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瑞姫が自分の部屋に帰り着いたのは、ちょうど22時を回った頃だった。 部屋の灯りはつけず、コートだけを脱いで定位置にあるハンガーへとかける。そして、ベッドの上に身を投げ出した。 瑞姫の部屋は和室で、十二畳程度のそこには家具はあまり多くなく、書棚と勉強机にベッドとサイドテーブル、部屋の真ん中に座卓、とそれくらいなものだ。その他の細々としたものは壁一面にある押し入れへと整理してある。テレビなども当初は置いてあったのだが、PCなりタブレットなりで見れるものだし、それくらいは母屋のリビングで見ればいいと判断して、部屋からは出した。 元々、この離れは客室として使われていた場所で、高校合格のご褒美として兄達に強請り、勝ち取ったものだ。それまでは母屋で過ごしていたが、何かとかまってくる兄達ーー特に一番上と三番めだがーーが思春期の瑞姫には少し煩わしく、それらから逃げるようにこちらの部屋に越してきた。といっても母屋からは内廊下一つで繋がっているし、部屋は障子で出入りするので鍵がついているわけではない。兄達の来訪を避けられるわけでもないが、多少は静かになり過ごしやすくなった。 慣れた部屋の中をなんとなく、ベッドに横たわったまま、見る。 最近過ごす時間が多くなった央亮の部屋とは、当たり前だがまるで違う。 そういえばあいつの部屋は和室だな、と義隆の顔を思い出した。そんなに回数多く、糸島家を訪れたことはない。興味本位で義隆にせがんで幾度か行っただけで、それも年単位で昔の話だ。思い出す限り、部屋の中にベッドはなかったので布団なんだろうな、とまで考えて自分に苦笑する。 ーーいつまで経っても未練がましい…………。 央亮に自分を捧げると言ったのに、未だに胸の奥底には糸島義隆という男が住んでいる。 こんな自分をわかっていて『心は少しずつでもいい』とあの時、央亮は言ったのだろう。好きだ、愛していると繰り返す央亮の気持ちに、全部は応えられなくて、やはりたまに瑞姫は苦しくなる。 けれど、少しずつ央亮を好きだと思う気持ちが、雪のように降り積もりつつあるのも確かだ。 だって、いつだって央亮は、自分に優しい。それは会っている時間のほとんどがそうで、この前こそ、激しく抱かれはしたが、その後は常時に戻りセックスだって瑞姫のペースに合わせて優しく触れてくれる。 今夜だって泊まれると言い張る自分を『遅くなったから帰らない、じゃなくて、初めから許可を取っておいで』と嗜めて送ってくれたのは央亮だ。車を降りる間際まで瑞姫は、大丈夫なのに、と言ったが『ずっと一緒に居たいからね。瑞姫の家族には悪い印象を持たれたくないんだよ』と、手の甲に口付けられて車を下された。 少し気になることと言えば、キスマークを残したがるようになったことぐらいだ。 しかしそれも見える場所につけるのではなく、服に隠れるように配慮はしてくれる。今日だって『見えないところにつけさせて』と甘い声で頼まれて、それならば、と自分は応じた。結果、瑞姫の身体の上ーー鎖骨の付近や背中、腰。そして右手首にと、幾つか朱痕が散らばっている。 右手首につけられた痕を、もう一方の指でなぞる。 「俺がこんなだから、かな…………それとも、愛してくれているからなのか……」 央亮のこういった行為は不安の現れか愛の印か。 きっとそれは両方なのだろう。矢張り心が少し重くなる。いっそのこと、義隆に振られていれば、その時にショックはあれど、こうまで思い悩むことはなかっただろう。それも今となっては、出来ないけれど。 どちらにしろ糸島家の長男である義隆は、もう少しもすれば結婚の選択が出てくる。遠くないそれまでの間で、この恋心を埋めていけばいいのかもしれない。 そう思いつつ、ゆっくりと息を吐き出して、瑞姫はそっとキスマークの上へと口付けた。 ※ 「だからね、お前ね……毎回毎回、俺をアテにするのはやめないか!それになんだ、そのだらしない格好は……!」 瑞姫の前には項垂れた龍太がいる。瑞姫を見つけるなり、プリント見せて、と近付いたが運のツキでかれこれ10分以上は説教を受けており、げんなりとした顔つきだ。 「わあってるって……もー……おかんかよ。うるせーなー」 「お前ね……叔母様をそう呼ぶのもやめないか」 「あーもう!わあったよ、わあった!ちゃんとするからさ!いやー、もうさ、彼女でも出来りゃ一念発起すんのよ。オレも」 「甲斐性なしに出来るものか、馬鹿め」 「くっそ!兄貴と同じこと言いやがって……!今に見てろよ……!俺の運命見つけてみせるし!」 息を巻く龍太の額を、瑞姫の指が弾く。 運命をどうにかするならばまずは相手を見つけるところからだろうに、とため息混じりに落とすと、現れるし!と龍太が小さく叫んだ。はいはい、とそれをいなしながら、瑞姫は仕方なくトートバッグの中からプリントを一枚出した。自分も大概この憎めない従兄弟に甘い。 「なくすなよ」 「神様!瑞姫様!わあってるよ。なくしたことねーだろ、オレ」 不思議なことにこのズボラな従兄弟は自分のものはよく失くすくせに、人から借りたものは失くさないし丁寧に扱う。それは瑞姫もよく知っているところで、まあね、と返してからもう一度ため息をついて、ヨレっとした龍太の襟元に手を伸ばして正してやった。 「ちゃんとすればお前だってそれなりなのだから。彼女がほしいなら、身だしなみは気をつけないと」 手を離してから肩を叩き、瑞姫は離れる。 「今のオレでもカッコいいしな!」 「はいはい。じゃあ、俺はあちらだから。ちゃんとしろよ、従兄弟殿」 龍太に手を振り踵を返す。後ろで何か文句を言ったが、無視をして瑞姫は歩いた。 この後は時間を置いてから講義がある。空いた時間は校内の図書館にでも行くか、と思っているところで、 「瑞姫君」 慣れた声に呼び止められた。え、と吃驚して振り返ると扉の合間から顔を出した央亮がいる。その姿はスーツに眼鏡、といった『仕事用』だ。 「え、お……溝内、さん。どうして……?」 慣れで名前を呼ぼうとしてしまい、慌ててそれを止めて言い直す。央亮はにっこりと笑いながら、手招いた。瑞姫がそれを見て、近くに寄ると、手をひっぱられて室内へと連れ込まれた。 後ろ手に央亮は扉を閉めて、施錠する。 瑞姫は室内を見回してから、改めて央亮を見上げた。 「え、本当に……何か、ここに用事でも……?」 部屋は、瑞姫が足を踏み入れたことのない場所だった。ここに央亮がいることへの、驚きと不思議さに首を傾げる。すると、央亮の手が掴んだままの瑞姫の手を柔らかく引き寄せ、その身体を抱きしめる。 「お、央亮……っ」 瑞姫は構内であることから慌てて身を捩るが、鍵を閉めたから大丈夫、と笑みを浮かべて央亮は背中を撫でる。 「さっき、瑞姫を見つけてさ。従兄弟君?と話してたから、邪魔しちゃ悪いと思ってね。いちかばちかで、ここで張ってたんだよ」 「あ、や、でも。え……どうして、ここに……?」 腕の中におさまりつつも、困惑は大きい。本来ならば学内でなんて会うことのない人物だ。ましてや連れ込まれた部屋は部外者が入っていいようには思えずに、瑞姫は眉根を寄せる。その顔に、はは、と笑う。 「ここが仕事場の一つになるから、だよ」 央亮は片手をあげて、瑞姫の寄った眉根の中心をつついた。言われたことに、瑞姫は一瞬理解ができず、え?と首を傾げる。 「この学校でカウンセラーをすることになったんだよ。前から誘われてはいたんだ。ここの前任にね。だから、仕事場の一つ」 「それは…………え、なんだか、凄いね……?」 ただただ驚いて、瑞姫は素直にそう呟いた。瑞姫の通う大学は、旧幕府時代に開学された名のある大学で、決して安易に入れるところではない。