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12
「瑞姫さん、よろしいですか?」
障子の外から声がかかり、瑞姫はスマホから顔を上げた。龍太と大学帰りに出かけていて、帰宅したのは30分ほど前で、ちょうど央亮へと連絡をしていた最中だった。スマホを座っていたベッドへと置いて、どうぞ、と返事をする。
いつもの様子伺いだろう。
ーーいい加減にそろそろこれもやめさせなければ……もう、俺ばかりに構ってもいられないだろうに……。
そう思いながら、失礼します、と入ってきた義隆へと視線を向けた。その顔はいつにも増して真剣味を帯びていた。瑞姫は首を傾げる。
「どうした……?なんだか、お前……」
瑞姫が言い終わらないうちに、義隆は瑞姫の足元へと膝をついた。義隆は見上げるような、そしてそんな義隆を瑞姫は見下ろす形となる。
「お聞きしたいことがありまして」
声もいつもとは全く違う。いつもは年長者の余裕があるものだが、今の声は鋭さを含んだ気迫があった。それの少し気圧されて、僅かに瑞姫は身を引いた。
「……なんだ?」
見合いのことだろうか?それにしてはなんだか……、いや、聞きたいことと義隆は言った。主人への態度にしてはどこか不穏さがあって、瑞姫は軽く息を呑む。義隆は、真っ直ぐと瑞姫を視界に捉えていた。
「あの男は、誰ですか?」
まるで予想もしていなかった質問に瑞姫は目を見開いた。
「な、に……?」
言葉がそれ以上出ず、義隆を見つめる。義隆は視線をずらすこともせず、そのまま少しばかり身を乗り出した。
「先日の夜、こちらの近くで車から降りるあなたを見ました。随分と仲睦まじいご様子で……」
先日の夜ーーあの夜。央亮に送ってもらった、夜。
仲睦まじい、というのは……見られたのだろうか、と心臓がどくりと大きく鳴って、動きを速くした。よりにもよって、まさか、と瑞姫は口元を押さえて、俯いた。
「……どういうご関係ですか?」
低い声音で聞かれる。瑞姫がじっと黙っていると義隆がもう一度、
「どういうご関係ですか?」
同じ言葉を繰り返した。同じではあるが、先ほどよりも語気が強い。
……なんだこれは?と瑞姫は思った。
これではまるで浮気を咎められているかのような状況だ。意味がわからない、と更に思う。
瑞姫と義隆はそう言う関係ではない。そもそもそういう関係であればはなから悩みなどなかった。目の前の男は異性愛者であり、そういう意味では自分を視界にいれたことなんてなかっただろう。
仮にこれが年下の主人を心配するようなものであっても、些か僭越な話だ。
自分だって見合いの話はしなかったくせに、とじんわり胸の奥から怒りが湧いてくる。
瑞姫は顔を上げて、ふ、と笑った。やや歪んだ笑みになったが、気にすることなく口を開く。
「それは、まあ……彼氏だからね。仲睦まじくても普通だろう?付き合っていればキスをしたりだってする。セックスだってーー……」
「やめてください。あなたに、似合わない」
瑞姫の言葉の途中で、義隆は吐き捨てるようにそう遮る。
かちん、と苛立ちが一気に込み上げて、瑞姫は義隆を睨みつけた。
「似合わない、ね。……お前が俺の何を知っていてお前は俺の何だというんだ?……下がれ、義隆。金輪際、ご機嫌伺いには来なくていい。お前も結婚に向けて忙しいだろうからね」
怒り任せに、けれど怒鳴ることはせずに、淡々と言い放つ。
もしかすると兄に報告がいくかもしれない。しかし、どちらにせよ、央亮と長く付き合って行く以上、自身の性嗜好は隠し通せるものでもない。いつかは、と考えていたことだ。最後の方に胸が緩く痛んだのは恋心の名残だろうか。未だに払拭できないそれにも苛立ちを感じて、瑞姫は立ちあがろうとした。目の前にいる男を部屋から出すために。しかし、立ち上がったはずの瑞姫の視界が急に変わって、背中に柔らかな衝撃が走った。
「え……?」
小さな声が瑞姫の口から漏れる。目の前には義隆の顔があり、その後ろには見慣れた天井があった。気がつけば、瑞姫は義隆に押し倒される姿勢になっていて、状況が理解できず、瞬きを繰り返す瑞姫の前で義隆が眉を寄せる。
「……俺は……」
義隆の声は絞り出すようなものだった。
やはり瑞姫には理解が及ばない。いや、余計に混乱した。何が起きている?そればかりが頭の中をぐるぐると巡った。
「お前、何をして…………」
「俺は、あなたが……あなた、を……」
「何、を、何を言って…………んっ」
義隆自身も混乱をしているように見受けられ、単語を発するばかりだ。
余計に困惑ばかりが生じて、瑞姫の眉根はどんどんと寄り、深い皺が刻まれる。
そんな瑞姫の、言葉が上手く発することができない唇を、義隆のそれが急に塞いだ。優しいものではなく、勢いが目立った口付けは乱暴なもので、前にされたものとはまるで違う。
強引に歯列を割って舌が入り込み、無遠慮にそれは咥内を舐め回してから、瑞姫の舌へと絡んできた。
「んんっ……!」
身を捩り、顔を背けようとしても、義隆の手が瑞姫の体を抱きしめるように動いて、上手くいかない。
央亮とは違い、自分以上に義隆は武道に長けている。それは自分に付き従うだけではなく、護衛という役割も兼ねていたので、当たり前の話だ。その強さを全面に出されると、瑞姫にはどうしようも出来なかった。
