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午後七時、窓の外からうっすらと破裂音が聞こえた。
薄暗い部屋で机の上のライトを頼りに本を読んでいた僕は、本に栞を挟んでから机に置き、窓の傍まで歩いてカーテンを開けた。
煌々と光っているライトのせいか、窓の外の景色が見えるよりも先に、窓ガラスには自分の姿が映し出される。そこに映った自身の顔は、以前鏡で見たときよりも幾分かマシなものに見えた。顔のパーツはほとんど一緒だったけれど、幼いころから右目を覆うように残っている火傷の跡が、少しだけ薄くなったように感じられた。
幼い頃、父親につけられたその跡は、その下にムカデでも飼っているみたいにぷっくりと膨らんでいる。傷ができたばかりの頃は確か赤く、そこまで目立つ跡ではなかったはずだが、それから数年経った頃から徐々にその色は青黒く、より異質なものに姿を変えていった。
この傷を見るたびに、僕の楽しかった記憶は一つ音もなく消えて、思い出したくもない記憶が繰り返し脳内のシアターで上映される。
気味の悪い跡だと我ながら思う。
どうやら近所で夏祭りが行われているらしい。
カーテンを開けてから数秒後、窓から零れてきた色とりどりの明かりを見て僕はそれを理解する。
何もこの夏祭りが開催されるのは今日が初めてではない。毎年同じような時期にこの街では雑踏が蠢き、花火が上がる。だが、そういった煌びやかなイベントは僕にとってはいささかハードルが高い。そのせいで、いつも花火の音が聞こえるまで夏祭りが開催されることを忘れてしまう。
窓の外から眺めているだけで、その花火は十分と美しかった。むしろ窓枠に切り取られた夜空に浮かんでいるからこそ、その花はまるでブーケに入ったように収まりがよく小綺麗に見えた。
だが、どうしてかそのときの僕はまるで光に吸い寄せられる蛾のように、花火を見ようと家を飛び出そうとしていた。
先ほどまで向き合っていたはずの机の上には、まだ解きかけの参考書と読みかけの本が残っている。けど、僕はそれに目もくれずに、机の隅に置かれていた必要最低限の荷物を持ち、部屋の外に出た。
すぐに階段を駆け下りると、玄関でサンダルを履いて家の外に出ようとする。すぐそばのリビングにいた母親に「夏樹、どこ行くんだい?」と呼び止められたが、僕は「自販機に飲み物を買ってくる」と適当な嘘をついた。
「それなら、すぐ帰ってくるんだね?」
まるで僕の言葉を信じていないような母の声がリビングから聞こえてくる。
「どうだろう」と僕は言う。「最近の自販機はレパトリーが豊富だからさ」
それを聞いて母親は「十一時には返ってきなさいよ」とだけ告げると、もう僕には関心が無くなったみたいだった。
「行ってきます」
そんな言葉だけを残して、僕は家を出る。
きっと変に浮かれていたんだと思う。家を出る際、僕が手にしたのは、携帯端末だけでなく、数枚の小銭が入った財布だった。
一体こんなものを持って何をするつもりだったのだろう、と後になって僕は思った。でもどうやらこのときの僕は自分ひとりでも夏祭りをそれなりに楽しめる気でいたらしいのだ。
夏祭りに来たことを後悔したのは、打ち上げ場所に近づき人ごみに呑まれ始めたころだった。
花火の音が大きくなるにつれて、辺りの人の数も多くなっていった。しかし、それでもまだ数分前までは自由に身動きが取れるくらい混雑はしていなかった。
しかし、大通りに出た辺りでその様子は一変した。交通規制が施された太い道路は流れてくる人で埋め尽くされ、まるで満員電車に乗っているみたいだった。もっとも、満員電車内の人間がその中を右往左往すると言った話を僕は聞いたことはないけれど。
その中で、真に僕の心を痛めていたのは人通りが多く窮屈なことではなかった。それはもっと致命的なもので、けれどもそれには実体がなかった。
僕が本当に恐ろしく思えていたのは、彼らの視線だった。
顔の右半分。そこにすれ違う人間の視線が全て吸収されているような気がしてならなかった。
人に火傷の跡を見られることは慣れているつもりだった。人でごった返す夏祭りを一人で歩けると思ってしまうくらいには、だ。しかし、どうもそれは大きな間違いだったらしい。人が増えれば増えるほど、内にある被害妄想は勢いを増していった。
なんとか自身の手でその傷を隠してみるが、結局のところそれももう手遅れだった。あるはずのない視線は、自分の手なんて簡単に通り抜けてきた。
道を行く大勢の人間の手には、りんご飴や綿あめに、チョコバナナや透明なケースに入った焼きそば、紙コップの上に乗ったかき氷なんかが握られていて、どうやら近くに屋台があるということがなんとなく予想できた。十数分前の自分がそれを聞いたならきっと喜んでいたのだろうけれど、今の僕は屋台を探す気にはどうもなれなかった。
今はただ、この人込みを抜けて落ち着いたところに向かいたかった。
一心不乱に夏祭りの会場を歩き回った。人の少ないところへ向かおうとすればすれほど、人の波に抗って進む必要があり、骨が折れた。それでも永遠と人の波に揉まれているよりはよっぽどマシで、そうしているうちにあたりは人の数が少なくなり始めていた。
一時の喧騒から脱出し、ある程度心の平穏を取り戻し始めたところで、僕はようやく自分がどこかに続く石段を登っている最中だということに気が付いた。
