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鴇哉がそれを見たのは、偶然だった。
友人が面白い場所を案内する、と連れてこられたのは新宿の繁華街で、そのまた奥にある特殊な界隈だ。男性が女性の格好をしていたり、男同士の恋愛を楽しむ人間が集まっていたり、とおおよそ鴇哉が人生で出会ったことのない類の人間が入り乱れた場所だった。
友人は鴇哉が知る限り、女性との恋愛を楽しむノーマルな人間であったので、どこでこの界隈を知ったかと聞いたら、知り合いに連れてこられた、と話す。
自分たちのような人間でも楽しめるところがある、とさらに奥へと連れていかれて辿り着いたのは雑居ビルの地下にあるバーだった。
ビルの外見は古いせいもあってか随分と汚かったが、階段を降りた先に現れたドアはポートマホガニーで出来たもので、汚いコンクリートに埋め込まれたそれがなんとも不釣り合いで、目を引いた。
扉を潜ると、外とはまるで世界が違い、今度はドアに見合ったシックな内装だ。
カウンター席が十席の四人掛けのテーブルが二つと、決して大きくない店だが、静かに流れるジャズが内装とあっていて、カウンターの端には色とりどりの花で出来たアレンジフラワーが飾ってある。総じて言えば──趣味が良い。
鴇哉は、へぇ、と店内を見回しながら溢した。
「お前好きだろう?こういう雰囲気」
にか、っと笑ったのは此処へと導いた張本人の染谷柊一だ。染谷とは学生時代からの付き合いで、鴇哉の実家ほどではないが、やはり彼も御曹司と言って過言ではない出身の男で、線の細い優しげな目をした風体だ。背丈は鴇哉よりやや低かったが、高身長と言える。
「まあ、そうだね。しかし、本当に大丈夫なのか?こう・・・なんというか」
やはり気になるのは自分たちの性嗜好の違いだ。正直、何か問題に巻き込まれるのはごめん被りたい。この界隈の人間をどうこう、というわけではないのだが、何せ自分が知らない領域だ。けれど、染谷はそんな鴇哉に向かってまた笑った。
「ここは大丈夫さ。俺たちみたいな普通の輩でも楽しめるさ。そうだろ、佑月ママ」
佑月ママと呼ばれた男が、鴇哉に向かってニッコリと微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ。男でも女でも、そして誰を好きでも楽しめる店ってのがウチの売りよ。いらっしゃい、染谷さん。今日はまた良い男を連れてきてくれたわねぇ」
気さくそうに話す人物は背が高く、骨格がしっかりとしていて、それで男だと判別がつくものの、長い髪を後ろで綺麗に纏めた和服の美人だった。少し細い目が特徴的で、長く見つめられると、そちらのけはない鴇哉も少しどきりとしそうだ。
どうぞ、と勧められる席に染谷とは二人で座る。
「何をお飲みになる?染谷さんはいつもの?」
「ああ、それで。こいつにも同じのを」
いつもの、と言われるあたりすでに顔馴染みのようだ。染谷の様子に軽く苦笑を漏らしながら、鴇哉は染谷の肘を自分の肘で突いた。
「どんだけ通ってるんだい、お前」
「あーまあ、週に何回か?なーんか居心地が良くてな。それにママが美人なのが大きいな」
「へぇ。まあ、恋愛は自由だ。俺に惚れないのならば問題ないさ」
揶揄うように笑えば、染谷は眉を顰めたが、次の瞬間に一緒に笑った。それを見ながら佑月が手際よく二人の前にグラスを出した。クラッシュされた氷がふんだんに使われ、底から上へと透明から朱色に変わる美しいもので、セルベッソニコラというカクテルだ。
「どうぞ。お二人は仲が良いのねぇ」
「はは、まあね。何せ鴇哉は中学からの腐れ縁だ」
「違いない」
そうやって三人で談笑している時、ドアが開いた。佑月がそちらに目を向ける。
「あらぁ、溝内さんじゃない」
「やあ。ああ、あの子は来てないんだ?」
染谷と鴇哉もそちらへと目を向けた。そこには真面目そうなサラリーマンが中を窺うように見ましている。
「あの子なら今日はまだ来てないわね。なんだか最近、一緒よね。仲良くなったの?」
「まあ、そんなところかな。そうか、いないなら今日はお暇しようかな・・・ああ、そうだこれ」
鴇哉がチラリと男を見る。一見真面目そうではあるが、それが本性かと言われれば、なんだか違和感があった。そう装っているような気がする。しかし溝内、と呼ばれた男もまた常連ではありそうだ。自分には関係ないか、と鴇哉はグラスに目を戻す。染谷も興味がなかったのか、鴇哉と同様に目を戻した。
鴇哉の目端で、男は佑月へと紙袋に入ったものを渡した。
「あらぁ、アタシが好きな羊羹じゃない!」
「たまたま店の前を通りかかってね。ママが好きなのを思い出して」
「悪いわねぇ。今度サービスするわ」
「そりゃ、ありがたい。じゃ」
そう言って店から出て行く。
佑月はその男が出て行ったのを見てから、少しばかり眉を寄せた。それを見た染谷が、おや、と声を上げる。