「ん、ふぁ……っ……」
ただただ、貪られるままに任せて、流し込まれる唾液を飲み込む。今、自分に口付けているのは央亮ではない。いつも愛しいと思っていた男だ。けれど、あの時の、アクシデントで口付けされた時のような嬉しさは込み上げなかった。
それどころか、一方的な口付けであっても必要以上に快感が生まれることに嫌気がさして、央亮に対しての罪悪感ばかりが込み上げる。
噛みつけばいい、その一瞬で終わる。
けれどそれが実行できないのは、結局は自分に未練があるからだ。
散々と咥内を蹂躙し尽くしてから、義隆の顔が漸く離れた。
苛立ちと悔しさと、罪悪感がごちゃ混ぜになり、瑞姫の目尻には涙が滲んでいた。
「……離せ、義隆…………」
「……嫌です」
震える声で、瑞姫が言う。
瑞姫の涙を見て、多少、義隆は怯んだが瑞姫の上からは退かなかった。
義隆の顔が瑞姫の顔へと近付き、その唇をもう一度塞ぐ。今度は優しく柔らかく。何度か瑞姫の唇を啄んで、唇の上を自身の唇でなぞるようにしてから、舐める。
そうしてから、細い首筋にまで唇を落として、強く吸い付いた。瑞姫の上に残った赤い痕に、ちゅ、と口付ける。
「……っあ」
瑞姫は緩い快感に身体を震わせた。
義隆は、顔を上げて瑞姫を見やる。その顔はやはり混乱と困惑を色濃く残していたが、先ほどとは少し違い、その視線の中に一つ強いものが混ざっている。
「瑞姫さん……俺は、あなたが、好きです」
その言葉に、瑞姫は瞠目した。言葉が理解できないわけじゃない。義隆は自分が好きだといった。好きだと……頭の中で繰り返し、たっぷりと間を置いてから、はは、と瑞姫の口から笑いが漏れた。
突然のそれに、今度は義隆が瑞姫を見つめて、不可解な笑いに首をかしげる。
「……瑞姫さん?」
名前を呼ぶと、もう一度瑞姫は笑った。
「お前が俺を好き、か……ははっ」
義隆が眉根を寄せて呟く。瑞姫をじっと見つめる様に、とんだ茶番劇だな、と自嘲めいた笑いを浮かべた。今更すぎる。ここで告白をされたとして、どうすればいいというのか。
瑞姫はどちらともと付き合って楽しめるような性格では、ない。
「それで……?お前はどうしたいんだ?抱かれてやれば、お前は、満足か?自分はどこかの令嬢と見合いをして結婚をするんだろう?その後は?俺を愛人にでもして側に置くつもりか?」
言葉が止まらずボロボロと瑞姫から落ちた。本当に伝えたい言葉なんて、既に何かだなんて瑞姫自身にも分からなかった。ただ、全部が遅い、と時間を呪うばかりだ。今更、と何度も繰り返す。今更、初恋が叶いそうだからと……央亮への気持ちを捨てることも出来ない。
脅しから始まったものはゆっくりと形づいて、央亮へと恋愛という感情を築き上げている。それを今更壊して目の前の男と付き合うなんて、到底無理な話だ。
「どうせ、セックスは初めてでもない。好きにすればいい。俺の身体は男どもに言わせれば、敏感らしい。お前のことも悦ばせられるだろうよ」
「……っ、どうして、そんなことを……!」
瑞姫の声に、義隆が悲痛な声を上げた。可笑しな話だな、と思う。今、襲われそうなのは間違いなく自分だ。それなのに、目の前の男の方が辛そうな顔をする。は、と瑞姫は嘲笑った。
「退け、義隆」
「…………」
「退け」
二度目に瑞姫がそう言うと、義隆は上体を起こした。それでもまだ、その手は瑞姫の腕を捉え直した。瑞姫は身体を起こして、掴んだ手を払う。追い縋るかと思われた手は、あっさりと外れて、ベッドから立ち上がることも邪魔をしなかった。
ただ義隆は、茫然自失といった様で、視線も自分の手へと落ちていた。
自分が働いた無体な行為に驚いているのか、瑞姫の言葉に何か思ったのか──瑞姫に義隆を思いやるような余裕はなかった。
瑞姫はスマホを取り、ベッドから離れるとコートを手に取った。コートの中には、出しそびれたままの財布が入っている。
障子の前に立ち、それを開けて一歩踏み出す。
「俺はね、義隆。お前のことがずっと好きだったよ。…………今でもね。でも、もう、遅い」
それだけ言い残して、足早に玄関へと向かい、外に出る。
帰る時は晴れていたのに、時間がたった今、外はしとしとと雨が降っており、吐き出す息は白い。
傘をさすこともなく、瑞姫はその中へと歩き出した。義隆が追ってくることはなかった。
※
雨の中を無意識に歩いていると、いつの間にか瑞姫は央亮のマンションへと来ていた。
通い慣れつつある場所を見上げて、苦笑が漏れる。
玄関のオートロックを開けてもらい、部屋の前に行くと、扉が開いた。
見慣れた央亮が、びしょ濡れになった瑞姫の姿を見て、驚いて目を開く。
「どうして、こんな寒い日にそんなに濡れて……!入って……!」
手を伸ばして、瑞姫の腕を掴もうとした央亮の手へと、瑞姫が手を伸ばして指同士を絡める。そのまま、瑞姫は央亮を見上げて微笑む。
「央亮、俺をあなたに、全部……あげるよ」
央亮は、数秒、瑞姫を見つめた後に、
「……おいで」
自分が濡れるのも構わずに瑞姫を引き寄せ、扉の内へとしまい込んだ。
その際に、見つけた自分がつけたものではない朱痕に、央亮の目が弧を描いた。
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