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5.王城とフィス
魔導士と魔法使いでは何が違うのか。
魔導士は高度な魔法理論を学び、複雑な魔法を使いこなす専門家であり、一方、魔法使いは日常生活に役立つ基本的な魔法を習得する者たちである。
騎士科出身のラウヴァルトは、魔力は高いが魔法はあまり得意ではない。魔力の流れや魔法の有無も、意識して魔法を使おうとしないとなかなか見分けられなかった。
学院で学べることはあくまで学生のうちに学ぶことであり、こうして騎士団や魔導士隊に入ってから学ぶこととは、隣家との塀と王城を取り囲む壁とほどの差があると、つくづく身に染みている。
見た目は貴公子だが、ルクスの方がより繊細で魔法についても長けているくらいだ。騎士として、己は、脳筋なのだと自覚をしている。
兵舎にむかって茶器を運んでいたラウヴァルトは、我に返って足を止めた。どこかで、隠滅されたりしないように保護魔法をかけるのを忘れていたと気づいたからだ。
クロスをめくって、保護魔法をかけなければと苦手な魔法をかけようとして手を止める。茶器の隙間に小さな紙切れが見えた。
『保護魔法はかけております』
騎士であり礼儀正しい紳士だと言われるラウヴァルトは、周りに人がいないことをいいことに、堂々と舌打ちした。後輩に先回りされるとは思っていなかったからだ。
そして、自分自身にも苛立ちは向かう。
「見習い魔導士の方が正確な判断をするとは、少し情けない……か」
ラウヴァルトは茶器の様子を見たとき、まずは運んだメイドを疑った。体調を崩したというメイドを捕まえて、知らせてきたメイドも共に連れて取り調べに向かうかと思ったくらいだ。
逃げないように、脅しの意味も込めて、名前を呼び、あえて他のメイドたちがいるところで会話した。
疑わしい者への見せしめとして必要な手段である。
あとは、うっかりと混乱の薬を混ぜられた従者がどこの者だったのか調べればいい。
日頃、魔獣ばかり相手にしていると揶揄される、第四騎士団の手柄である。
だが、あの短時間で探知魔法を使った上で保護魔法をかける用意周到さは、見習いゆえだろうか。初心に返って、先入観なしで調べるべきだと後輩から言われているような気がした。
「確かに、な。簡単に片づけるのがいいわけじゃない」
これを手柄にしても第四騎士団としては大きなものではない。それよりも、騎士として正しくある方がいい。そのうえ、事を荒立てず、被害に遭った家の者の力になる方がよい場合もある。
この方が、貴族らしい考え方であり、王城での振る舞いとしてもいいはずだ。
子爵家の出であり、次男とはいえ、一通りの教育も受けてきたにもかかわらず、少々、いや、随分と気が抜けていたと言わざるを得ない。気にかけている後輩と一緒という事もあって、少々、いや、だいぶ恰好をつけることに意識が向いていたようだ。
我ながら、情けない。
徐々に苦笑いが浮かんできたラウヴァルトは、白いクロスを元に戻してしっかりとした足取りを兵舎に向けた。
こうした出来事の場合、隊長に報告を上げる。もちろん、討伐などで遠征している場合は、遠征隊の隊長に報告することになるが、今は王城勤務だ。
フィスが足を向けたように、騎士団の隊長室はそれほど敷居が高い部屋ではない。当然、高位貴族だけに敬意をもって、接することに変わりはないが報告があれば誰でもそのドアを叩く。
護衛騎士のいない部屋の前で返事を待ってから、扉を開けた。
隊長の姿がないかわりに、カーライルが書類に目を通していた。執務用の机の前に立つと、すぐそばに控えているカーライルの従者に軽く頭を下げた。
従者が無言で部屋の隅に置いてあったワゴンをカーライルの傍に持ってきてくれたからだ。
「報告か?」
「はい。副隊長。まずはこれを」
ワゴンの上に、クロスに包んだ茶器を広げる。保護魔法のおかげで匂いもないが、色の変わった茶器を目にすると思わず眉間にしわが寄る。
「先ほど会議場から下げてきた茶器です。フィスと共に確認したところ、混乱の薬が含まれていることが分かりました」
カーライルの目が一瞬、細くなったが、すぐに続きを促した。