「なんだい?何か心配事でも?美人が台無しじゃないか」
「染谷さんは上手いわねぇ。今の彼、良い人なんだけどねぇ……なんというか、ちょっとね。今、ここに来てくれるえらい美人な子にお熱なのよ」
「へぇ。それはなんか悪いことがあるのかい?」
「んー、まあ、少し……束縛というか執着というか……そういうのが、ね。ここでも何回か問題起こしてるから……あらやだ、アタシったら。さあさ、飲んでちょうだい」
気分を変えるように、佑月は微笑みつつ、酒をすすめるように手を二人へと振った。色々とあるものだな、とその時鴇哉は軽く思っただけだった。
なので、鴇哉が見たのは偶然だったのだ。
全員で可愛がっている末の弟が、先ほどの男とラブホテルに入って行くのを見たのは。
※※※
鴇哉が自宅へと帰り着いたのは、そう遅くもない時間だった。お互いに次の日も仕事があると思えば、染谷との飲みはあの一件だけでお開きとなったのだ。
帰りに染谷が何かを話していたように思うが、正直なところあまり覚えてない。
それくらいに、末弟の行動は鴇哉に衝撃を与えていた。
酔っている様子も嫌がる様子も弟には見られなかった。尤も離れていたので確実ではないが……とはいえ、鴇哉が知る限り瑞姫は酒に弱いわけではない。なんなら、酒豪である一番上の兄とも互角に渡り合えるくらいには飲める。となれば、酔って……という線は消えるようにも思えた。
瑞姫の同意なしでの連れ込みともなれば、一般人にとってそれはさらに難しいだろう。というのも、白田の家に生まれた男児は等しく幼い頃から武道を叩き込まれる。
それは瑞姫にしても一緒であり、弟もまた剣道と居合の有段者で、それに加えて護身術も嗜んでいる。多少酔っていても素手の男数人くらいは薙ぎ倒せるのだ。自分の意思なら仕方ないが、いかんせん、鴇哉には未知の世界だ。
それだけならばまだしも、鴇哉が気に掛かっているのは相手のことだ。
『んー、まあ、少し……束縛というか執着というか……そういうのが、ね。ここでも何回か問題起こしてるから……あらいやだ、アタシったら。さあさ、飲んでちょうだい』
佑月の言葉がどうにも引っかかる。
瑞姫を見たのはあの店を出た後だったので、また聞きに戻るわけにもいかなかった。そして、あの真面目さを装った姿ーー胡散臭さが消えなかった。いや、と思いながら鴇哉はため息をついた。人を外見だけで判断するのはよくない。ましてや恋愛関係にあるのならば、今は静観するべきなのだろう。
しかし……、と思い切ることも出来なかった。仕方ない、ともう一度ため息を吐いて、鴇哉はスマホを手に取った。
連絡先から一件を選び、押す。3コールもしないうちに、相手は出た。
「おや、早いね。義隆。少し良いかい?」
「こんばんは、鴇哉さん。どうされましたか」
電話の向こうにいるのは、家臣筋である糸島家の長男であり、学生時代は瑞姫のお付きであった糸島義隆だ。声からしてもその真面目さは伺えるほどで、バーで見たのが亜流の真面目人であるならば、生粋の真面目人というのはこういう人物を言うのだろうな、と鴇哉は思う。
「ちょっと頼みがあってね。仕事は今・・・忙しいかい?」
義隆は身内贔屓を嫌がって白田のグループには就職せず、やはり白田と同じく大企業筋であるグループの系列会社で働いている。自社ならばともかく、他社のことは内部までそうそうわかるものでもない。
鴇哉がそう尋ねると、少々お待ちを、という言葉が返ってきた。スケジュールを確認しているらしい。数十秒後。
「いいえ、今はそうでもないですね。何か用向きでもありますか?」
「そうか。じゃあ・・・手数をかけてすまないのだが、少しの間、瑞姫を頼めないか?」
「瑞姫さんを、ですか?何か問題でも?」
今はお付きという立場でもない以上、義隆が不思議に思うのは無理はない。しかし全てを話すわけにもいかず、うーん、と鴇哉は少し困ったように唸った。
「まあ、色々と悩みがあるらしい。私たちだとどうしても遠慮してしまうようでね……。それで幼い頃から近しい義隆に頼みたいのだが……無理だろうか?」
ざっくりと、そんな言葉を義隆に鴇哉は投げかけた。義隆は少しばかり考えるように時間を置いたが、
「承知しました。明日にでも声をかけてみます。俺でお役に立てるかはわかりませんが……お任せを」
そう答えた。鴇哉は、ありがとう、と返し通話は終わった。
義隆といる間は、瑞姫もおかしなことはすまい、と過保護な考えからの判断だったが、今はこれくらいしか鴇哉には浮かばなかった。
ふう、と数度目のため息をつく。なかなか重い秘密を知ったものだ、と天井を仰ぎ見た。そういえばバーで見た男は、先ほど話した義隆と顔のつくりもどことなく似ているな、と鴇哉はぼんやり思った。
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