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猫になっても、愛してるよ
出張から戻ると、猫がいた。
艶やかな毛並みに黒くしなやかな体躯。猫に詳しくはないが、単純に美しい。見覚えは全くないが。
「えっと……ただいま?」
にゃーと鳴くでもなく、玄関にいる俺をチラッと見上げ、逃げることなくゆっくり奥へ歩いていく。黒く長い尻尾を見つめていると、リビングへ続くドアの隙間へと消えていった。
「まぼろしじゃないよな」
お酒を飲んだ後なら、酔っ払っているのかと思うが、今日は一滴も飲んでいない。乗る予定だった新幹線を変更し、急いで帰ってきたくらいだ。それくらい早く会いたかった、のに。
――ごめん。今日、残業になった。
最寄り駅に着いたところで入ったメッセージに、抑えていた疲れがどっと肩に来た。
がっくりしながら部屋にたどり着けば、なぜか室内は明るい。もしや俺を驚かせようとしているのか? とわずかな期待が生まれたところで先ほどの猫と目が合った。
「ただいまー」
とりあえず、もう一度声をかけてみる。「おかえり」と返ってくるのを待つが返事はない。やっぱり帰ってないのか。
はあ、とため息と一緒に手にしたままだった荷物を下ろす。革靴を脱ぎ、廊下の冷たさを靴下越しに感じ取る。そういえば、さっきの猫の足、靴下みたいだったな。全体的には黒いのに足先だけが白かった。
「てか、なんで、猫が」
ここは十階なので勝手に入り込んだとは考えにくい。家を出たときにはいなかったので、不在にした二週間の間に何かあったのだろう。となれば、犯人は櫂しかいない。
二週間ぶりに会えると楽しみにしていた顔を浮かべる。きゅっと小さく唇を尖らせ、色素の薄い瞳で見上げてくる、なかなか笑ってはくれない、だからこそ愛おしい恋人の顔を。
「そういえば、猫に似てるかも」
ふっと胸の奥が温かく緩んだところで、ドアを大きく開ける。煌々と明るいリビング。猫は奥のソファで丸まっていた。テレビに向かって右側、いつも櫂が座る方に。
「なんか、馴染んでるな」
人懐っこいわけではないが初対面である俺を警戒していない。マイペースで自然体。そういえば、初めてここに来た櫂も自分の部屋かと思うくらいくつろいでいた。警戒心なんてまるでなく、ソファでうたた寝までしていた。まるっきり意識されていない。これは脈なしか、と思ったけど。
「なんでだろ、すごい落ち着く」と眠気の混じる声で言われ、きゅっと心臓が鳴ってしまった。いつものツンと尖った空気がない、どこかぼんやりとした表情が可愛くて、なんかもうダメだった。
「部屋まで来たのだから」と多少強引にもっていくことも考えていたのに、手を伸ばすことすらできない。櫂とは「いまだけ」の関係になりたくなかった。
ふう、と息を吐き出し、そっとソファに近づく。ピクッと黒い耳が動き、薄目でこちらを確かめる。ソファで寝落ちたときの、寝たフリを続ける櫂にそっくりだ。ベッドまで運んでもらおうという魂胆が見え見えの。
そっと丸まった体に触れる。抵抗はされない。柔らかな毛を撫で、手のひらで体温を感じ取る。
「ペットって飼い主に似るんだっけ」
ゆっくりと手を動かせば、たった二週間で? と疑問が湧く。そもそも猫を飼い始めたなんて聞いていないし、相談すらされていない。ここってペット飼えるんだっけ? 飼えなかったら引っ越すのか? ひとりで飼うとか言わないよな。そこまで考えたところで胸の奥が冷たくなる。
「俺と別れる口実を作ろうとしてるわけじゃないよな」
まさかな、と乾いた笑いが落ちる。室内はとても静かだ。櫂は口数が多いほうではないが、いるのといないのとでは全然違う。自分の部屋なのに落ち着かない。ここはもうふたりの部屋になったのだとわかり、急に寂しさが湧いてくる。
空いている方の手でスマートフォンを取り出せば、時刻は午後八時になろうとしていた。追加のメッセージはない。まだ終わらないのだろうか。ずるずると背もたれと丸い背の間に体を倒す。
「お前が櫂だったら、よかったのに」
ぽつりとこぼせば「にゃー」と声が答える。
目の前にいる猫が櫂だったら。どこかのお伽話のように姿を変えられていたら。
猫は逃げることなくじっと見つめてくる。言葉が通じないばかりか人間ですらない。それでも中身が愛しい恋人だとしたら。きっと、俺は……。
「猫になっても、愛してるよ」
「なに言ってんの?」
鮮やかに返ってきた言葉に、ぱっと意識が戻る。横になった視界にはネクタイを緩める櫂がいた。
「変な夢でも見た?」
きゅっと小さく寄った眉。ツンと尖った唇。見上げるのではなく見下ろされているけれど、早く見たいと願った顔だ。