「詳細を」
「はい。フィスと私の交代の際に、会議場担当の上級メイド、テリア・フォスタ嬢により検分を求められ同行。メイドの支度部屋においてラウヴァルト・レンショルツ、フィス・クローニ両者で確認致しました」
テリアに呼ばれてからの出来事を順を追って報告を始める。隊長室に到着する前に、ぶれていた自分を立て直しできたのがよかった。
テリア・フォスタに呼ばれてから見聞きしたこと全てが報告対象だ。
会議場担当メイドのリリア・ベルナールが従者控室から茶器を下げてきたこと、色の変わった茶器に驚いて気分を悪くしたらしいこと、その場でフィスが調査した結果、混乱の薬を発見したこと。
報告を聞いていたカーライルは、表情を変えることなく、話が終わるまで待ってから頷いた。
ラウヴァルトがあえて口にしなくても、今日、登城していて会議場に姿を見せていたのは誰なのか、報告を受けている。
その上で、関係しそうな人物について、いくつか思い当たるわけだが、それを口にすることはなかった。
「承知した。メイドたちには他言無用と念押ししているな?」
「はい。後程、改めて話を聞く場合があるとだけは伝えてあります」
カーライルは少しの間考え込んだが、すぐにクロスごと茶器をラウヴァルトの方へと押し出した。
「分かった。では、今の話は報告書にして直接提出するように。それから、第二騎士団へそれを届けろ。私からも話を通しておく。この件はこの場のみとし、フィスにも同様に伝えるように」
「了解しました」
一礼した後、クロスに茶器を包み直して抱えたラウヴァルトを、カーライルの目が追った。
「ラウヴァルト。その保護魔法はフィスがかけたのか?」
「ええ。特に指示したわけではないのですが、探知魔法のついでにかけていたようです」
「そうか」
カーライルが手元に引き寄せた時、当然保護魔法がかかっていることはわかっていたが、その薄い皮膜のような保護魔法に気付いた。
こうした物にかける保護魔法は初級のもので、学院を出ていればつかえる。だが、かける者によって差がある。特に、隊員たちがかけたものをよく見る立場のカーライルからすると、得手不得手、その者の気質など随分違いがあるわけだ。
全体を包み込むようなものもあれば、網のようなもので包まれているようなものもある。時には、分厚い魔力に包まれていて、対象を調べる時に保護魔法を外さなければならないものさえある。
フィスのかけた保護魔法は、薄い皮膜のようなものでぴっちりと対象に沿うようにきれいに包み込まれていた。初めてみた丁寧な仕上がりが記憶に残った。
なかなか周りに馴染もうとせずにいることは知っているが、仕事ができるではないか。
見習いのレベルではないなと横目で見ながら、カーライルの口角がわずかに上がった。
ラウヴァルトにも、カーライルがどういう印象を持ったのか、想像できる気がする。ラウヴァルト自身も、折に触れて同じように感じるからだ。
はっきりと浮かんだ苦笑いのままで、ラウヴァルトは隊長室を後にした。
* * *
ラウヴァルトがカーライルに報告をしている間、フィスは廊下の一角である持ち場に立ちながら先ほどの出来事を考えていた。
平和な国ではあるが、だからこそというべきだろうか。特に、王城に立ち入る者の間では、謀略も諍いもある。特に、今はウィベリア・レノール間の魔獣問題で緊張感が漂っているのだ。
貴族なら、フィスの様に魔法印を施したものを身に着けているのは嗜みともいえる。高位になればなるほど、そうした対策も行っていてしかるべきなのだ。
従者控室であのお茶を手にした人はどうしただろうか。
具合の悪くなった者も見かけなかったし、これといった騒ぎも起きていなかったはずだ。
ラウヴァルトが見逃したとは思いにくいが、時間差で何かあったのだろうか。
ぼんやりしていたわけではないが、突然、聞こえた音に我に返る。フィスの耳には何かが割れる音が聞こえた。
頭の中で音を再現しながら、その方向に転がるように駆け付けると、廊下の奥でメイドが倒れている。
彼女の傍には何かがこぼれたように広がっていて、おそらく割れた破片と液体と思われた。
近づいてみて、倒れているメイドが誰かはわからなかったが、急いで彼女の腕をとる。呼吸がひどく浅くて、顔が驚くほど白くにみえた。
