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3
赤い羽根事件の凄惨な内容についてはいまさら触れるまでもないとおもう。
あれは天使になった一人の人間が深く悩んだあげく犯してしまった罪で、もちろん到底許されることではないけれど、かといってわたしたちが好き勝手に憶測を張り巡らして話題にすることでもないとおもう。
事件の抱えている真の問題は、一人の天使の過ちを、すべての翼が生えた人々に当てはめようとする安直な空気だ。
天使のさらなる症状としてウワサされていたのは、人格の凶暴化だった。なぜそんなことになるかというと、身体の一部が動物化しているのだから、脳みそだってそのうち動物になるに違いないって理由らしい。別に科学的な根拠とかあるわけじゃないし、色んな機関の色んな頭いい人たちがきちんと否定しているってのが事実なんだけど。
でも一部の頭のかたい人たちはそんなのおかまいなしに、それみたことかって感じで天使な人たちに嫌がらせをしはじめた。そういう人はどこか遠くにいる人たちばかりかとおもっていたらそうじゃなく、高校の同級生のなかにもいたし、なんと教師のなかにもいた。こうなるとアキノにとって学校は心地よい場所とはいえない。けど、アキノは毎朝「おはよー」ってやってきて、ホームルームのチャイムとともに消えた。そして気まぐれに、放課後の校庭へぽつんと現れたりもした。
「なんで天使になんかなっちゃったのかなあ」
ある日の放課後、アキノはどういう心境か高鉄棒にぶら下がって言った。左耳に黒いピアスが一つ増えていた。
「みんなおもいこみにとらわれてるだけだよ。中南米の隕石が自分たちとこんなに関係してくるなんてありえないから、無理矢理つじつまあわせがしたいだけなんだよ」
なんて、わたしが言ってるそばから、何人かの教師と生徒が群れてつかつか歩いてきた。
「やば」と、アキノはぶら下がった身体で何度か反動をつけて、少し前方の地面に降りたった。ゆるいアーチを描いたアキノの身体は、お腹の方にめいっぱい夕日を浴びていた。背中で陰になりながらこじんまりと飛びだしている天使の翼は、見間違いじゃなければパタパタ羽ばたいていたとおもう。アキノが振り向いた。
「わたし、逃げるわ」
「え、なんで。あんなヤツら気にすることないじゃん」
「気にするって。それに、周りにも迷惑かかるし」
「そんなのアキノが気にするなんておかしいじゃん」
「まあわたし、ここんとこ授業出てなかったし。元々怒られる要素は満載だから。ミフユはわたしのこと聞かれたら、よくわかんないって言っといて。んじゃ!」
そう言い残し、アキノはしゅたたたたっと校門へ走り去っていった。社会科の教師があわてて駆け寄って捕まえようとしても、アキノは平気ですり抜けた。一連の身のこなしがさすがだね。あなたがずっと昔、わたしにとっての天使だったことをすこし思い出しちゃったよ。
そうそう、感傷に浸ってる場合でもなかったんだ。わたしは受験生でした。
アキノは学校との攻防を激化させていく一方で、やっぱり毎朝「おはよー」ってやってくる。そうこうしているうちに夏休みがやってきて、わたしたちはしばらく会わなくなった。
「光陰○の如し」の穴埋めを「矢」で解いたりしながら、夏休みは終わった。いくつか受けた模試の結果は微妙な合格判定を導きだしたけど、かといってどこにも逃げ場なんてないんだって実感がどんどん深まっていった。
夏休みが明けてもアキノは「おはよー」って言ってすぐにどこかへ消えてしまう。わたしの頭の中がイスラム王朝の変遷とかでいよいよ忙しすぎたこともあって、もうなんか幻のような印象で。でも時々机の脚のあたりに抜け落ちた羽根があって、やっぱりアキノはいたんだよなーってしみじみしながら英単語帳を開いたり古文の活用をぶつぶつ唱えたりしてたら、短い秋もとっくに終わっていた。文化祭などの学校行事にも身が入らなかった。この世界はわたしの脳みその妄想じゃないかっていうかなり危うい追い込まれようのなか、冬休みすら近づいてきた。重大ニュースが世界を駆け巡って揺さぶった。
「天使の新たに判明した症状として、細胞の再活性化が顕著にみられます。つまり、天使を罹患した人はその時点から歳をとりづらくなるのです」
これはWHOとか、なんとか研究機関とか、そのほかにも色々な真面目な人たちの共通見解だった。
「なんか、わたしって歳とらないらしいよ」
その年の二番目に寒い朝、教室に入ってきたアキノは言った。
「いや、ちょっとはとるんだって。でもそのちょっとがちょっとすぎてほとんどとってない感じらしい、って、つまりそれってどゆこと?」
アキノは笑っていた。本当はどうおもっているのかなんてわたしには聞く権利がない。そう感じて黙っていたら、例のハルタ君が教室までやってきて、アキノをさらっていっちゃった。おそろいの翼をパタつかせながらさ。
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