ついさっきまでの人混みがまるで嘘だとでもいうみたいに、そこには人の姿どころか、屋台や道路脇の街灯のように光を発するものすらもなかった。
そこにあったのは闇に上っていく石段と、その脇を取り囲んでいる木、それから背中を照らす花火の光だけだった。
ここまでくればもう安心だ、僕はそう思い石段の上に腰かけた。
息は切れて、身体中汗まみれだった。けれども、僕はそれが夏の暑さのせいだけではないことを知っている。ただ夏のせいであることには変わりはない。僕をここまで苦しめているのは夏の暑さと、もう一つは夏の魔力のせいだ。どうしてこうも夏という季節は人の動きが活発になるのだろうか。
ため息をついて、僕はおもむろに空を見上げる。そして、もう一度息を吸い込むころには自分がため息をついたことを忘れていた。それくらい、そこから見える花火は綺麗だった。きっと、高台に上ったことと、打ち上げ会場から距離が開いたことが起因しているんだろう。石段の下にいるときは見上げることしかできなかった花火は、今は目と鼻の先に見えている。そうやって全体像が見えた花火は妙に迫力があり、その迫力を何か別の言葉で例えることはできないかと思案したが、そうしてしまうとかえってそれが損なわれてしまうように思えた。
その花火を見ていると、僕はどうしてか勝ち誇った気分になれた。何に勝ったように思えたのかと言えば、それは先ほどまで大通りを歩いていた大勢の人間だ。彼らはああやって無駄に人波を作っているだけで、こんなにも綺麗なものが見られていないのだ。そう思うと、僕は彼らがどうしようもない間抜けに見えて仕方なかった。実際、本当に間抜けだったのは僕の方なのに。
だが、僕はそれに気が付かないふりをすることにした。今はただ、僕だけが独占しているこの美しい花火を目に焼き付けることにだけ勤めていた。
そして、僕はこんな考えに至る。どうせなら、もっと高いところでこの花火を見よう。
幸い、石段はまだもう少し上まで続いている。きっと、頂上に行けばさらに美しい花火を見ることができるはずだ。
腰を上げて、石段を登り始める。サンダルで長い時間歩いたせいか、かかとが靴擦れを起こしていたが、今となってはもうそんなことは気にならなかった。
僕はただ、より綺麗なものを見たい一心で石段を上る。
この石段がどこに続いているのかを知ったのはそれから少ししてからだった。真っ暗だった石段の先が、背面に浮かんだ花火の光で薄っすらと明るみに出る。そこには古ぼけた赤色の鳥居があった。
階段を上る足が一瞬だけ止まり、再び動き出す。
そして、僕の足はようやく石段の頂上にまで辿り着く。石段の先にはやはり神社があった。
寂れた神社だった。石造りの参道は所々ひび割れていて、その合間から平べったい草花が顔を出している。参道の脇に立つ灯篭には温かみの一つもなく、ただ花火の光に照らされて境内の中に影を伸ばすだけの置物と化していた。参道の奥に続く拝殿は辛うじて建物の形を保っているが、そこにはとても神様が居座っているようには見えなかった。
きっと人から忘れ去られた悲しい神社なのだろう。僕はそう決めつけて参道のど真ん中を闊歩した。予想通り、正中を歩いたところで、神様と肩がぶつかることはなかった。
しかし、一つだけ予想外なことがあった。神様すらも寄り付かないと思っていたその神社には、一人の先客がいたのだ。
彼女は賽銭箱の影に隠れて見えなかっただけで、ずっと拝殿の階段に腰かけていたようだった。彼女は俯いていたが、僕の足音に気が付いたのか勢いよく顔を上げてこちらを見た。
二人の視線が交差したのを感じる。お互いに、声を上げて驚かなかったことを褒められるべきだろう。
彼女の顔はよく見えなかった。先ほどまでうるさいほど鳴り響いていた花火がその一瞬だけ静まり返り、そのせいで世界からはほんの少しだけ光が消えた。その瞬間が、ちょうど彼女と顔を合わせた瞬間と重なったのだ。
その女性は僕の存在に気が付くと、身体をビクリと振るわせ、そのあとすぐに僕から顔を背けた。僕も僕で、思わぬ先客に一歩だけ後ずさりをしてしまう。もちろん、咄嗟に右手で自分の顔半分を隠したのは言うまでもない。
きっとこの時点で、踵を返して神社を後にしてしまうべきだったのだろう。少なくとも、普段の僕ならそうしたはずだ。
けれども、当時の僕は人込みに酔い、視線に刺され、酷く傷心していたように思う。だからこそ、僕は嬉しかったのかもしれない。こうして人込みから零れ落ちてしまった人間が自分以外にもいるというその事実が。
僕は後ろに進もうとする足を止め、もう一度拝殿の階段に腰かける女性の方を向く。彼女は未だ僕からは顔を左に背けていたが、こちらからでも右側の横顔だけは視認できた。
鼓動を止めていた花火が、もう一度拍動を始める。再び世界には光が戻り、その光は矢となって女性の横顔を照らした。僕はそのとき、彼女の横顔に少し安心したような穏やかな笑みがあったことを見逃さなかった。
彼女と僕は似たようなものを持っている、僕は直感的にそう思った。
僕は彼女にできるだけ警戒されないよう、ゆっくりと足を進める。そして、拝殿の目の前に立つと、彼女からできるだけ距離を取って右隣に座った。こちら側に座れば、きっと彼女から火傷の跡は見えないだろうとふんでいた。
「花火、もっと近くで見なくてもいいんですか?」