零れた液体のせいか、何者かに襲撃されたのか。
周囲に人気はないが、外傷もないのにメイドの状態はひどく悪く見える。
騎士として、メイドを助けることが先だと思った。
もう一度、周りに人気がないことを確かめておいて、息を吐いたフィスは手のひらに魔力を集中させた。彼女の胸のあたりに手をあてれば、包み込むようにふわりと光が広がる。治癒魔法を使う手が珍しく震えた。
目の前で誰かが倒れたり、大きな怪我をしたりするのを目にする機会は、騎士団に入ってから比較的増えたが、それまでは自分以外に使うことはほとんどなかったからだ。
命にかかわるような状態を目にしたとしても、若いフィス、まして一人で暮らしていた時は、関わらないようにその場を離れることにしていた。治癒魔法は特に、使える者が限られる上に、神官以外では上級魔導士以外で使える者はいない。
何も考えずに使ったらどうなるか考えれば、危険なことはできなかった。
だが、今まわりに誰もいない状況で、彼女の状態を確かめるのをかねてほんの少し楽にするくらいはいいだろう。
魔法で状態を確認すれば、このまま放っておくわけにはいかない状態だ。かろうじて疑われないように、ぎりぎりの治癒を施してから手を下ろした。
少しずつリリアの呼吸が落ち着いてくる。
「よかった……」
思わずフィスが呟いたその瞬間、誰もいないと思われた廊下の端に人影が見えた気がした。咄嗟にリリアを庇うように身構える。
「誰かいますか!」
姿は見えないのに、びりびりと不気味な気配が近づいてくるような気がする。
王城の中で堂々と攻撃魔法を使ってくるなど、さすがにないだろうと思う。
すぐに魔法を発動できるように手をあげたまま、腰の剣に手を伸ばす。魔法よりは、物理攻撃の方が周囲への影響も少ない。
普通ならこんな場所でと頭をよぎるのだろうが、フィスの頭には欠片もなかった。必要なら魔法も使うし剣も振るう。
天秤が傾かないように公平さを保つだけだ。
じわじわと迫ってくる圧を感じて、身構えていると気配が急に消えた。気配が消えた後、誰かが現れることはなかった。
それでもしばらくは周囲を警戒していたフィスは、ごくごく細い糸の様に魔力を這わせて、気配がしたあたりを探ってみたが、やはり人の気配はなかった。
それを確かめてからようやく、剣から手を離す。
人を呼ぶとしても、このメイドをこのまま置いておくわけにもいかない。一緒に連れていくのが一番だろう。
フィスが魔法を使わずにメイドを抱き上げることはさすがに難しい。
持ち場に姿がなければ、少なくともメイドか、ラウヴァルトが戻ってきて様子を見るはずだ。倒れたメイドの様子を見ながらじりじりと待っていると、足音が聞こえてきた。
「リリア!騎士様、何があったのでしょうか?!」
駆け寄ってきたメイドの言葉に、彼女が先ほどの一件で茶器を下げてきたメイド、リリアなのだとわかったが、今はそれどころではない。
「会議場の担当メイドの方ですね」
「はい!」
「申し訳ないですが、手を貸していただけますか。まずは彼女を運ぶのが先です」
頷いたメイドの力を借りながら、風魔法でリリアを浮かせた。腕を添えて抱え上げると、ゆっくりと進む。手を貸してくれたメイドの案内で、先ほどと同じ控え室に入ると、メイドたちが駆け寄ってくる。
「騎士様?!なにが……」
「リリア!いつの間に抜け出したの?!」
驚くメイドたちをかき分けてフィスは、休憩用の長椅子にリリアを寝かせることができて、ほっと息を吐く。
「すみません。どなたか、医務室へ連絡を。それから、他に彼女を休ませる場所があれば教えてください」
「はい!」
ばたばたとメイドたちが動き、フィスは医務室から来た神官に彼女を託した。
「第四騎士団のフィス・クローニと申します。彼女が倒れた原因と、治療の後何かあれば第四騎士団へ知らせをお願いします。貴方のお名前を伺っても?」
「王城医務室勤務の神官、レンフリートと申します。承りました。フィス卿」
「お手数をおかけします」
神官と、彼がつれてきた補佐に場を預けて、上級メイドに声をかけた。
「フォスタ殿。先ほどはお知らせありがとうございます」