「いや、夢じゃなくて」
体を起こし見回すが、それらしき姿はどこにもない。廊下に出てしまったのだろうか。
「黒くてさ、足だけ白い猫。飼い始めたんだろ?」
なんの相談もなかったけど。
「俺とふたりで飼うってことでいいんだよな?」
そうだと言ってくれれば、勝手に決めたことを怒るつもりはない。頷くだけでいい。否定さえしなければ、別れる口実でなければ、それで。
「違うけど」
あっさりと否定され、すぐには反応できない。ふたりで飼うつもりはないってことは、ひとりで飼うってことで、それは、つまり……。
「俺と別れたいってこと?」
「は?」
「俺と一緒に飼うつもりじゃないってことは、ここを出ていくってことだろ」
会えるのを楽しみにしていたのに。早く会いたくて仕方がなかったのに。どうして別れ話をしないといけないのか。胸の奥が苦しい。二週間分の疲れ以上に体が強張る。
「秋彦はさ」
久しぶりに呼ばれた名前に、きゅっと心臓が鳴る。正面からソファの背もたれへと両手を伸ばされ、閉じ込められる。間近に迫った顔に、光が遮られた。
「別れたいの?」
「そんなわけないだろ。俺は……」
続きは音にならなかった。押し潰すように塞がれ、言葉ごと吸いつかれる。一瞬にして濃くなった香り。注ぎ込まれる体温。引き摺り出されるように熱が溢れ、何も考えられなくなる。
言葉を挟む余裕もなく、目の前にある体を抱き寄せる。ずっと求めていた。ずっと触れたかった。別れることなんてできない。溢れる想いに突き動かされ、もっと、とシャツの裾へ手を伸ばしたとき。
ガチャン、と何かがぶつかる音が響いた。
えっ、と思わず顔を離して振り返れば、ダイニングテーブルの上に猫がいた。
「あ、あの猫」
「ヒヨリ! テーブルは乗っちゃダメだろ」
なんの余韻もなく離れられ、空っぽになった腕が寂しくなる。気づけば立ち上がった櫂を追いかけていた。
「ヒヨリっていうの? その猫」
「そう。本当は昨日までだったんだけど、もう一日預かってほしいって言われて」
「会社のひと?」
「そう」
「櫂がそういうの引き受けるの珍しくない?」
ん、と僅かに言葉に詰まったので、後ろから抱き締めてみる。薄い肩越しに視線を向ければ、テーブルの上にはお皿が並んでいた。
「えっ、待って、どうしたの? これ」
「べつに……ちょっと作っておいただけだろ」
「いや、ちょっとってレベルじゃないだろ。めっちゃ時間かかったんじゃないの」
だって料理苦手じゃん、と続ければ、櫂の唇がきゅっと尖る。目を合わせないようにしているけれど、腕の中から逃げようとはしない。ああ、やっぱりダメだ。手放すことなんて絶対にできない。
「俺のため?」
耳に直接落とせば、びくっと震えたのが伝わってくる。
「猫引き受けちゃうくらい、寂しかった?」
結ばれたままの唇から言葉はない。けれど、寄せられた眉が、睨み上げる視線が、流れ込む体温がすべてを伝えていた。
せっかく作ってくれたのだから、と思うのに、腕を離すことができない。空腹を訴えるのは、体か心か。いや、どちらであっても一番食べたいものは同じだ。先ほどの熱はまだ消えていない。小さなきっかけで簡単に溢れ出す。それはきっと互いに同じで……。
結ばれた視線が距離をなくしていき、
「にゃー」
あと少しで触れ合う、というところで鳴き声が割り込んだ。
「あっ、ごはんか」
抜け出そうとした体をぎゅっと閉じ込める。
「ちょっと」
「ヤダ」
「ヤダって……子どもかよ」
ふっ、と抱きしめていた体から力が抜ける。笑っているのが震えで伝わってくる。子どもでいい。笑われても構わない。そんなの、溢れ出る愛おしさの前にはなんでもない。
「じゃあ、いま待ってくれたら、なんでもひとつお願い聞いてやるから」
いやだ、と首を振るつもりが「なんでも」という響きに止まってしまう。その隙を逃さず、櫂は俺の腕から逃げた。
「ごはんあげるからな」
ヒヨリに話しかけながら、ごはんを準備する背中を見つめる。黒く艶やかな髪。細い体に沿う白いシャツ。なんでも。なんでも、ひとつだけ。それはどんなものでもいいのだろうか。
「最後の……」
「ん? なんか言った?」
「いや、なんでもないよ」
不思議そうな顔に笑って答える。
まずはこのご馳走を食べよう。ふたりで一緒に。お願いを伝えるのはあとでいい。
小さなふたつの目がじっと俺を見上げてくる。寝室のドアはちゃんと閉めておかなくては。彼女に聞かれないように。いや、邪魔されないように。
――俺を最後の恋人にして。
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