僕は彼女のそう問いかけた。思いのほか、言葉はすらすらと続いた。まるで、古くからの友人と話しているみたいに、その言葉が自分の口から零れたことに何一つ違和感が持てなかった。
「それは難しいですね」と言ってから彼女は自嘲気味に笑う。「どうも私のような人間には夏祭りなんて煌びやかなイベントはいささかハードルが高かったみたい」
「同意見です」
僕はそう頷いて、ちょうど彼女と同じように自嘲的に笑った。
「本当は一人で出店を回りながら、花火を見るつもりだったんです」
そう切り出したのは彼女の方だった。僕はそれに適度に見当違いな相槌を打ちながら、彼女の言葉に耳を傾けることにした。
「私、こういうお祭りごとは昔から大好きなんです。幸せに溢れているというんでしょうか、温かみがあるというんでしょうか。まあ、ともかく、こうして人が集まるイベントごとを前にすると気分が上がっちゃうんです」
「なんとなくわかる気がします」
「でも、残念なことに、私の精神はどうも人混みに耐えられるほど強い構造をしていないみたいで、すぐにこうして人気のいないところに逃げてきたんです」
「なるほど」と僕は相槌を打つ。案外、僕らは出会うべくして出会ったのかもしれないなと思った。そのくらい、僕と彼女が考えていることは足並みを揃えていた。
それからしばらく、僕たちは何も言わずにただ花火を見上げていた。そうやって、花火を見ているとちょっとずつ記憶が刺激され、僕は昔のことを思い出した。
そう言えば、前にこんなことがあったような気がする。
花火が呼び起こしたのは、およそ五年前の秋、中学一年年の文化祭が行われた日の記憶だった。
父が付けた僕の火傷の跡は、父が蒸発した跡も呪いのように顔の右半分に残り続けた。
まともな家庭環境ではなかった。父と母は幼いころから僕の目の前で口喧嘩をしていたし、必ず敗北で終わるその喧嘩の鬱憤を晴らすように父は僕に暴力を振るっていた。
身体を殴る蹴るくらいの暴行ならまだかわいいものだった。なにせ、そのくらいなら袖の長い服と丈の長いズボンを履いてさえいれば痣を隠せるからだ。
しかし、時折度が過ぎた暴行を加えられることがある。その暴行で僕は顔の右半分に大きな火傷を負った。原因は父が熱々に熱したフライパンを僕の顔に押し当てたことにある。今思えば、普段は料理なんてしないくせにフライパンを火にかけ出した父を見て、僕は少しくらい警戒をしておくべきだったのかもしれない。
ともあれ、僕は顔の半分を醜い跡で埋めることになった。そして、僕はその傷跡のせいで多少厄介な日常生活を強いられることになる。
周囲からの視線がたまらなく恐ろしくなった。火傷の跡は注目を浴びる。その跡に視線が集まるたび、僕は錆びたアイスディッシャーで肉を抉り取られているような気分になった。
居心地の悪い数年を過ごした。火傷の跡ができたのが六歳の時だったから、およそ六年間、僕はその傷に苦しめられていたことになる。
だが、中学に入学して早々、僕は自身のその跡を一瞬だけに好意的に捉えられるようになる。
その機会を作ってくれたのは中学校のことのクラスメイトだ。進学を期に引っ越しをすることになった僕にとって、それが中学で初めてにして唯一できた友人だった。
「不気味な跡だろう?」
入学初日、僕は自分の顔の右側を差しながら隣の席に座っていた灯花に訊いた。その跡を他人に腫れ物扱いされる前に、自分からそう言いだすべきだと思った。そちらの方が痛みは少なくて済む。
しかし、灯花は意外な返答をしてきた。
「私はその跡、嫌いじゃないけどね」
本心から出た言葉だったのか、僕にはそれがわからなかったし、それを追求するつもりもなかった。ただ、その言葉を貰えたことが嬉しくて、僕は気づいた頃には灯花に好意的な感情を持っていた。
彼女なりの考え方のおかげだったのか、灯花は僕の火傷の跡にそこまで同情していないようだった。むしろ、彼女はそこに傷跡があることをプラスに捉えているようだった。そこに傷があることで君の人間性には磨きがかかっていると思う、そんなことを彼女は言っていた。
変に遠慮のない灯花は僕にとって新鮮な話し相手で、僕としては話しやすいことこの上なかった。だから僕はよそよそしい態度を取る他のクラスメイトよりも長い時間、灯花と話すようになった。
それから数ヶ月が過ぎ、夏休みが明け、入学当初より彼女との距離深まった頃、彼女は僕にロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』を貸してくれた。
その戯曲を僕が読み終え、彼女に返したとき、彼女は少し満足げな顔でこう言った。
「私はその火傷の跡があるからこそ、君が二枚目に見えるんだ」
灯花と数日の間会話を重ねていくうちに、それは灯花の方も同じだということを知った。
「お前、結構肝が据わってるんだな」
ある日、クラスメイトだった男の子にそう言われた。今となっては名前と顔はよく思い出せない。けれども、彼に言われたその言葉だけはよく脳裏にへばりついている。
どういう意味だと問いかけると、彼は言った。
「俺はあんなべっぴんさんとはまともに会話できる自信がないよ」
そう言われて、僕は後日改めて灯花の顔をまじまじと見ていた。確かに彼の言う通り、灯花は一般的な中学生とは比べ物にならないほど美しい容貌をしているようだった。
漆喰を塗ったように艶やかな長髪に、もはや作り物のような澄んだ瞳。身体全体の無駄な肉は全て削り落とされ、飴細工みたいな唇に視線が奪われる。