「とんでもございません。リリアを運んでいただきありがとうございます。騎士様」
「それで、彼女が倒れていた場所に落ちていたものはすべて回収されたでしょうか?」
「もちろんでございます」
すいっと、動いたテリアはどうやら上級メイドの中でもメイド長らしい。フィスがリリアに着いている間、てきぱきとメイドたちに指示をだして、廊下の始末や、回収してきたものをどうするか手配していた。
どうやら茶器の破片らしいものをフィスに見せながら、テリアは深々と頭を下げる。
「こちらでございます。騎士様、申し訳ございません。可能でしたら、何があったのかわたくしにも教えていただくことはできますでしょうか」
もしメイドたちの中に関わっている者がいる可能性も考えて、頷いたフィスはテリアに案内してもらって、通路を隔てた小さな部屋に移動した。
「こちらはわたくしが控えている部屋でございます。議場に近いので、特にこの部屋には防御魔法をかけていただいております。他の者に聞かれることはございません」
議場に何かあった場合はメイドたちがここに避難することも考えられているらしい。騎士団の所属になってから王城について初めて知ることが多いが、こうした部屋があることは知らなかった。
頷いたフィスは小さなテーブルをはさんでテリアと向かい合って腰を下ろした。
「それから、騎士様のいらっしゃった場所にはすでに、騎士団から他の騎士様がいらしていたようです」
「承知しました。それで、先にお伺いするのですが、リリア嬢は具合が悪くてお休みになられていたと聞いていましたが……」
「はい。先ほど騎士様方に検分いただいた後、わたくしどもメイドたちは元の業務に戻りました。リリアは先ほどの続き部屋にあった長椅子で休んでおりましたので、いつの間に部屋をでていったのか、誰も見ていないのでございます」
リリアがいないことにも気づかなかったというが、メイドたちは非常に忙しいのだ。そこに横になっていると思えば、気遣いはしても傍についていなければ誰も見ていないタイミングで出ていったことは仕方がないだろう。
例え廊下に出るドアが一か所しかなかったとしても。
「そうでしたか。自分は、持ち場に戻った後に、何かが割れた音を聞いてその方向に駆けつけました。そこに彼女が倒れていたのです」
どのような状況でも落ち着いて、冷静でいなければならないはずだがテリアの膝の上に重ねられた手がぎゅっと握りこまれるのが見えた。
「それは……っ」
すでにメイドたちが、破片を片付けているが、それも第四騎士団へ届けてもらうように頼んである。絨毯に残るわずかな痕跡にそっと手を伸ばす。
「なにか……」
誰かがいなかったか。
何故倒れたのか。
聞きたいことはあっただろう。
だが、一言言いかけただけでぐっと苦いものを噛みしめたテリアは重ねた手を強く握って、頭を下げた。
「承知いたしました。本来、わたくしたちにはお話しいただけないことも多いと思いますが、それだけでも教えていただき感謝いたします。また、この後お調べになる際は何なりとお声がけください」
王城で働くメイドの中でも、時に足の引っ張り合いなどもあるというが、テリアは自分の仲間たちを本当に大事に思っていることが伝わってくる。
メイドの中にはよくないことを行う者もいることはわかったうえで、本当に大事にしているのだろう。
そう思ったので、フィスも状況だけを伝えた。
それ以上のことは、調べがつたとしても話せないかもしれないとわかっている。
「お話しできることが少なくて申し訳ございません」
「いえ、本当に無理を聞いて頂きありがとうございました」
長いこと、フィスを引き留めておくことはできないと思ったのだろう。
先に立ってテリアはドアを開けた。軽く振り返ってフィスに頷くと、議場の廊下まで先に立ってフィスを誘導した。
「では……」
「はい。ありがとうございました」
互いに頭をさげて、それぞれの持ち場に戻る。
フィスの持ち場には、同じ魔導士のサルジェが立っていた。大股でサルジェに近づくと、わかっているとばかりに大きく頷かれた。
「私が代わります」
「承知いたしました。念のため、もう一度現場を確認してから報告に向かいます」
「引継ぎお受けいたします」
