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海をみたことがないっていったら、よく笑われたものだった。
都市で働いていたときも、ゴーシェは鷲族なのに? と聞き返されたものだ。生まれつき目が悪くて飛べないということを、説明したこともあったし、面倒になって何も話さなかったこともあった。察しがいい人は、俺が不格好な眼鏡をかけるだけでわかってくれることもあったけど。
それでも都会の方がまだよかった。故郷の村の鷲族は、俺が飛べないことをみんな知ってる。だから俺が生まれてこのかた海を見たことがないのもわかってる。それなのに「海も見たことがないなんて、さすができそこない」ってなことをいって、よくからかってきたものだった。白鳥族もそうだった。俺が海を知らないといったら、馬鹿にしたようにせせら笑ったものだ。
もっとも白鳥族は他の鳥よりずっとお高くとまっている種族だから、深い意味はなかったかもしれない。白い翼を広げて海を渡る彼らは、おなじように白い翼をもつ天人と特別な関係があると信じていて、鷲と鴉を見下してかかる。鴉の連中とはそんな話をするような機会がなかったけど、ひょっとしたら彼らも笑ったかもしれない。
彼らは例外なく、俺のことをゴーシェと短く縮めた名前で呼んだ。俺のことを最初からずっと「ゴーシェナイト」と正しく呼ぶのは、竜人の砧だけだ。その砧は今、俺のすぐ横に座っている。
竜人の砧と知りあったのはもう何年も前のこと。一年に一度、夏のあいだだけ、俺は砧を手伝って働いていた。それから戦争があって、砧にはもう会えないのかもしれないと思っていたら、思いがけない展開があって、俺は砧とずっと一緒にいられることになった。
俺たちはいま、列車で海岸へ向かっているところだ。ゴトゴトと音を立てて走る窓の外で、景色がすばやく流れていく。海辺で過ごす休暇旅行のために、砧は一等の個室をとった。
向かい側には空いた座席があるのに、砧は俺の横に座りたいという。砧は竜人だから大きいし、俺はやせっぽっちの鳥だ。だからきゅうくつってことはないんだけど、砧にくっついているとドキドキする。
こんなにドキドキするのは砧が好きだから? 片思いだって思ってたときはわかる。でも、砧も俺を好きだっていってくれた今もドキドキするのはどうしてなんだろう。
もしかしたらそれは、俺に砧のしるしがついているせいだろうか。
胸の中心にぽつんとあるそれは、花びらか、うろこみたいな形をした小さな痣だ。いまはまだひとつしかないけれど、これが七つになったら、俺は砧の完全なつがいに──竜人の用語だと〈花〉になる。そうなったら、砧はずっと地上に留まることができるのだ。
痣をふやすには砧が俺を抱かなくちゃいけない。一夜抱かれるたびに痣はひとつふえるらしい。俺は早く七つにしたいといったのに、砧は急いじゃいけないという。俺の体に負担になるから、毎晩なんてもってのほかだって。
そのかわり二人だけでしばらく海辺に行って、ゆっくり残りのしるしをつける。砧がそういったから、俺たちはこうして列車に乗っている。
海辺の町までは一日がかりだ。一度、途中の大きな駅ですこし長く停まった。砧と一緒にプラットフォームに下りると、獣の種族がちらちらと俺の方をみた。
このあたりは鷲族はいないんだろうか。それとも、俺の眼鏡のせいかも。俺がいまかけている眼鏡は砧がくれたもので、月人の技術でつくられている。
いや、月といえば──鳥の種族と竜人が一緒なのがめずらしいのかもしれない。狼族と鴉族の対立をきっかけにした戦争は終わったけど、鳥の種族は竜人よりも天人と友好関係にある。といっても、俺は一度も天人に会ったことないんだけど。
プラットフォームには弁当を売っている狐族がいた。
「その弁当をふたつ」
「食後に甘い飲み物、氷を入れた苺ミルクはいかがですか? 苺のシャーベットもありますよ」
ぎっしり氷を詰めた桶をのぞきながら、砧が俺に聞いた。
「シャーベットはどうだ?」
「あ……うん……食べたい……かも」
「じゃ、それもふたつ」
また列車に乗りこんだときは、他の乗客の視線は気にならなくなっていた。砧といっしょだと、ひとりで食べるよりご飯がおいしく感じるのはどうしてなんだろう。苺のシャーベットは淡いピンク色で、口の中でしゃりしゃり溶けた。
列車は森の中を走りぬけ、時々トンネルを通った。お腹がいっぱいになったせいか、俺はだんだん眠くなってきた。砧は俺の横で新聞を読んでいる。
いつのまにか居眠りしていたにちがいない。ガタッと揺さぶられて目を覚ました。窓の外はいちめん緑の畑だった。空と大地のさかいめに、空の色とはちがう青がみえる。太陽が反射してキラキラしている。
「あ……」
砧がむくっと頭を起こした。俺とおなじように居眠りしていたらしい。
「ああ、海が近くなったな」
「海……」
「もうすぐだ」
砧は地図をみせてくれた。この列車の終着点は、海の中に突き出したような半島の港町だ。列車は速度を落とし、小さな集落をいくつか通り過ぎてから、ようやく停まった。