どうやら、確かに彼女は美人みたいだ。だが、僕はそれを褒める気にはなれなかった。見たところ、彼女はその容姿のせいで、男女どちらからもよそよそしい態度を取られてしまっているらしい。
なるほど、醜すぎる顔というものも考えものだが、美しすぎる顔が確実に優れているというわけではないらしい。当時の僕はそんな風に思っていた。
今思えば、かなり自分は鈍感だったように思える。僕は例のクラスメイトが言っていた言葉の真意をうまくくみ取れていなかった。それだけではない。その頃にはすでに季節が初夏に変わって衣替えはとっくに終わっていたのにも関わらず、彼女がまだ長袖の服をと足首まで伸びる黒いタイツを履いていたことを僕は何一つ問題にしていなかった。数年前、自分が同じことをしていたはずなのに。
ともあれ、相手と一定以上の距離を詰められない僕と灯花は唯一遠慮なく話してくれるという理由で親しくなった。
おかげで僕は、気が付いた頃にはこの火傷の跡を少しだけ好きになっていた。果たしてそれは灯花がこれを悲観的なものとして扱わなくなったからなのか、この跡のおかげで灯花と話すことができるようになったからなのか、それは当時の僕に訊いてみないとわからない。
けれども、僕自身の火傷の跡に対する思いには確実に変化があった。それが全てだった。
少なくとも半年もの間、僕は鏡を見ることを恐れることはなくなった。
しかし、それから半年が流れたとき、僕は再び、いや今以上に火傷の跡を嫌いになる出来事に遭遇する。
事件は十月十五日に起こった。
その日、学校はちょうど文化祭で最高に盛り上がっていた。
夏休みが終わってからの約一か月間、僕たちのクラスは少しずつ文化祭に向けての準備を進めていた。昼休みに会議が開かれ、学級委員長の指揮のもと、出し物と模擬店が徐々に決まっていった。
当然、クラス内では何度か意見の食い違いが起きていた。しかし、それがどこか他人事に思えていたのは僕がまるでクラスになじめていなかったからなのだろう。
「私、焼きそば作ってみたいです」
議論が滞った頃、クラスの誰かがそう言った。確か、彼女はクラスの中で中心的な人物だった気がする。そんな女性にしては、随分と無難な模擬店をやりたがるんだな、と当時の僕は思った記憶がある。
不思議なことに、その子の発言を経て、クラスは焼きそばをやることになった。他にいくつも案は出ていたのに、だ。
なるほど、と僕は中学生ながらに思った。権力があるということはこういうことを言うのだろう。
模擬店の内容が決まってからというもの、僕たちは屋台づくりに奔走した。とはいえ、僕はただ学校祭の当番から回ってきた仕事をしていただけだ。そのときの僕は工場にいたロボットと同じようなものだったかもしれない。違ったことと言えば、僕が定期的に小さなミスを繰り返したことくらいだ。
おかしな話だが、焼きそばをやりたいと高らかに宣言した女の子は屋台づくりの場にはいなかった。僕はそれを初めのうちは不思議に思っていたが、すぐに気にならなくなった。むしろ僕が気になっていたのは、灯花が自分の傍から定期的に姿を消すことだった。しかし、それも彼女が僕のもとに戻ってくるとそのたびに意識の外側に零れ落ちてしまった。
そんなふうにして、文化祭の準備期間は面白いことも奇妙なことも何一つも起こらなかった。それはさながら波の立たないのようで、文化祭当日になるまで、その悪意は水面下に隠れていた。
文化祭当日、思わぬハプニングが起きた。クラスで売った焼きそばが思いのほか、好調な売れ行きを見せたのだ。初めのうちは皆それを喜んでいたようだったが、焼きそばの在庫がなくなり始めるといよいよ喜びが焦りに変わり始めた。
不便なことに、文化祭では家庭科室以外での調理が禁止されている。焼きそばの在庫を失った僕たちは家庭科室でフライパンをコンロにかけながら焼きそばをもう一度作らなければならなかった。
幸い、材料はそれなりに残っていた。文化祭を観客として楽しむ予定が無くなった僕は、特に嫌がることなく調理に参加することにした。初めからそうだったわけではない。ただ、一緒に回って見たかった女の子は学校中どこを探しても見つからなかった。もしかしたら、彼女は初めから文化祭に参加せず、家で眠っていたのかもしれない。
そして、いざ焼きそばを調理し始めると、好調な売れ行きは文化祭が終わるまで続いた。ようやく売れ行きが穏やかになったと思っていると、それはどうやら文化祭の一般公開が終わった合図らしかった。
一般客が続々と帰宅していき、文化祭はこれからゆっくりと生徒たちの手元に戻ってゆく。
わずかな心残りを胸に抱きながら、僕はこのあと控えている後夜祭のことを思い出し、打ちあがる花火をどこで見ようか考えた。
灯花を探すことはもうすでに諦めていた。彼女はもうこの学校祭には来ていないのだと思うことにした。自分以外に文化祭を回る人間がいる、そんな可能性を考えないためにも。
しかし、そうやって嫌な可能性から目を背け続けたつけが回ってきたのだろう。自分が想像していたことよりもずっと嫌な出来事を、僕は目の当たりにすることになる。
一般公開が終了した後、家庭科室にいた生徒たちは皆クラスの教室に戻っていった。それは僕も例外ではなく、それどころかすることもなかった僕は真っすぐ教室に戻り他の生徒が返ってくるのをずっと待っていた。