互いに一礼して、歩き出した。先ほど、リリアが倒れていた場所に近づくと、魔法の痕跡がわずかに残る。眉をひそめて、息を吸い込んだ。
先ほどは、咄嗟にリリアを守りつつ、怪しい者がいれば捕まえるか、応戦するかどちらかを優先した。
もう一度先ほどの気配を辿ろうとしたが、薄くなりすぎて追う事は出来なかった。
メイドたちが後片付けを済ませていたが、わずかに残る跡に屈みこむ。どうやら先ほどのカップと同じものがしみ込んでいるようで、微かな臭いに鼻をおさえる。
手をかざして水魔法を使って、汚れた場所を清めた後、風魔法を使って乾かした。
会議場のエリアは、先ほどの出来事など何もなかったように静かで、微かに会議場の声が漏れ聞こえるくらいだ。
場所と続けて起きたことを考えると貴族同士の揉め事だろう。
貴族の家門同士や、時には家の中であっても諍いや謀略はおきる。フィスはそれがどれほど、醜く、すべてを踏みにじるのか、識っている。
関わりすぎない。
仕事ではあるが、これ以上一つ一つの出来事に関わることはしない。
自分に向けて言い聞かせると、隊長室に向かって歩き始めた。初めての出来事に少しだけ天秤が揺れた気がした。
* * *
先ほどはラウヴァルトがドアの前に今度はフィスが立つ。カーライルの声を聞いて部屋に入った。
「フィス・クローニが報告に参りました」
「ご苦労」
「はい。ラウヴァルト先輩よりご報告があったと思いますので、そちらは省略させていただき、先輩が離れた後に起きたことを追加で報告いたします」
「何かあったのか?」
顔を上げたカーライルは執務用の机から立ち上がった。すぐそばのソファを促して、カーライル自身も腰を下ろす。
それに続いてソファに腰を下ろしたフィスが、先ほどの出来事を話し出した。
「はい。先ほど、体調を崩していたというリリア・ベルナールと思われるメイドが廊下で倒れているのを発見しました。現場には何者かの気配がありましたが、私が近づいたせいでその場を離れたようです。メイドたちの控室に運び、医務室から神官を呼んで後を託しました。後程、神官レンフリート殿から報告が来ると思いますが、私が確認した時は意識がなく、原因も不明です」
カーライルは眉間にしわを寄せると、考え込むように顎に手をやった。
「リリア・ベルナール……。先ほどの一件で茶器を下げてきたメイドだな」
「はい」
フィスが駆け寄った時には、彼女がリリア・ベルナールだとはわからなかったが、メイドたちがそう呼んでいたので、本人に間違いないはずだ。
あれでは、従者に出されたお茶の一件を問いただすこともできない。
僅かに片眉が動いた気がしたが、カーライルの表情は動かなかった。
「その場に何らかの魔力の痕跡は?」
「ございました。姿は見えませんでしたが、迫ってくる圧を感じました。それと、茶器が割れていましたが、しみ込んでいたものからすると先ほどのカップに残っていたものと同じかと思います」
割れた破片を届けるように指示していたことも口にすると、カーライルは黙って頷いた。
隊長は不在だが、こういう時は副隊長がすべての指示を出す。
しばらく顎に手を当てて考え込んでいたカーライルがその手を下ろした。
「委細、承知した。追加で調査を行うが、下手に動いて警戒されてもいかんだろう。お前は交代だったな。報告書だけ早めに頼む」
「承知しました」
「それが終われば今日は戻らなくてもいい。残りはサルジェに引き継ぐように言ってある」
「了解です」
一礼して隊長室を出たフィスはすぐに執務室へ向かった。本日、二度目の報告書である。
交代の時間ではないので、控えの隊員たちがいる以外、机に向かっている者はいない。机に向かって羊皮紙を広げる。
「なあ」
空いていた隣の椅子を引きずって、フィスに近づいてきたルキウスが、声を落とした。
「なあってば。フィス」
「何でしょう。リンフェルド先輩」
「なんかあったのか?」
「何かとは、どういう意味合いでしょうか」
いくら同じ隊とはいえ、こうしたことは周知されない限り、軽々しく口にしないものだ。まして、フィスにとって誰かに漏らす、ということ自体があり得ない。
「なあ、何があったんだ?サルジェを呼んだってことは魔法絡みで何かか?」
