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「汐宮先生、本気なのね」
「……」
本気、か……。
永真先生の本心はわからない。
あの人は優しい人だ。それは出会った時からわかっていたこと。
昨日も私たち家族全員にとてもよくしてくれた。
でもそれは偽装関係だからなのでは、とも思う。
この関係はいつか解除できるからだ。
本気でお付き合いしていたら、やっぱり私の置かれている環境は重いと思う。社会復帰出来ているとはいえ、日常生活における介護は一生続くのだから。
永真先生への気持ちを認めた今、この関係をどう発展させればいいのかわからないのはそこが問題なのだ。
冷静になって考えてみれば、誰を好きになったとしても、全く上手くいく気がしない。
むしろ今、この偽装関係の間だけでも、夢を見ていられるのなら、それでいいかもと思ってしまう。
刹那的だけど、深入りすれば後で自分自身が苦しむのは目に見えているから……。
「あっ! 明日、お茶当番じゃない」
突然菜々ちゃんが予定表を見ながら言った。
そうだ、私たちは今仕事中。
そろそろ脱線していないで仕事に戻らないとね。
「お茶当番? ってなに?」
「黒川先生は院内感染予防会議のメンバーなの。
他にも公衆衛生会議とか、院内にはいろいろな会議があるんだけど、それぞれに教授が割り振りされているの。
黒川先生の入ってる感染予防は、偶数月の第一火曜日の午後で、明日なのよ」
なるほど。教授も色々とお仕事があるのね。
「会議に入っている教授の科でお茶当番が回ってくるんだけど、うっかりしてた、今回は脳外だったわ」
「それってどうするの?」
「お茶菓子を準備して、時間になったらお茶と共に出す。ただそれだけなんだけど、色々と好みがあって……」
さも大変そうな顔をして、菜々ちゃんが医局秘書マニュアルファイルを取り出した。
この中には、歴代の秘書さんから引き継いだ知識が詰まっている。中身をアップデートしていくのは現役秘書の役目らしい。
「ここ見て。それぞれの科の教授の好みが書いてあるから」
田村教授(消化器内科)
チョコレート系ならなんでも。コーヒーは濃いめのブラック。和菓子の場合はつぶ餡を避け、こし餡にすること。和菓子でもブラックコーヒーを好む。
原田教授(泌尿器科)
フルーツ大好き。特にフルーツがたくさんのったタルトを好む。合わせるのはアッサムティー一択。ミルクは冷たい牛乳を添えること。和菓子は好まないが、わらび餅のみ可。その場合はアッサムをアイスティーにすること。
秦教授(産婦人科)
オレンジ、ヨモギアレルギーあり。
洋菓子和菓子好き嫌いはないが、購入前に必ずアレルギー素材が入っていないか確認すること。飲み物は冬でもアイスコーヒー一択。
「な、なにこれ……」
「全ての教授のデータがここにあるの。
各科の秘書さんとデータを共有していて、教授が変わると書き換えるのよ。
ちなみにうちは黒川先生が就任したところだから、就任直後に各科へ回って、秘書同士のデータ交換と挨拶は済ませている」
「……」
それは大変すぎる。こんな細かやかな要望を聞かなければいけないものなの?
私の顔にはその疑問が分かりやすく出ていたのだろう。
「ここまでやる? て思うよね。
でもこれってご褒美みたいなものなのよ」
「ご褒美?」
「そう。面倒な会議に何とか来てもらうためのご褒美……というかぶっちゃけエサだよね。
こういう会議って、マンションの理事会みたいなもので、教授も回り持で担当させられるのよ。
正直なところ医療とは関係ないし、面倒なだけ。
それでもなんとか会議室に足を運んでもらわないと、会が成り立たないわけよ」
「それで好きな物で釣るってこと?」
「そ。年配の教授の中には、ご家庭でスイーツに制限をかけられている先生も少なくないの。体のことを考えてね。
会議に出たら、誰にも文句が言われず、スイーツをゲットできる。それも自分好みの。
それならみんな喜んで出席するじゃない?」
「なるほど……。お、奥が深いのね……」
あの手この手で穴蔵から引っ張り出すってことか。
そう考えると、お偉い教授方がなんだか可愛く見える。
前に聞いたワガママ無茶ぶりって、こういうこと??
「というわけで、明日は大忙しよ。
10時になったら買い出しね。
電話番は実験室にいる大学院生に頼みましょう」
◇ ◇ ◇
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