そして間の悪いことに、クラスメイトがちらほら教室に戻ってきたあたりで、僕は家庭科室に忘れ物をしていることに気が付いた。
灯花から借りていた小説を忘れてきたのだ。
以前灯花に本を借りてからというもの、僕は本を読むことに関心を持つようになった。そして、そのおかげで、灯花から本を借りる機会も増えた。
そのときもちょうど灯花から本を借りたばかりだったから、調理の合間を縫って涼しい家庭科室内で本を読むつもりだった。とはいえ、あまりの忙しさに本を読む機会なんてなかったのだけれども。
どうもその本は家庭科室の机の中に入れたまま、放置されているようだ。制服の内ポケットの中を探してもなかったのだから間違いないだろう。
僕は教室に向かう生徒の波に逆らいながら家庭科室に向かった。ルールに則り、廊下は走らなかった。きっと、それが仇になったんだと思う。
家庭科室の前に立つと、僕が扉を開くよりも前に扉が開いた。もう生徒は全員教室に戻っていると思っていた僕は、扉が開く音に虚を突かれて身体をびくりと震わせた。
いざ家庭科室を出てきた人影を見ると、それはただのクラスメイトだった。けれども、僕はそれに驚いたのは普通では考えられないくらい、その扉が勢いよく開いたからだ。そのくらい、その生徒たちは焦っていた。
中から出てきたのは四名の女子生徒だった。その中には学校祭の間、顔を見せなかった例の女子生徒もいた。彼らは皆同様に不自然な冷や汗をかいていて、気味が悪いほど足取りが速かった。
それでも僕はそれを特に気にすることなく、家庭科室の中に入った。
そして、ようやくそれに気づいた。家庭科室の奥には、手で顔を覆って俯いた灯花の姿があった。
「灯花?」と僕は彼女に声をかける。
彼女は何も答えなかった。けれども、こちらに気が付いたようで、ゆっくりと顔を上げた。
掌に下に何があるかなんて、考えたくなった。けれども、床に落ちていた調理以外の目的に熱されたフライパンを見れば、嫌でもその下にあるものが何か分かった。
灯花は小刻みに震わせながら、顔から手を除ける。
彼女の顔の左側には、目を覆うような大きな火傷の跡ができていた。
彼女は左手で、自分の顔を指した。そして、強がりながら、それでもやはり力なく、笑った。
「これでお揃いになっちゃったね」
笑えない冗談だった。
さて、きっと答え合わせが必要だろう。僕はそう思いながら、鈍感な自分のために状況を整理した。
まず、大前提として僕が理解しないといけないのは、灯花はクラスメイトにいじめられていて、それに僕が感づいていなかったということだ。彼女は僕の知らないところで、僕が普通の人間だと思っていた人から暴行を受けていたということになる。そして、彼らはそれをうまく隠していた。あるいは、それに気が付かないくらい僕が鈍かった。
灯花が夏になっても長袖を着ていたのは、彼らに着けられた痣を隠すためだった。後になって、僕はそれを灯花から聞いた。ちょうど、大事にしまいと長袖長ズボンで虐待の跡を隠していた僕と同じだ。
そして今思ってみると、あの男子生徒が僕に言った言葉は気の利いた皮肉か何かだったのかもしれない。「あんなべっぴんさんとはまともに話せる自信がない」。彼は灯花と話すことを恐れていて、それはつまりいじめに巻き込まれることを恐れていたということでもあるのだろう。
もしそうだとすれば、彼の言い方からしていじめの原因は彼女への嫉妬か何かだろう。案外、傍から見ればくだらない事柄で、人間というのは残酷になれるものだ。
学校祭で花火が上がる中学校というのは、なかなか珍しいように思える。夏祭りの残り物なのか知らないが、僕の中学校では学校祭が終わった夜に十数発の花火が校庭から打ち上がる。当然、夏祭りに比べて規模は限りなく小さいが、それでも生徒たちは挙ってその花火を見上げ歓声を上げる。
中学一年の学校祭で、僕と灯花はその花火を使われていない家庭科室の中で見上げることになった。
僕らは花火の光が伸びる窓際に並ぶ。灯花は僕のちょうど左側に立っていた。お互い、無意識的に火傷の跡を相手から隠そうとしたのだろう。こうして立ってみると、灯花まだ一般的な可愛らしい少女に見えたし、彼女からしても僕は一般的な少年くらいには見えただろう。決してそのトランプはひっくり返してはいけない。表にあるのはきっとババ抜きのジョーカーなのだから。
その日から、いじめが無くなったことを僕は喜ぶべきだったのだろうか。人一倍臆病だったいじめっ子たちは灯花の顔に傷がつくと、大事にしないために息を潜め、再び表に戻ってくることはなかった。
しかし、彼女たちは灯花に消えない傷を残していった。ちょうど、僕の父親と同じように。
家庭科室を出てきた彼女たちの焦りようから、あれはきっとわざとではなかったのだろう。ただの脅しのつもりだった、そう解釈することだってできる。だが、今となってはそんなことどうでもよかった。灯花の顔の左側には決して消えない傷が残った。それだけが事実だった。
そして、その事実は五年が過ぎた今でも自分の火傷の跡を見るたびに思い出される。灯花とは別々の高校に進学し、もう会うことはなくなったのにも関わらずだ。不思議なことに、思い出されるのは自分の辛い過去よりもその記憶だった。
あの日からずっと、僕はこの火傷の跡が嫌いだ。けれどもそれは僕だけに限れば悲劇的な話ではない。何せ、初めから醜い跡だったのだ。一瞬でも好きになれただけでも奇跡のようなものだ。