「さあ。自分は指示通りに交代しただけですから」
「でも予定にない交代ってことはなんかあるんだろ?」
相変わらずルキウスはフィスと仲がいいと思い込んでいるようだ。
素直というべきか、単純なルキウスの気性はなるほどと思えるが、だからと言って親しくなろうとは思えなかった。
「うーん、気になるなぁ」
「何か気にかかることがあるのでしたら、隊長室へ行かれたらどうでしょう」
「えっ、いや、そこまでじゃないんだが……」
隊長室に何かあったのか聞きに行く。
さすがにそれはルキウスも躊躇ったようだ。子供のようなルキウスに、フィスは内心で苦笑してしまう。
彼の無邪気さと好奇心は時に厄介だが、それが彼の魅力だとは思う。
「では、報告書も終わりましたので、お先に失礼します」
「あっ、おい……」
ルキウスが引き留めようとするのをかわして、執務室を出た。
廊下を歩きながら、今日の出来事が頭をよぎる。リリア・ベルナールの倒れた姿、廊下に残る魔力の痕跡、――どれも初めて遭遇する事ばかりだ。
自室の扉を開けると、フィスはほっと息をついた。
小屋とは違い、簡素な部屋でも、ここに戻れば少しばかり落ち着くことに変わりはない。自分の時間を取り戻すからだ。
まずは窓を開けて、新鮮な空気を取り入れる。外の空気は、雑多な考えを洗い流すように淀んでいた空気を連れ去っていく。
おかしな話だが、今日の出来事はフィスにとって、騎士団の一員であることを実感できた出来事だった。
親しい者はいなくていい。でも、魔法を使いたい。誰かが傷つくのは嫌だ。
だから騎士になった。それをこんな風に実感するのかとも思う。
「なんか……、魔獣討伐とかで実感するかなと思ってたけど。不思議な感じ」
ぼそりと呟いてから窓辺の小さな机に座り、片隅に置いてある小さな棚に手を伸ばした。
ローブの刺繍の続きをする前に、一冊の古びた本を取り出す。
フィスのもつ古い魔法書だ。
古い紙の匂いと、手触りは不思議としっくりときて、そわそわと定まらない気持ちが、落ち着きを取り戻してくる。
第三会議場の不穏な顔ぶれ。
給仕の後、具合が悪くなっていたリリア。
廊下の痕跡。
混乱の薬が混ざったお茶を飲んだはずの誰か。
フィスの頭の中で、断片的な情報が次々と浮かび上がる。
推測ではあるが、第三会議場に関わる出来事だったのであれば、従者はウィベリア伯爵家の者か、はたまたレノール子爵家の者か。
護衛を兼ねて従者を連れていなかったのなら、レノール子爵家の可能性の方が高いだろうか。
「推測だけど……」
余計な手を出さないなら天秤は傾かない。
自分にそう言い訳をして、右手を上げた。指先をふるうと目の前に文字が浮かぶ。
他愛もない魔法は、考えを整理するために頭の中を吐き出すのに便利である。
落書き代わりに思いついたことを水煙を使って空中に描き出す魔法だ。
今日の会議場は従者の立ち入りが禁じられていたわけではない。であれば、両家とも従者を伴って議場にいたはずだ。
会議場の位置関係に魔法で浮かべた名前を動かすと、やはり『お茶を飲んだ誰か』がわからない。しかも、隣のカップにも薄っすらとふりかかっていたから、カップに入れようとしてはいたが上から粉を振りかけたような状況に見えた。
飲んだ当人だけでなく、一緒にお茶を飲んだ人も異常を感じたはずなのだ。
「あっ」
落書きに集中しすぎて、フィスの意識が手にしていた本から離れた。
膝の上から滑り落ちかけた本を慌てて掴む。
「何をやってるんだか……」
思わず一人呟いて、座り直す。
仮にどういうことがおきていても、自分が勝手に動く様な事ではない。
自分は天秤計りのフィスだ。
騎士団の見習い魔導士が、貴族同士のことに口を出す立場にない。
犯罪ではない限り、当人同士が対処するのは貴族としては当然のことである。
自分の中で、浮かぶ考えを消して、傾きかけた秤を戻す。
すっかりそれが平らに戻ったころには、雑念を振り払い終える。フィスは魔法書を元の場所に戻した後、クローゼットからローブと、刺繍の道具を揃えて針を手に持った。
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