1

1/1
前へ
/22ページ
次へ

1

白田瑞姫(しろたみずき)、それが俺の名前だ。 元は華族の流れをくむ旧家に生まれ、 何の蟠りもない優しい家族に囲まれて、 金に苦労することなく──大凡、多くの物に恵まれて俺は育った。 容姿もその一つで、一家の中でも特に母に似た姿は、自分で言うのもなんだが、美しいと評価される方だと思う。背丈こそ日本人の標準ほどだが、困ることはない。 学業面においても、そう苦労せずにやってきた。 俺に関わりたがる兄たちによって教えられたのもある。同じように、武道も家の家訓で取り組んでおり、他人から見た俺と言う像は「非の打ち所がない」。 けれど。 そんな俺にも悩みは、ある。 性的嗜好が同性、という面だ。 これは誰にも話したことがない密かな事で、俺を異質だと蝕むただ一つの悩み。 それに気付いたのは、物心がついたときの初恋だ。 相手は家臣筋にあたる年上の男で、自分に構って欲しくて色々と我儘を言ったように思う。結果は惨敗だ。恐らく良いように言ったところで、そいつにとって俺は「手のかかる子供」だろう。下手すれば嫌われていてもおかしくない、という事実が心を重くした。 そんな自分の性嗜好が世間的に、家柄的に、受け入れられないマイノリティなものなのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。 けれど選んでそうなったわけでもなく、自分でもどうすることも出来ない。 それでも、足掻いてはみたのだ。好ましいと思える女性と付き合ってみたりもした。 けれど恋愛感情を持てないまま、そして触れることも出来ないまま、それは終わりを告げた。その一度で思い知ってからは、女性と付き合うことはやめた。心がないのに隠れみのにするにはあまりにも不誠実だ。 未成年の時は性嗜好をひた隠しに隠して、周囲と合わせて生きてきた。 それはとても窮屈で辛かった記憶しかない。漸く息をつけたのは、成人してそういう店に通うようになってからだ。ただのバーであって、そうでないその場所には、俺と似たような嗜好の人間が集まる。そこで俺は漸く、自分を解放することができた。 とはいえ、家族に後ろ暗いこの行為から生まれる罪悪感は、解放できたからこそ、俺に影のように付き纏っていた。 ※※※ 夜の帳が降りて、ネオンがギラギラと輝く街の中の一角にあるラブホテルの中に、二人は居た。外観からして安っぽいホテルの内装は、それ相応のもので、唯一の救いは清潔感があることだけだ。しかしリーズナブルなので、短時間の使用ならばうってつけの場所であり、何よりも使用するのがほぼ男同士なので、仮に使用客とかちあったとしても訝しげに見られることはない。そういうところは助かるので瑞姫が一夜の相手と利用するのはほぼこのホテルだが、タオルはゴワっとしていて、その手触りは嫌いだった。 「……ゴムありなら、口でしてあげてもいいよ」 シャワーに濡れた髪を拭きつつ、瑞姫がそう言うと、それを聞いた男──溝内(みぞうち)が、目を丸くした。 「へえ、ついに?してみたくなった?」 揶揄うような口調で、溝内は瑞姫の背後に回り込み肩や頸に口付ける。 溝内は行きつけのバーで出会った男の一人だ。瑞姫よりは高い身長で、顔の造形も悪くはない。何よりも好ましいところは髪を染めることもない、真面目そのものの風体だ。知り合った当初は口調も丁寧なもので、サラリーマンだと思わしきこの男を、瑞姫は気に入っていた。 「……っ、ぁ……まあ、そんな所かな……あなたには楽しませてもらっているしね。お礼の、つもりだよ」 男の手から逃れながら、瑞姫はベッドへと視線を向けた。溝内は視線を理解してその端に座って足を開く。枕元にあるコンドームを一つ手に取り、瑞姫は膝の間へと場所を取る。 既に男のものは屹立しており、硬くなったそれにコンドームをつけるのは容易かった。 キスなし、挿入なし、後腐れなし。 それを絶対の三箇条として、触れ合うだけの極々軽い関係を瑞姫は常としている。 病気が怖いのもあるが、最後までする気には今のところなれず、けれど、因果なもので人肌は恋しくてーーそんな条件になった。 はじめは無理かとも思われたが、案外そういう人間が多かったのと、そういう軽いものでも良いから瑞姫と一晩を共にしたいという男がチラホラ居たのだ。 オーラルだって、普段はしない。ただ、ほんの気まぐれだ。色々と考えるとゴム付き、とはなったが。 