それは学生だけではなく、講師一人にしても選び抜かれた人間ばかりだ。その中で、授業に関わらないとはいえ、学内に招致されるというのは、それなりに信用がなければ出来ないことである。 「あ、じゃあ。この前のこの辺に用事というのは……」 「そ。ここに用事があったから。毎週金曜日の週一だけだけど、遊びに来てね……って、駄目か。恋人だから相談も駄目だしなあ」 うーん、と考える央亮に、今度は瑞姫がくすっと笑った。 「公私混同は駄目では?溝内先生。カウンセリング、というのは何時から何時までなんだい?」 「13時から16時までだね。場合によってはもう少し長いくらいかな?」 「金曜日ならば、16時ちょっとまで俺は授業なんだ。先生のご都合が宜しければ、その後に一緒に帰るのは如何ですか?」 「それは最高だね。ところで今は就任前なので、まだ『先生』じゃないし……彼氏としてしたいことがあるんだけど?」 「したいこと?」 瑞姫が不思議そうに首を傾げると、央亮はその耳元に顔を寄せて、 「キス、していい?」 したいな、と付け加えて囁いた。声は耳の奥に響き、弱い快感となって背中に走る。瑞姫は肩をふる、と震わせながら、うっすらと目元を赤く染めつつ顔を上げた。 「仕方ない……彼氏の言うことなら」 ドアの外では学生達の足音や声が聞こえる。 背徳感を感じながらも、瑞姫は自分から央亮の唇に自分の唇を重ね、目を閉じた。 ※ 「とうとう、家の近くとは……随分と俺も信用されたもんだよね」 そう言いながら、央亮が車を停めたのは瑞姫の自宅より少し離れた角だ。自宅近くはセキュリティの関係上防犯カメラがあるので避けたく、その場所で停めてもらった。 「まあ、もう……場所もバレているしね。ありがとう、溝内先生」 「まだ先生じゃないんだけどなぁ……。あ、瑞姫」 瑞姫が軽口で挨拶をすると、央亮は肩を竦め、降りようとドアを開けた瑞姫を呼び止めて、軽く腕を引っ張る。ちゅ、と瑞姫の唇を啄んで、にこりと央亮は微笑んだ。瑞姫は一瞬目を見開き、次の瞬間に顔を赤くして口元を押さえた。 「……先生……!」 「はは、大丈夫大丈夫。誰も見てないよ。暗いしね。で、瑞姫からはしてくれないの?昼間みたいに濃厚なやつとは言わないからさ」 瑞姫の腕から手を離し、央亮は自分の唇を人差し指で指す。その素振りに瑞姫は小さく溜息を吐きながらも、手を下げて、身を乗り出す。仕方のない人だね、と零しつつ唇を近づける。同じように唇同士を触れ合わせてから、もう少し身を寄せて央亮の唇を塞いだ。ゆっくりと何度か啄んでから離す。 「……明日、会える?溝内、先生……」 「勿論。食事にでも行こうか」 「それよりも……央亮の、家が、いい」 「おや。もしかしてやらしいこと考えちゃってる?歓迎だけど」 まだ近い瑞姫の顔を追いかけて、キスをもう一度してから央亮はにやっと笑った。 瑞姫は、ふん、とそっぽを向き車から降りる。 「お上手な先生に慣らされてしまったもので。お気をつけて」 ドアを閉めて、頭を下げる。そうして瑞姫が歩き出すと、車も発進した。速度を落としてすれ違う時、窓を開けた車内から、気をつけて、と央亮の声がしたので瑞姫は片手を振った。 過ぎていく車のテールランプを見つつ、瑞姫は自分の唇を撫でる。自分から誘ってしまうあたり、やはり好きになっているのだと認識する。相変わらず心の一部に違う人物がいるのは、央亮に心苦しくはある。けれど、今は今で楽しいな、と思うと冬空の下で足取りが軽くなるようだった。 街灯の下ということもあり、薄暗くはあるものの、真っ暗ではない、その場所。 瑞姫が自宅へと続く門を潜った後に、影が一つ出てくる。 それは何とも、複雑な顔をしたーー糸島義隆だった。
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