唐突な記憶のフラッシュバックが幕を閉じ、再び現在という残忍な物語が開演しようとしていた。
例えばもし、ここでこの舞台から途中退出をすることが許されたのなら、僕はそれを選んでいただろうか。
そんなことを考えている暇もなく、夜空には花火が打ち上げられ、鼓膜が揺れるたびに意識がものすごい速さで現実に引き戻される。
左に視線を移せば、そこにはまだ出会ったばかりの女の子の姿があった。
「考え事はまだ続きそうですか?」
彼女に問いかけられ、僕は首を振る。「いや、今やめにしたところだ」
嫌なことを思い出したせいか、ここに来たとき以上に気が滅入ってしまったような気がした。こんな状態では、夏祭りの人混みを突っ切って家に帰ることなど不可能だろう。僕は黙って、その神社で夏祭りが終わるのを待つことにした。この際、母親に設けられた門限などどうでもよかった。
僕は何となく、ポケットの中から財布を取り出した。そして、その中から一枚の五円玉を取り出すと、これまた何となく賽銭箱に向かって投げた。
賽銭箱の裏側から投げられた五円玉は綺麗な放物線を描き、そのまま賽銭箱の中に入るかと思われたが、木の板に弾かれチャリンと金属的な音を立てて参道を転がっていった。
やれやれ、何もかもうまくいかないものだ。僕はため息をついて立ち上がり、転がっていく五円玉を追った。
五円玉は参道の真ん中あたりまで転がっていった。それを拾い上げると、今度はこちら側からお賽銭を入れようと五円玉を構えた。
五円玉を投げる。
その瞬間をよんでいたかのように、花火が上がる。
神社の境内に光が降り、黄金色をした五円玉が光る。
その五円玉の後ろで、見えなかったはずの女性の顔が花火に照らされる。
五円玉に向かっていたはずの僕の視線は、すぐにその女性の顔へと引き寄せられる。
引き寄せられた女性の顔、その左側には、数年前に見たあの火傷の跡があった。
自分以外にその火傷の跡を持っている人物を僕はよく知っている。
五円玉が賽銭箱の中に落ちる音がした。
「……灯花?」
震える声で僕は訊いた。
彼女はスカートを抑えて下着を隠すみたいに、顔に手を当てて火傷の跡を隠した。そして、焦るわけでも否定するわけでもなく、ただ恥ずかしげに笑って「バレちゃった?」と呟いた。
ここで灯花と出会ったことは単なる偶然だったのだろうか。そうだと言われてしまえば納得するしかない。けれども僕は、ここで彼女と再会したことに何かしら運命的なものを感じざるを得ない。
きっと、これは神様が用意してくれた機会なのだと思う。
僕はたぶん、彼女に降りかかっている不幸に気が付かなった代償として、これから彼女のことを幸せにしてあげなければいけなくて、そしてそれはこのチャンスを逃せば二度と実行に移せなくなるのだ。
少なくとも僕はそう思う。
再び花火が上がる。それはまだ、夏祭りが終わっていない印でもあった。
「灯花、下に降りよう」
僕は彼女の方に掌を向けながら言った。
「きっと今からでも遅くない。二人で夏祭りを楽しもう」
この神社の下に本当に幸福があるとは限らない。けれども、ずっと人並みから外れたまま生きなければならないことを、僕は幸福だとはとても思えなかった。
しかし、灯花は僕の誘いに乗らなかった。
「ごめんね。まだちょっと難しいんだ」
当然の返答だった。同じ傷跡を持っているからと言って、その痛みの辛さは平等ではない。彼女はその跡がなければ、人並み以上に美しかった。かつて好意的だったはずの視線が、悪意を持ったものに変わる。その恐ろしさまで、僕は知っているわけではない。
「それなら、何か欲しいものはあるか? なんでもいい。好きなものを言ってくれ。生憎、持ってきたお金は一円も手を付けずにポケットに残っているんだ」
灯花は初めは遠慮していたようだったが、数回の押し問答を経て、僕の提案を受け入れてくれた。
顎に手を当て考える素振りを見せた後、彼女は言った。
「欲しいものはあんまりないかな。でも、やきそばは食べてみたいかも」
僕は頷いて、すぐに神社の石段を下った。
石段の下には耐えがたい苦痛が待っている。それはもちろん、承知の上だった。けれども、あの境内で何もせずにじっとしている方が、僕にとっては苦痛にほかならなかった。
その苦痛から逃れる術を僕はそれくらいしか思いつかなかった。
けれども、僕はとても大事なことを忘れていたように思える。奇跡的に灯花との再会を果たすことができたように、思いがけない出来事はこの世界にいくらでも身を潜めていて、それは決して良いことだけではないということを。
やきそばを買い、すぐに石段を登り直して神社の境内に戻った。灯花の元を目指している間、数名の女性グループとすれ違ったが、夜だったせいか誰なのかは識別できなかった。けれども何となく、知り合いか何かだったような気がした。
そして、神社の境内に戻ったとき、その女たちが何者だったのかを理解した。
僕が神社に戻った頃、灯花は賽銭箱にもたれるように参道に力なく座っていた。服は乱れていて、所々に泥がついている。加えて、髪の毛は先ほどよりもはるかにぼさぼさになっているのがわかった。
どうやら、臆病者が今になって再び表に姿を現したらしい。
それはとてもじゃないが、腹立たしい話に思えた。
「欲しいものが見つかったよ。欲しいものというか、したいことだけどね」