それでも溝内に不満そうなものは、ない。それは良かったのだが、コンドームを被せたあたりで、 「うまくつけれたね。その可愛いお口で早く包んで……」 と自分の髪を撫でながら、男が落としてきた時は、内心ため息が出た。 ぶっちゃけた話、そういう喋りはしないで貰いたいのだ。 瑞姫が相手を選ぶ基準は、先にある条件も勿論だが、容姿や喋り方も関係してくる。 初恋を払拭できず、好きと言う気持ちを持ち続けたままの男に似ていることが、まず第一だ。 その男の形となりは謹厳実直質実剛健という言葉をそのままにしたようなもので、見た目からして真面目だとわかる。それだけならばまだしも、顔が整っているところが、悪い。これで、その男の顔が普通であれば、ちょっと選ぶ枠が広がったはずだ。けれど、瑞姫が思い続ける男はシンメトリーな美形で、意志の強そうな眉が特徴的だった。 そして相手を選ぶもう一つにあるのが、口調。 瑞姫が片思いしたままの男は家臣筋にあたる。その男からすれば主君筋の瑞姫には丁寧な口調は勿論、普段も古風な喋りだ。 流石にそこまでの再現は求めていないが──丁寧なのが好ましい。 仕方のないことだが、普段からそう言う喋りでない限り、慣れてくると砕けてくる。……仕方のないことだが。瑞姫自身、自分の面倒くささは自分でよく知っていた。 ──そろそろ、この男も潮時かな……。 コンドームを被せた男のものに口を寄せながら思う。溝内のそれはそこそこ大きさも長さもあった。幾度か目にしているものだが、口で何かをすることは初めてで、若干、怯む。それでも自分ですると言った手前止めるわけにもいかず、大きく口を開いて咥内へと収めていく。 「んふっ…………ん……」 ラテックス独特の味と匂いが口の中へと広がる。そういえばフェラチオ専用のゴムをどこかのアダルトグッズサイトで見たのを思い出した。今度はそれを買ってみるか、と思いながら亀頭をしっかりと咥え込む。 そこで、目を閉じて、好きなあの顔を思い浮かべた。 お互いに男なので、だいたいの性感帯はわかっているつもりだ。溝内の玉袋へと指先を滑らせてやわやわと揉み込み、もう一方の片手では竿を扱いた。 「う、わ……初めてとは、思えない……ねっ」 溝内の息遣いが次第に荒くなる。 しっかりと口の中に入れた亀頭を転がすように舌を動かして、竿を握った手へと少し強めの力を込めて上下に動かす。 「んっ……」 一度それを口から出して、今度は竿伝いに吸いながら下ろし、袋の片方を口の中へと入れて吸った。そうしながらも、手を上下へと動かす。 「ちょ、っ……あ、っ…………」 口内で飴玉を舐めるように、玉を舐って、口から出す。また竿を吸い上げながら口を上らせて、亀頭を口に含む。 そういった行為を何回も繰り返しているうちに、段々と溝内に終わりが近づいてきていた。溝内は溝内で、綺麗な顔を持つ男の顔を掴んで、滅茶苦茶に剛直を出し入れしたい気持ちに駆られたが、継続して会いたいという気持ちを優先して、そこは我慢していた。 瑞姫が瞳を開き、溝内を見上げる。自分を見上げた年下の綺麗な男の上目遣いも興奮に拍車をかけたようで、瑞姫の手が竿を強く握りしめて、ゴム越しに亀頭を強く吸い上げた時、 「……うっ」 溝内から呻き声が漏れ、ゴムの下でその欲望が爆発した。 はあはあ、と荒い息を吐きながら、溝内は笑顔になる。 「よかったよ、凄いね……またしてほしいな」 称賛をもらうのは悪くない。それから口を離して、瑞姫もうっすらと微笑みを浮かべて、首を傾げた。 「……満足してくれたなら、何よりだよ。ね……俺のも、触って?」 喋り方に不満があったとしても、こういうことをしていれば興奮もする。 瑞姫のそれも、屹立していた。甘えるように、硬さの引いた溝内自身へとキスをして、もう一度見上げた。 勿論、と返しながら溝内は瑞姫の手を引っ張りベッドへと乗せて押し倒す。 そうして瑞姫の身体へと伸し掛かって、首筋や鎖骨に口付けを落とした。 最中、唇にキスをしようとする溝内に、それを手を挟むことで「駄目だよ……」と拒みつつ、 ──やはり潮時かな……。 と瑞姫は今一度思ったのだった。 ※※※ 家に帰り着いたのは24時を過ぎた頃で、母屋は静まり返っている。 さて、どうしたものか……、と瑞姫は途方に暮れていた。 都内であるにも関わらず白田家は広大な面積を有する邸宅を構えていた。 普段、瑞姫はその敷地内にある母屋と繋がった離れを利用している。 