駅に下りたとたん、嗅いだことのない匂いがした。何の匂いだろう? 俺がきょろきょろしていると、砧が「どうしたんだ?」と聞く。
「変わった匂いがする」
「潮の香りだな。海の匂いだ」
それにざわざわと、かすかな音も聞こえる。森を揺らす風の音とも、都会の人間のざわめきともちがう音だ。
駅の外には車が待っていて、荷物運びが砧の大きなトランクを積みこんでいる。うしろの座席に乗りこむと、車は坂道を登りはじめた。
泊まるのは海のそばじゃないんだ。俺はちょっと残念に思ったけど、ふりむいて後部の窓をのぞくと、海は坂の下に青い布みたいに広がっていた。
丘の上のホテルの部屋からは、海と空と、それに港が見下ろせた。桟橋にそって小さな船がたくさん繋がれている。
「あれで近くの島に行けるんだ。ゴーシェナイトは船酔いするか?」と砧がたずねた。
「船酔いって?」
「車や列車に乗って、気持ち悪くなったことは?」
「一度もないよ。そんなことがあるのか?」
「ゴーシェナイトは鳥の種族だからな。それなら島へ渡るという手もある」
「ううん、島はいい」
俺は急いでさえぎった。思い出したのだ。村の連中に、遠出したついでに小島の上を飛び回った、という自慢話を聞いたことを。それに駅からは白鳥族が空を飛んでいるのも見えた。この近くに彼らの棲み処があるのかもしれない。
砧と一緒にいるときは、自分が飛べないことがほとんど気にならないのだけど、他の鷲族や白鳥族がいるところにはあまり行きたくなかった。
「そうか? ……そうだな、俺もまだ……」
砧はじっとこちらをみつめ、そっと手をのばして俺のあごに触れた。
「おまえに海に夢中になってほしくないんだ」
壊れものを扱うときみたいに、そっと触られただけなのに、俺の背中はぞくっとして、どうしたらいいかわからなくなってしまう。乱暴に扱っても俺は大丈夫だって、砧はわかっているくせに。そうっと口づけをされて、優しくゆっくり、背中や腰を撫でられるだけで、俺はもっといろいろしてほしくなるのだ。そう思いながら砧をにらんだら、砧は目尻を嬉しそうにさげた。
「ゴーシェナイト、おまえをベッドへ連れて行きたい」
「当たり前だ!」
ひょっとしたら俺の返事はちょっと恨めしい調子だったかも。でも、寝室で服を脱がされて──自分で脱ごうとしたら止められたのだ──砧に優しく撫でたり舐めたりされるうちに、何もかもどうでもよくなってしまった。背中の醜い傷痕から尻の中まで、砧は俺のすみずみまで長い舌と指でいいようにする。溶けたみたいにトロトロになった俺は、胸の痣を指さしてねだった。
「ねえ、砧、挿れて、これを増やしてよ……」
砧はまだ下着をつけたままだ。でもそこがとっくの昔に大きくなっているのはさっきからわかっている。
「ゴーシェナイト……」
「はやくってばぁ!」
俺は子供みたいにいってしまったけど、その時はそれ以外のことができなかった。砧は覚悟を決めたみたいに俺をみつめ、俺に覆いかぶさった。むきだしになった竜人のアレは二本あって、俺の中に入ってきたのはきっと一本だけなんだけど、やっぱり痛かった。切り裂かれるみたいな痛みをがまんして、ぎゅっとつぶっていた目をひらくと、砧とばっちり視線があった。
「辛いか?」
「大丈夫……なあ、そのうち、よくなるんだろ?」
「ああ……だが……」
「動けよ」
でも砧が動きはじめると、やっぱり痛みはとんでもないことになって、俺は声をあげないでいようとしたけど、たぶん無理だったと思う。というのは、途中で自分でもわからなくなってしまったから。
気がつくと俺をすっぽりシーツにくるまれていて、砧に手当てされていた。部屋の中は黄色い光に照らされていて、窓の外は暗かった。ぐうっと腹が鳴った。
「なあ、腹がへったよ」
思わずそういったら、砧はほっとしたように微笑んだ。
「そうだな。食事を運ばせよう」
ホテルで四回夜をすごして、そのあいだに俺の胸には痣がふたつ増えた。あわせて三つの痣が弧を描いて並んでいる。七つ揃ったら、丸い輪の形になるんだろうか。
俺を抱く夜も、寄り添って眠るだけの夜も、砧はいつも優しかった。昼間は町の名所を見に行ったり、港を散歩したり、路上で演奏されている音楽を聴いたりした。
この町は酒場や路上に音楽家が集まることで有名なのだそうだ。大通りに面したレストランは、昼どきになると店の前にパラソルのついたテーブルを出して、客は外で音楽を聴きながら食事ができる。俺は魚や貝をたくさん食べた。
「そろそろ移動するか」
バルコニーから海をみながら、三つになった胸の痣をそっとさすっていると、砧が部屋から出てきていった。
「海沿いのコテージを借りた。砂浜をひとりじめできるぞ。どうだ?」
「そんなことできるのか? ……行きたい」
砧は車を借りて、俺たちは町で食べ物を仕入れた。魚や貝は目的地の近くで手に入るから、買いこんだのはパンや野菜、それに缶詰のたぐいだ。
海岸は太陽の光でキラキラ輝いていた。海はとほうもなく深い青色で、どこまでも遠くに広がっていた。
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