賽銭箱にもたれていた灯花に僕は手を伸ばしたが、その手はすぐに振り払われた。彼女は代わりに不敵な笑みを浮かべてこちらを覗いた。
もう、何もかもどうでもよくなっているのかもしれないな、と僕は思った。彼女の笑みの裏にはそう言った自暴自棄に陥ってしまった人間の感情が埋め込まれているような気がした。
試しに僕は彼女の痛みの強さを考えてみる。誰にも負けない美貌を手にして生まれてきたはずなのに、その美貌のせいで人にいじめられた。そして、その美貌すらも彼女たちの悪意に奪われてしまった。そして、三年が経った今さら、その痛みを忘れようとこの夏祭りに訪れたのに、それすらも許されることはなかった。
僕なんかではとても想像できない痛みだっただろうな、浅はかな自分の頭ではそのくらいのことしか思えなかった。
果たして、今彼女は何を望むのだろう? 人の悪意に揉まれて過ごした彼女の眼には、一体何が映っているのだろう。
「私は」と灯花は口を開く。
「復讐がしたい」
僕はただ「そうか」と答えた。彼女がそう言ったことに少しも違和感が持てなかったからだ。
「手伝ってくれる?」
先ほど僕の手を振り払ったはずの手で、灯花は僕の方に手を差し伸べる。
正しさを建前にするのならば、僕はここで彼女の手を振り払うべきだったのだろう。そのあとで、「復讐は何も生まない」なんて説教じみた言葉を彼女に伝えてあげればいいのだ。
けれども、僕はそうしなかった。僕は「ああ」と頷いて灯花の手を握った。
彼女が復讐を望んでいるのなら、それの手助けをすることは、きっと素晴らしいことなのだろうと僕は思う。
「これを見て」
復讐のあてはあるのか、そう訊いた僕に灯花はそれを見せてくれた。
「ただ殴られて終わったわけじゃないよ」
灯花のその言葉通り、彼女の手にはいじめっ子一人の財布が握られており、その中から一枚の学生証を取り出してこちらに見せてくれた。それを見て、僕は初めて彼女たちが通っている高校を知ることになった。
「へえ、随分と迂闊な奴らだな」
「人は自分が優位に立っていると思ったとき、一番油断するものだからね」
「でも、どうするんだ」と僕は尋ねる。「まさか、その高校に乗り込むわけじゃないだろう?」
「もちろん」と灯花は頷いた。「普通に復讐するだけつまらないわ。復讐にはふさわしい日というものがあるもの」
「なるほど」とそこで僕は彼女が考えていることを理解する。「でも、外部の人間でも日付はわかるのか?」
「安心して。そんなもの、調べれば高校のホームページにいくらでも書いてあるから」
灯花はおもむろにポケットから画面がひび割れた携帯端末を取り出して、インターネットを立ち上げた。そして、検索欄に先ほど見た高校の名前ともう一つのキーワードを入力する。
検索ワードに引っかかったその日付を見て、灯花は笑った。どうしたと画面を見せてもらった僕もその笑みの意味がすぐにわかって、笑ってしまった。
復讐の日程は決まった。あとはどうやってそれを行うかだ。
「どうせなら、あいつらにも同じ目にあってもらいたいな」と灯花は言った。
彼女に言う「同じ目」というのはつまり、相手の顔にも消えない火傷の跡をつけてあげることだろう。
「それなら、あれを使おう」
僕はそう言って真っ暗な夜空を指した。灯花は何もない夜空を見て一瞬不思議そうな顔をしたが、打ちあがった花火を見てすぐに納得してくれたようだった。
「なんだか、面白くなりそうですね」
そう言って笑った灯花は本当に楽しそうで、それを見ているとやはり今から自分のしようとしていることは間違いではないと思った。
「この夏のうちに花火を買い込んでおこう。来るべき日が来たら、僕はそれを君のもとに持っていく。火をつけるのは、もちろん君に任せるよ」
「それはありがたいね」
ある程度の計画は練り終わり、後は全て当日の流れに任せる方針に決まった。意外にも計画を立て終えてもまだ夜空には花火が浮かんでいて、その光が夏はまだ終わっていないことを僕たちに教えてくれた。
せっかくなら、買ってきたものを食べよう。どちらかがそう言ったはずだ。僕らは拝殿に繋がる階段にもう一度腰かけ、僕が買ってきた焼きそばを二人で頬張った。一言で言えば最悪の味だった。冷め切った固い麺はまるで靴紐のようで、ソースは色に味が追い付いていないせいで食品サンプルでも食べている気分だった。何より酷かったのは、忘れようと努めていたはずのあの日を思い出すことだ。僕は焼きそばを口に放り込むたびに、自分の火傷の跡がより色濃くなっていっているような気がしてならなかった。
けれども、それももうすぐ終わる。この復讐が成功した暁には、僕らはようやく祭りという行事ごとを好きになれるのだ。僕はそれがたまらなく待ち遠しい。
最後の花火が打ちあがったのは、ちょうど僕らが焼きそばを食べ終えたあたりのころだった。僕らは何も言わず階段から立ち上がり、石段を下りると夜の街の中に溶けていった。しかしながら、僕と彼女の間には復讐を完遂させる約束がある。その約束で紡がれた意図は夜の街でも解けることはなく、むしろ時間が空くほどより強く絡まっていった。
家に着いた僕は自分の部屋のカレンダーに復讐の日付を赤いペンでマークした。奇しくも、マークした日は十月十五日だった。
その日、僕のカレンダーには自分の高校でもない高校の、文化祭の日がマークされることになった。
「花火、持ってきてくれた?」
