出血を願う

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校舎の窓の外から、頬を染めた木々の祝福が届いた。ヒラヒラと机に落ちたそのひとつを摘み上げると、そっとカバンに忍ばせる。出会いと別れ。確かな季節の訪れに胸が高鳴る。そう。出会いと別れ。僕は今日、きっと卒業する。 黒板には、先ほど国語教師が解説した『羅生門』の解説が残されている。下人とは何か、という説明から始まったのには驚いた。義務教育を終えたにも関わらず、今更知ったと言わんばかりの同級生には呆れたものだ。羅生門など、数年も前にとっくに読んでいてもおかしくないのに。 中一の時分には好んで三島由紀夫を読んでいた。続けて太宰治、江戸川乱歩、谷崎潤一郎。僕は幼い頃から本の虫だった。村上春樹はもちろんのこと、パウロ=コエーリョだって読んだ。まるで無知蒙昧というわけではない。僕には文豪由来の知識がある。女の気を引こうと、ただ大声を出すことしかできない連中とは違う。彼らと一括りにする先生には、バカにするなと言ってやりたい。 「何を可愛らしいことしてんのよ」 一つ前の席に座る、おかっぱ頭のどうでもよし子が振り返って、僕を揶揄うかのように笑った。本名はサノヨシコなのだが、興味がないので内心そう呼んでいる。 どこをどう見ても芋女で、それは足に顕著だった。ふくらはぎが筋肉質に太く、朝はまだ隠れているのだが、夕方になるにつれ、剃り残しの跡が浮かんでくる。僕はそのせいで、ストッキングを校則規定としなかった誰かを恨む羽目になった。 どうでもよし子はそんな評価をされているとはつゆ知らず、僕に色目を使ってくる。完全に身体をこちらに向けて、椅子を傾けるのだ。肉の硬そうな腕が僕の机に食い込んだ。 「見てたわよ。桜の花びらをカバンに入れちゃって、どうするつもり?押し花にして、本の栞にでもするのかしら」 「栞にするにしちゃあ、花びら一枚だと味気ないね。気分だったのさ。それだけだよ」 「花びらを持って帰りたい気分って、どういう時なの?子供じゃあるまいし」 「君には説明しても分からないだろう」 「そう言って、すぐに馬鹿にするんだから。やあね」 どうでもよし子は唇を尖らせた。とんでもないものを見せられた僕は視線を逸らし、曖昧に頷きながら促す。 「それで、どうして君は僕の奇行を目の当たりにしたんだい?まさか用もなく振り向いたりはしないだろう」 「ああ、そうだった。さっきの授業のプリントを見せて欲しいの。ちょっとぼうっとしちゃってるうちに、聞き逃した部分があったのよね。夜更かしはするもんじゃないわ」 「まったくだね。でも、それならお安いご用さ。すぐに貸してあげよう。ほら、これだよ」 僕は机にしまっていたクリアファイルを探し当てると、そのままの形でずいと差し出した。彼女はありがとうと微笑んで受け取り、プリントだけを取り上げようとした直後、まるで電気が走ったかのように顔を歪めた。 何事かと見やると、どうでもよし子は忌々しげに自身の手元を睨みつけている。一本だけ伸ばした人差し指からじんわりと血が浮き出ていた。僕は慌てて立ち上がる。 「大変だ。ちょっと待ってね」 僕はカバンを机に広げ、奥底に放り込んでいたいつかの絆創膏を探した。慣れないローファーのせいで靴擦れをした際に、コンビニで買ったものが残っていると記憶していたのだ。その記憶は正しかった。内ポケットに潜んでいた無地の絆創膏を見つける。僕は嬉々として取り出し、どうでもよし子に差し出した。 「ほら、どうぞ。紙の切り傷は派手ではないが、すこしでも動かすとチリチリして痛いだろう。これで固定しておきたまえ」 僕は感謝されて当然のことをしたと思った。しかし彼女はお礼を言わないばかりか、絆創膏に見向きもせず、口を開いたカバンの中を唖然とした様子で眺めている。なんて非常識な女だ、と憤慨するより前に、嫌な予感がよぎった。どうでもよし子がニキビだらけの頬を染めたのだ。 僕はもう遅いと理解しつつもカバンの口を急いで閉める。視界から消えてもなお、奥底からほじくり返された小さな箱が、鮮やかなパッケージを表にして煌めく残像がいつまでも浮かんでくるようだった。 やってしまったと後悔しつつも、それはほんの一瞬のことだった。すぐに誇らしい気持ちに満たされる。どうだ、僕はそんじょそこらの男子とは違うんだぞと、証拠を見せつけてやった気分だ。意図的ではなく、しょうがなく見えてしまったことも、僕の美学に適っている。 僕は何も知らないふりをすることにした。彼女がどうして困惑しているのか、まるで分からないと首を傾げ、血の浮いた彼女の指に絆創膏を巻いてやる。さっきまでの馴れ馴れしさとはうってかわり、どうでもよし子は急によそよそしくなった。譫言のようにありがとう、と繰り返し、椅子に適切に座り直す。僕はその反応をしばらく楽しんだ。口元がニヤつかないようにするのを、精一杯我慢した。この時僕を支配していたのは、紛れもない優越感だ。 僕は今日、きっと卒業する。 授業開始のチャイムが鳴り響いた。羅生門の解説はすでに粉屑になっている。数学の先生が後ろに回すようにと指示をして、一番前の生徒に人数分のプリントを配布する。どうでもよし子は僕を振り返ることなく役目を果たした。指先に血が滲んだ絆創膏が見える。 柔らかな日差しが差し込む窓から、容赦のない風と共に、木々からの祝福が届く。数学教師の念仏が漂い始めた。 僕はあくびを一つして、そのいくつかを摘みあげると、彼女の出血を願い、そっとカバンに忍ばせた。
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