赦さないから。 物陰に隠れていた黒服の男達がヒイロとタクミを引き離す。 悲鳴を上げても、死にかけの相棒に向けられた銃口を止められなかった。 神様。 その時、緋の天使は初めて神に乞うた。 「俺はどうなってもいい!!神様どうか、タクミを、助けてください!!」 背中が焼き切れる痛みが走った。 周囲が光で満ち、視界が白く染まる。 タクミは、もう目を開けられる事は無いと思っていた。 ぼんやりと視界が戻り、目の前に緋が散らばっているのが見えてくる。 驚いて、顔を上げた。 タクミは、ヒイロ、と叫ぶが、その姿に言葉を失う。 倒れるヒイロの背中には、赤い翼が有った。 呆気に取られて見つめていると、ヒイロの体が突然浮き出す。 咄嗟に手を伸ばすが、届かなかった。 そして、全てを理解する。 このヒトは、本物の天使になったのだ。 この可哀想な不純体を、迎え入れましょう 頭に流れ込んできた言葉は、きっと神様のものだと思えた。 ヒイロは、天界へ迎え入れられる。 この地獄の地上を、抜け出せるんだ。 ああ、やっとか。 やっと、彼は。 それだけで、いいと思えた。 ヒイロの姿は薄くなっていく。 ひらりと、一枚の緋い羽根だけが残った。 それから時が経った。 タクミは、まだ生きている。 あれからマフィアの追手は来なかった。 ただの下っ端に割く人材も勿体無いのはわかる。 それに、確保しておきたいであろう実験体も消えてしまった。 このまま静かに、この港街で生きていけるだけで贅沢だと思った。 首飾りにした、緋色の羽根が護ってくれている。 そう思えるのが、幸せだった。 このまま年老いて、寿命で死ぬ時に。 あの緋色の天使が迎えに来てくれたら、それだけでよかった。 タクミは、その後も生き続けた。 何年も、何十年も。 ──タクミ 懐かしい声が、呼んでいる。 「こんな所で何してるんだよ」 殆ど聴こえない耳が、はっきりと聞き取った。 「……それはこっちのセリフなんだけど」 ぼんやりとした視界も、緋だけは認識する。 「天国は楽しいか」 ベッドに横たわり、しゃがれた声で問うた。 「そんなに楽しくないかも。まああの地獄よりはマシだけどさ」 ばさり、と緋い翼が音を立てる。 「元気そうで良かった」 「タクミは元気じゃないみたいだけど」 「そりゃあ、この歳になればな」 言葉の間に咳こんだ。 それからも思い出話がぽつぽつと、タクミの口から出る。 初めて会った日の事。 鉄砲玉として前線に立ち、瀕死になった無花果を珊瑚が治療してくれた事。 あの日は、三人マフィア送りにした。 あの日は、珊瑚が襲われて無花果が助けた。 あの日は、満月の下で歌った。 あの日は、この港街へ逃げてきた。 あの日は、    あの日は。 緋い天使は、うん、うん、と聞いてくれた。 タクミは語り疲れ、また咳をする。 「そろそろか」 「そろそろだね」 タクミは、皺だらけの手を伸ばした。 それを取る手は、昔みたいに綺麗だった。 迎えに来てくれて、ありがとう。 最後の言葉に、緋の天使は笑った。 タクミはそのまま、天国へと連れて行かれた。
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