例の高校について早々、灯花は僕にそう訊いてきた。こんな日に物騒なことを訊くんだな、なんて思ってしまうのはまだ心の準備ができていないからなのかもしれない。
「ああ」
僕は頷いて、背負っていたリュックの中を灯花に見せた。中には夏場にその辺のスーパーで買えるような花火セットがいくつかと、変装用のサングラスとマスクが入っている。
「たくさん買ったんだね」
「不発だったら嫌だろ?」
「それもそうですね」
復讐の第一段階として、いじめっ子の高校に集まった僕たちは一般客に紛れて高校内を歩き回った。
サングラスとマスクを装着して高校を歩く予定だったが、その二つをつけて灯花の方を見ると彼女にくすくすと笑われた。
「なんだか、犯罪者みたいだよ」
あながち間違いでもないだろ、これからのことを考えると、僕はそう言ってみたくなった。けれども、作戦を実行に移す前に怪しまれてしまっては元も子もない。結局、顔に着けるのはマスクだけにすることにしておいた。
第一の目的はいじめっ子を探すこと。ここに彼女たちがいなければ、僕たちはなんのためにここに来たのかわからないのだ。
始めてくる高校に少し戸惑いながらも、僕と灯花はその目を光らせて高校中を歩き回った。中庭から食堂、体育館が一般開放されており、妙にけばけばとした装飾が施されていた。中庭にはたくさんの出店が並び、体育館では有志によるステージ発表がされており、この日ばかりはここに学び舎らしい姿はどこにもなかった。
まいったな、と僕は人知れず頭を抱えていた。いじめっ子を見つけ出すこと、それが僕の目的だったはずなのに、何故だか今さらになって五年前の心残りを思い出してしまったのだ。
これでは、復讐に集中できない。僕は一旦余計なことを考えることを止めにした。今は、隣にいるこの子が満足するために動けばいい。そう思って、隣を歩く灯花の方を見ると、こちら側からでは火傷の跡を見ることができなかった。
思いのほか、すぐにいじめっ子の姿は見つかった。どうやら、これで僕らの頑張りが無駄足になることはなくなったようだ。都合のいいことに、彼女たちは出店の当番を頼まれているみたいだった。動き回っていないのなら見失う心配はない。
「さて、そうじゃあ」と灯花は言った。「そろそろ復讐を始めましょうか」
「ああ」
僕は彼女と共にその高校の校舎裏に一度姿を消した。
復讐の準備は整った。
いじめっ子が今、この高校にいることは確認できた。そして、リュックにはたくさんの花火がある。これだけあれば、彼女たちの顔に一生消えない火傷の跡をつけることも可能だろう。
用意した花火の先端を千切り、地面に並べる。むき出しになった導火線が、点火されるのを今か今かと待ちわびている。灯花はそんな花火たちに火をつけたくてたまらないのか、先ほどからオイルがたんまり詰まったライターを点火させて遊んでいる。
あとはこの校舎裏に、彼女たちを呼び出せば復讐は実行に移される。呼び出すのはきっとそこまで難しくはない。灯花の存在を仄めかせば、彼女たちは簡単にこちらに顔を見せてくれるだろう。
「さあ、始めよう?」
灯花が僕にそう問いかける。
ここで僕が頷けば、計画は実行に移される。
そう、簡単な話だ。灯花の満足させるためには、復讐を果たすのが最も効果的で、僕自身もそれを望んでいる。
だが、僕はまだあのここ残りを忘れられない。
「一つ、提案があるんだ」と僕は言う。灯花は訝しげな顔をしてこちらを向いた。「もっといい復讐を思いついた」
「もっといい方法?」
「僕は連中が一番見たくないものを、奴らに見せることができる」
「それは?」と灯花は訊いた。
「君の幸福さ」と僕は返した。
しばらく考える時間があった。灯花は顎に手を当てて首を傾げ、僕はそれを見守ってただ良い返事が返ってくるのを待った。
「それは、確かにいい案だね」
彼女はそう頷いて、手に持っていたライターをその場に捨てた。
そのあと、僕らは他校の文化祭を部外者なりに最後まで楽しんだ。出店を回り、体育館で行われたステージ発表を鑑賞し、食堂で昼食を取った。
出店を回っているとき、あの連中がいる出店にも立ち寄ったが、僕らは特に彼らに話しかけることはなかった。あえて他人のふりをすることで、こちらは君たちを認識するほど退屈ではなく、自らの幸せを浪費するのに忙しいのだ、そう彼らに伝えてやりたかった。あるいは、もしかしたら本当に、僕らは彼らのことなんてすっかり忘れていたのかもしれない。
少なくとも文化祭が終わるその瞬間まで、僕と灯花があの連中の話をすることは一度もなかった。
文化祭の最後に花火が上がることはなかったが、生憎買い込んでいた大量の花火がリュックの中に残っていた。文化祭が終わってから、ホームセンターに立ち寄りバケツを買った。そして、辺りが暗くなるのを待って近場の公園に行き、ライターで花火に火をつけた。色とりどりの火花が散ると共に夏の残り香が周囲に立ち込め始めた。
久しぶりの花火で羽目を外しすぎたせいか、たくさんあった花火はすぐになくなってしまった。
僕と灯花は水を張ったバケツの上で最後に残った線香花火に火をつける。線香花火は爆弾のようにしばらく火花を散らした後、バケツの中に落ちてジュッという音を立てた。真っ暗になったバケツの中に、月明かりに照らされた僕と灯花の顔が映る。
心なしか、顔についていた火傷の跡が薄くなった気がした。
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