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第2話:首都の夜(9)
「ボクの名前は、ハンナ=アルヌール。リワース公国から来た。ハンナって呼んでくれ」
ポニーテールの少女の少女が立ち上がり、ちょっと気取って、スカートの両端を摘まみ上げ、軽く膝を曲げて一礼した。
言葉遣いはちょっと乱暴だが、礼の動作は作法にかない、優雅だった。
(なるほど……。武芸の嗜がある方だとは思っていたけれど、勇猛で知られるリワース公国の公女だったのね)
ナターリヤは心の中で頷いていた。
先ほどパンケーキを焼いていた時、ナターリヤは、ただ慣れぬお菓子作りに悪戦苦闘していただけではなかった。ハンナの掌に、公女らしからぬ剣だこができているのに気づいていたのだ。
(あれは、毎日剣を握って鍛錬する者に与えられる勲章のようなもの)
ナターリヤは自分の掌にもある同じものを、そっと指で撫でた。
ハンナもドレス姿だが、その上に丈の短い、なめし革のチョッキを羽織っている。そのチョッキの前がきゅっと紐で結ばれているために、まるで薄い鎧を身にまとっているような精悍な印象を与える。ただ、その地味なチョッキに――おそらくハンナが自分で付けたのだろう――紺の小さなリボンが揺れているところが、やはり女の子らしかった。
ハンナの胸のリボンを、微笑ましい思いで見つめながら、ナターリヤが立ち上がった。
「わたしは、ナターリヤ=シュベルハルツ。クオニア公国から来ました。ナターリヤと呼んでください。」
ナターリヤも作法通り挨拶をする。
再び着席したナターリヤとハンナが、視線を長テーブルの隅に向ける。
流れとしては、青いつば広帽子のピンクの髪の少女が自己紹介をする番である。
しかし、あんな小さい身体のいったいどこへ入るのか、少女は自分の皿に勝手に載せたパンケーキをパクパクと食べ続けていて、二人の方を見ようともしない。
「キミも、名乗るべきではないか」
ついに我慢できなくなったらしく、ハンナが少女に向かって言った。声には自ずと相手を非難する響きが混じった。
しかし、相手は平然とした様子でパンケーキを完食し、更にホット・ココアに口をつける。
このホット・ココアは、パンケーキを焼き上げた後、ナターリヤが鍋で沸かして、三人分のカップに入れたものだ。
そう言えば、この少女は、ナターリヤが笑顔でカップを差し出しても、軽く頷いただけで、礼も言わなかった。
ココアを飲み干し、ようやく満足したような小さい吐息を一つつくと、少女はやっと二人の存在に気づいたように、そちらに眼を向けた。
「ジェジェット=コワレ。トリエーナ公国から参った」
「トリエーナ公国のジェジェット公女ですって?!じゃあ、あなたがあの〝泉の聖女〟なの?」
ナターリヤが驚きの眼を瞠る。
「それは人々が勝手に付けた呼び名。わたしの与り知るところではない」
「な、なんだ?こいつ、有名なやつなのか?」
ハンナが、ナターリヤとジェジェットの間に視線を彷徨わせる。
「〝ゼフィロンの戦〟のことは聞いていない?」ナターリヤがハンナに訊ねる。
「トリエーナ公国と異教徒の戦だろう?もちろん、知ってるさ。――あっ!」ハンナが思わず眼を丸くする。あの戦の時、トリエーナ公国に敵味方の区別なく、聖水の力で負傷兵を治療した聖女がいたと聞いた。それに感動して、異教徒はトリエーナ公国から撤退したと……。お前があの聖女なのか?」
「そんなご大層な者ではないよ」そう言って、ジェジェットはうーんと伸びをすると、子猫のようなあくびを洩らしながら立ち上がった。
ただ、あまりに背が低いので、立ち上がってもナターリヤとハンナの位置からは、テーブルの上に帽子が浮いて、それが戸口の方へ移動しているようにしか見えない。
「今宵の貢ぎ物は美味であった。礼を申す」
帽子が軽く揺れて、廊下の闇に消えていった。
ナターリヤとハンナは無言で顔を見合わせた。
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