離れは自分一人の空間であって、家族や使用人が出入りをするものの、いつも騒がしい母屋と違って静かで居心地が良い。 しかし迂闊にも、出る時に鍵を忘れてしまい離れに入れないでいた。そして普段母屋の鍵を持ち歩いていないことが、今は仇となっている。 離れには母屋の中からも続いている。なので母屋にさえ入れれば良いのだが、いかんせん真夜中に近いこの時間は使用人も下がっていた。 外門は指紋認証なのに、いまだに中は古風な鍵だ。いっそ全部指紋認証に変えればいいのに、と息を吐く。 ──兄さんたちを起こすのも……。 そもそもこんな時間に帰宅したのが見つかれば、まずもって一番上の兄が騒ぎそうだ。 白田家は六人兄弟で一番下が瑞姫である。 瑞姫は前当主である白田武蔵が還暦も近い時に出来た子だ。年齢からすると外腹と勘違いされそうだが、瑞姫もれっきとした正妻の子で──そもそも武蔵は夫人に対して溺がつくほどに愛情が深く、愛人を作ることなんてない──母親も高齢出産であった為、生まれてから育てたのはほぼ兄達と言っても過言ではない。参観日に来るのも兄だし、運動会や式典に来たのも兄達だ。両親が瑞姫を疎かにしたわけではなく、とにかく五人の兄が出張った結果である。そんな経緯があるので、とにかく兄達は瑞姫に対して過保護なのである。 とはいえ全員がそうかといえばそうでもない。二番目の兄は穏やかで、多少心配性ではあるものの瑞姫との距離も考えてくれる。 その兄ならばまだしも、他が出てくれば煩い。そう考えると瑞姫は重い気持ちだ。敷地内には一族が住んではいるが、誰かを頼れば必ず長男に連絡が行く。 かと言ってこのままここで一夜を明かすのは、夏ならともかく、秋が深くなってきた今日日、夜は冷えて外にいるにも躊躇われた。溜息を吐きつつ、今日はどこかに泊まるか、と踵を返そうとした時、玄関に灯りがついてガラガラと引き戸が開けられた。 「おかえり、瑞姫。家にお入り」 顔を出したのは二番目の兄──白田鴇哉(しろたときや)だった白田家特有の吊り目を持つ美丈夫であるが、仕草や口調は実に柔らかく、他の兄達に比べれば風体も優しく見える。そして何よりも常識人で、何より騒がしくない。この兄も過保護と言えばそうに違いないが、口を出す部分を図り知っていて、瑞姫が一緒にいても疲れない相手だ。 出てきた人間が鴇哉であったことに安堵しつつ、側によると、瑞姫は自分より背の高い兄を見上げながら苦笑を漏らした。 「ただいま。こっちも離れのも、鍵を忘れてしまって……鴇哉兄さんが開けてくれて助かったよ。ありがとう」 そう言うと、鴇哉はにっこりと笑い、末の弟の頭を撫でた。 「ちょうど洗面所に行くところで、瑞姫の姿が見えたんだよ。食事はしたのかい?」 瑞姫を玄関の中へと入れて、施錠をする。 「ああ、うん。……友人と食べたから大丈夫だよ。レポートの話をしていたら、話し込んでしまって……遅くなってしまってね」 ごめんなさい、と付け足す。後ろ暗さを隠すための言い訳が、考えずとも勝手に瑞姫の口から流れ出していた。ふざけたものだな、と自分でも思うが全てを打ち明けるほどの勇気は瑞姫にはない。 鴇哉は一言、そうか、と返事して玄関を上がった。それに瑞姫も続く。 後は靴を持って、自分の場所に戻ればいい。玄関から自分の靴を持とうとして屈んだ時、瑞姫、と鴇哉が優しい声で呼んだ。 「困ってることがあれば、必ず話すんだよ?俺にしろ、兄さんも弟たちも絶対に瑞姫の味方なのだから」 後ろ上から聞こえる兄の声に、瑞姫は内心ギョッとした。何かを知られているのではないか、とビクつく。けれどそれを表に出してしまえば終わりだ。こんな無様な自分を、尊敬する兄達には見られたくなかった。 ゆっくりと、兄にわからないように瑞姫は息を吐き出す。そして、立ち上がってから鴇哉を振り返った。 「ありがとう、兄さん。じゃあ、部屋に戻るよ。兄さんも冷える前に戻ってね。おやすみなさい」 にこりと笑って頭を下げてから、瑞姫は離れに行くために、鴇哉へと背を向けた。 優しい兄は大好きだが、長くいるのは心苦しく、足早にそこを去る。 瑞姫は廊下の奥へと弟が消えたのを確かめてから、溜息を吐いた。 「本当に、皆……君の味方なんだよ……瑞姫」 そう淋し気に落とした声を、瑞姫が聞くことはない。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加